あ……
私は夕陽に照らされた横顔に、いつもと違うものを感じて私は岩戸さんの顔に見入ってしまった。
本当は、そんな風に彼のことを言えるほど、まだ沢山のことを岩戸さんについて知っているわけじゃない。ううん、まだ、何も知らないと言ってもいいくらいかもしれない。でも、今日一日、一緒にいて……ちょっとだけ、彼の心に近づけたような気がする。だから、いつもと違う表情を感じて、すごく気になった。ハンドルを握って、前を見つめている様子は、いつもと同じ……私を気遣って優しく、人柄そのままのような運転をしてくれているのに。多分、表情だってそんなに変わらない、はず。なのに、何故かな……夕陽のせいか、なんだか、そう『憂い』を帯びたように見えて、私まで切ない気がした。
彼のちょっとした仕草や、表情がとても気になってしまって、つい見つめてしまう。ささいなことに気付いては嬉しくなってしまう。何故? という理由は、考えるよりも岩戸さんと一緒にいると浮き立ってくる心が知っているような気がした。
「どうか、した?」
ぼんやりと、そんな岩戸さんに見惚れていると、視線に気付いたのか運転席の彼が笑って問いかけてくる。優しい笑顔を向けられると、どぎまぎしてしまって私は慌てて顔を前へ向けた。
「あ、あの、夕陽がとってもきれいだなって……見とれてしまってました」
まさか、あなたの顔に見惚れていました、なんて言えるはずもなくて、適当なことを言って誤魔化してしまって。でも、岩戸さんはおかしいとは思わなかったようで
「そう?」
と言って微笑んだ。また視線を道の先へ向けた岩戸さんを、私はちらちらと見つめる。その横顔はまた、考え深いように何か思い詰めているように見えて、やっぱり目が離せなくなった。
「僕もね……ちょっと考え事してた。夕陽には想い出があって」
哀しい想い出なのかな、と思ってつい、失恋? なんてことを想像してしまう。でも、岩戸さんに誰か好きな人がいたかも、なんて思ったら胸が苦しくなってしまった。

優しい人で、穏やかな人で、周りの人をいつも気遣って、傍にいるだけでなんだかとても安心出来る人。出逢ってから今まで、私が感じてきた岩戸さんはそんな人。今日一日を一緒に過ごして、やっぱり、優しくて、笑顔が素敵で、意外なことをいっぱい知っていて、車のことと仲間のこと、それから植物のことを話し出したら、どこか少年みたいになっちゃう人、って思った。こんな人に出会えただけで、思い切って読者レポーターに応募して良かったなって思える。

そう、私が南極出版の雑誌読者レポーターに応募したのは、なんだか平凡な毎日とつまらない自分を変えてみたいって思ったからだった。平凡な毎日にさよなら、って言ってもそんな簡単に何かできるわけじゃない。でも、たまたま読んでいた雑誌で目に付いたのが、この「読者レポーター募集」の記事だった。読者モデルは無理でも、レポーターならできるんじゃないかな? そんな風に私は考えて、応募してみたのだ。自分の感じたことを文章にするなら、下手でも頑張ればなんとかなるんじゃないかって思って。想像していたのは、女性向けの雑誌なんだし流行のスイーツのお店で美味しいものを食べたりするんじゃないかっていうくらいのものだったけれど、実際に言われたのは、レーシングチームの取材だった。それを聞いた時は、本当に驚いた! だって、私は免許は持っていてもペーパードライバーな、本当に車とか機械とか苦手でさっぱり何も知らない人間だったから。でも、南極出版で私を担当してくれる伊達さんは
『何も知らないってことが重要なのよ。読者と同じ目線で、あなたが感じた素の彼らのことを書いてほしいの』
と言ってくれて。だから、私もわからないなりに頑張ってみようって思った。だって、せっかく今を変えたいって思って、その一歩を踏み出すチャンスが巡ってきたのだもの。
でも、まさか一人で取材に行く羽目になるとは思ってもいなくて、初日は大失敗をしてしまった。本当にレースのことなんて何も知らなかった私は、メインドライバーの加賀見さんやサブドライバーの中沢さんにとっても失礼な取材申込をしてしまって。今でも思い出すと、本当に申し訳なくなってしまうのだけれど。すごく心細くて情けない気持ちになってしまっていたのだ。でも、テストドライバーの鷹島さんが話をしてくださって。そして、取材が不首尾に終わったのがまるで自分の責任みたいに謝ってくれたのが岩戸さんだった。本当は、あの日、誰からも相手にされなかったらその場でレポーター投げ出したくなっていたかもしれない。でも、励ましてくれて、『また、取材に来てよ』って岩戸さんが言ってくれたから……ちゃんと投げ出さずに、やり遂げなくちゃって思えたの。
初めて会ったときから、優しい人だなって思ってた。
その後、取材で何度かピットを訪問して、チームの皆さんのことも少しずつわかってきて感じたのは、岩戸さんって、本当に誰に対しても分け隔て無く優しくて、忍耐強く接する人なんだなっていうこと。いくら自分が忙しくても、ちゃんと人の話も聞いて出来る限りのことをしてあげてる。チームの皆さんも、そんな岩戸さんのこと、とっても信頼してるんだなって思った。鷹島さんなんて、岩戸さんよりも年上の中沢さんのこと『アル』なんて呼んでるのに、岩戸さんには『カズさん』なんてお兄さんを慕っているみたいで、微笑ましいなって思った。中沢さんと岩戸さんは同年代で、無口な中沢さんとは交わす言葉は少なくてもお互いに通じ合ってるって感じがして、男同士の友情っていいなって思えてなんだか羨ましく感じたり。加賀見さんも、岩戸さんの技術には全面的な信頼を置いてるって感じで、チームっていいなって思った。出走前のナーバスな時間でも、岩戸さんが声をかけるとどこか空気が和らいで、彼の周りの空気は居心地が良くて、きっと皆もそうなんだろうなって思った。
変に落ち込みやすい私は、岩戸さんにも迷惑をかけてしまったりしたけれど、いつも誠実に対応してくれて、そんな一つ一つの出来事を重ねていくごとに、岩戸さんのことをもっと知りたいって思うようになっていた。

だから、今日一日、ずっと岩戸さんのこと独り占めできたのがすごく嬉しかった。いつもよりも近い距離から、岩戸さんの横顔を見つめて、今まで知らなかった表情を見ることができて、それだけで彼に、彼の心にほんの少しだけでも近づけた気がした。
切なげな顔、無邪気な笑顔、ちょっと照れた顔、そしてどこか憂いを含んだ顔。
ずっと今も、笑顔が好きだな、と思うし、笑顔を見たいなって思うけれど……でも、そうじゃない、もっと色んな岩戸さんの顔を見たいなんて思ってしまう。もっと、岩戸さんに近づきたい、と。

だから……岩戸さんの昔の彼女の話、だったりなんかしたら嫌だな、なんて思いながらも
「夕陽に、想い出、ですか?」
と尋ねてしまった。だって、岩戸さんのその表情の理由を知りたかったから。
「うん……」
そう言って岩戸さんは言葉を続けた。
「こんな夕陽だったんだ、僕が、加賀見さんと初めて出逢った時も。
 そして、その時だったんだ、僕が加賀見さんのチームに入ることになったのは……」
加賀見さんとの想い出だということに、ちょっと安心したけれど、でも、びっくりもした。加賀見さんと岩戸さんが初めて出逢ったときの想い出……しかもその日が、岩戸さんがオングストロームに入った日だなんて……でも、どうしてそんな想い出が岩戸さんを憂い顔にさせるの?
「その頃僕は、仕事でミスをしてしまって……
 自分がどうしても許せなくて。車の世界にはもういられないと思って旅に出ていたんだ……」
淡々と話す岩戸さんだったけれど、その声も表情もどこか硬くて……何より、その話の思いもよらない内容に、私は何と言っていいかわからなくなっていた。車に向かう真剣な眼差しも、仕事に打ち込む真摯な姿も、岩戸さんの車への愛情と仕事への誇りを何よりも表していて、本当にメカニックという仕事が天職なんだなって傍で見ていても感じるのに。そんな岩戸さんが、この世界を離れようとまで思った出来事があったなんて。それが、どんな出来事なのかは岩戸さんは言わなかった。ただ、加賀見さんとの出逢いが……岩戸さんを車の世界へ戻るきっかけとなったということだけ。夕焼けを見つめる憂い顔は、そんな過去の苦しいことを思い出してしまったから、なのかな。
「……ごめん、なんだかまたちょっと重い話になっちゃったね…
 あんまり、こういう話は人にしないんだけど、ほんとごめんね」
黙って聞いていた私に気を遣ってか、岩戸さんはちょっと困ったような顔をして笑った。私は慌てて首を振る。
「そ、そんなことないです。そんな……そんな辛かったお話とか聞かせてもらえて嬉しいです」
それは本当の気持ち。岩戸さんのこと、もっと知りたいから、そんな風に心を見せて欲しいから。でも、それだけじゃなくて何かもっと伝えたくて、私は言葉を続けた。
「岩戸さんの笑顔って、皆を和ませる力があって、それは何故なんだろうって思ってたんです。
 でも、きっと、過去には辛いこともいっぱいあって、でもそれを乗り越えて今は前向きに頑張ってる
 岩戸さんがいて……
 辛いことがあった分だけ、人の痛みもわかるから優しくなれるんだなって思って、だから、あの……」
一生懸命、言葉を探すのだけれど、情けないことになんだか言葉が上手くつながらなくて。なんて言えば私のこの気持ちを岩戸さんに伝えることができるんだろう、ってすごくもどかしくて。でも、岩戸さんはそんな私の言葉をただ黙って聞いてくれていて、それが、かえってなんだか恥ずかしくなってきてしまって、私は息をついてしまった。
「だから! だから、あの……ほんとに、私、何を言ってるんでしょうね、ごめんなさい。
 あの、だから……つらいことを乗り越えて、前向きに頑張っている人の笑顔は
 皆に力を与えてくれるんだなって思ったんです。そんな素敵な人に私も近づきたいなって……」
なんだか無理矢理纏めてしまった私は、どきどきする心臓を鎮めるために深呼吸をした。岩戸さんに、変だって思われなかったかな、と心配になってちょっと様子を伺ってみると、岩戸さんは少し驚いたような顔をしていたけれど、私を見て優しく微笑んでくれた。
「ありがとう、そんな風に言ってもらえると、すごく嬉しいよ」
それで、私の心臓はますますどきどきしてしまった。

楽しい時間は本当にすぐ過ぎてしまって。車は私の家の前に到着してしまった。
「はい、到着……しちゃったね」
そう言う岩戸さんの声もどこか残念そう……に聞こえたのは私の願望かしら。車から降りて
「今日は本当にどうもありがとうございました」
ぺこり、と頭を下げる。朝はあんなにわくわくしていたのに、今はとっても寂しい。本当に、どうして楽しい時間はもっと続いていかないのかな。
「じゃあ、またね」
にっこり微笑んで岩戸さんが運転席で手を振ってくれた。「はい!」と返事を返して、私も釣られて手を振った。そのまま車を見送って、遠ざかるエンジンの音を聞きながら、テールランプが見えなくなっても岩戸さんが行った道の先をずっと見つめていた。
『また、一緒に何処かに出かけない?』
聞き間違いじゃない、そう言ってもらえたことがとても嬉しい。もっと近づきたい、一緒にいろんな話をしたい、岩戸さんのこと知りたい。そんな風に思っているのは、私の方だけじゃないって自惚れてもいいのかな。そんな風に考えたら顔が熱くなってきた。夜風が火照った頬に触れてちょっと心地よくて、私は目を閉じる。
浮かんでくるのは、今日知った岩戸さんのいろんな表情ばかり。他の人なら見逃してしまったかもしれないような一瞬の表情の変化が、どうしてこんなに気になるんだろうって不思議だった。
でも、今ならわかる。
……岩戸さんのこと、きっと、好き、になりかけてる……好き、になってもいい、のかな
あの笑顔が好き、優しい声が好き。憂い顔になるとどこか寂しそうに見えるのも、今日知った岩戸さんが抱えている心の痛みも、もっともっと知りたい。考えるほどに切なくなってしまって、きっともう、『友だちの好き』に戻るなんて難しい、って感じた。

また、岩戸さんの車の助手席に乗せてくれますか? 
いつか、岩戸さんの車の助手席を私の専用席にしてくれますか?

そんな風に心の中で尋ねてみて。その答えがYESだったら嬉しいのに、って思いながら、私はやっと家に向かって歩きだした。




恋をした2人のためのお題−10 for lovers−より

「左側から見た横顔」ということで、助手席から見た運転席のあなたの顔、をイメージしてみました。
最初のデートのときから、なんだかすごく初々しくて可愛い二人で。
お昼買うときに、「君のおにぎりの方が……」とか言って照れるカズさんがかわいすぎ。
女性慣れしているんだか、していないんだか、よくわからないところもなんともいえない。
でも、最初のデートに誘うのって、確かにちょっと唐突な感じもして、案外積極的ね、と
カズさんの性格を思うと感じたりもするのだけど、その後のメール内容を思うと
いや、実は案外積極的な性格なのかも、と思い直したりもして。


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