待ち合わせの時間まであともう少し。多分、その時間までには彼女のところへ到着できるだろう。あまり心配そうな顔をしていなければいいけれど。そういえば、前に待ち合わせた時はちょっと緊張したような顔して待っていたっけ。すっかり暗くなった道を3度目になる彼女の家に向かって和浩は車を走らせていた。今日は仕事を時間までに終わらせるために、昼食もそこそこに作業を続けたので、少しばかり空腹だったけれどそんなことはどうでもいい。早く彼女のところへ行ってあげなくちゃ、と今日はそのことばかり気になっていたから。でもそれは、彼女を助けてあげたいという気持ちだけではなくて、彼女に会えるという嬉しさも入り交じっているのではないだろうか? 例えば、つい最近、疾斗に言われたことにも関係があるようなことだけれど。
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「カズさん、最近機嫌良くない?」
マシンの下に潜って調整を続ける和浩に向かって、ガレージの隅に置いてあるパイプ椅子に座ってその様子を眺めている疾斗が言った。
「え? そうかな」
どきっとしたものの平静を装って和浩は疾斗に返事を返す。なるべく動揺は見せないようにしたものの、一瞬手にしたパーツを落としかけてしまった。
「そうだよ。なんか、先週末くらいからかな。いいことあったんスか?」
あるにはあったが、そんなこと口にして疾斗にからかわれては堪らない。それに彼女だってこれから何度か取材でここへやってくるのに迷惑にもなるだろう。だから適当に誤魔化すにこしたことはない。
「先週末はほら、久しぶりに休みだっただろ? お気に入りの植物園に行って癒されてきたんだよ」
「なーんだ。それにしてもカズさんの植物好きは相変わらずっスよねえ。
ま、でも久しぶりに出かけてゴキゲンになるってのは良くわかるなあ。俺も久々カート行きてー!」
ぐんと座ったまま伸びをして疾斗が言う。植物園に行ったのは本当。癒されてきたのも本当。ただし、一人で行ってきたわけではない。
(……嘘は言っていないよな。本当のことも言ってないけど)
車の下に潜っているので疾斗から顔が見えないのに感謝しつつ、和浩は袖口で額に流れる汗を拭った。しかし、疾斗に言われて自分自身、ここ数日、何時も以上に気持ちが上向きだったことに気付いた。
(……彼女、のおかげかな)
なんとなく、気になる彼女。南極出版の香西ひとみのことである。まだ若いチームであるオングストロームにとっては、雑誌の特集などで注目されることは有難いことだ。新しいスポンサーを掴むきっかけになるかもしれないし、今現在のスポンサーからも雑誌に写真が出れば収入が入る。その点、早い段階からオングストロームに目をかけてくれている南極出版と伊達には本当に世話になっているのだ。だから今回の読者レポート取材の話もチームで話し合ったが特に受け入れを問題にすることなくすんなり決まった。そして、やってきたのが香西ひとみだった。サーキットで所在なげに困った様子をしていた彼女に、そうと知らずに声をかけたのは和浩だ。良く見かける黄色い声援を加賀見や航河に送ってくるファンとも、慣れた様子の取材陣とも違って、なんだか間違ってやってきてしまいました、というような戸惑いを漂わせていた様子が、つい声をかけずにはいられなかったのだ。それが話に聞いていた南極出版のレポーターだったのは偶然だなとは思ったけれど、普段サーキットでは見ないタイプの女性に、新鮮な気がしたのも本当だった。車のこともサーキットのことも何も良く知らない、と言っていたひとみだったが、しかしとても真摯に取材に取り組み、メンバーのことも理解しようと努力している様子が折に触れて感じられ、頑張って欲しいなと素直に思うようになった。自分たちの記事が大きく雑誌に取り上げられる、というよりも、ひとみの仕事が上手くいくといいな、と思うようになったのだ。その後、偶然に彼女と共通の趣味……ハーブ栽培を知って益々親近感を感じるようになってしまった。もともと先日の休みには一人で植物園にでも出かけようと思っていたのだが、彼女にも見せてあげたいと思って誘ってみたのだ。そのときは、単に彼女も興味あるかな、という程度の軽い気持ちのつもりだったのだが後から考えるとアレはデートに誘ったようなもので、唐突に思われなかっただろうかとちょっと冷や冷やした。でも彼女は快くオーケーしてくれて、一緒に出かけたのだが。和浩の話を、楽しそうに聞いていた彼女の姿を思い出すと、それだけで気持ちが高揚してくるのだった。また、週末には彼女が取材でやってくると思うと、頑張ってマシンも仕上げておかなくちゃ、と気合いが入ってしまう。そんなわけで、疾斗に指摘されるような状態に陥っているのだった。疾斗に言われるということは、そうしたことに疎い航河はともかく加賀見にも気付かれているかもしれない。参ったな、と考えつつも、どうしても心が浮き立つのは止められそうもなかった。
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そして今朝。洗面所へ向かう途中でテーブルの上に置いた携帯の着信ランプが瞬いているのに気付いた。メールが来ているのかと思って携帯を手にとった和浩は差出人名の名前を見てその場で内容をチェックする。それは、ひとみからのメールだった。送信日時は昨晩。内容は……随分と慌てた様子で育てているバジルがしおれてしまったと書いてある。昨晩気付いてあげれば良かったと和浩は、彼女が今頃随分と心配しているだろうと思って後悔する。とりあえず、文面ではどんな様子かわからないので、返事をすぐに送信した。まだハーブを育て初めて間もなくて、初心者だと言っていた彼女だけれど、送られてきたメールを見ればきっと一生懸命世話をしていたに違いないと思われた。かなり慌てた様子で、彼女のことだから随分と落ち込んでいるのではないかと思うと、本当ならメールももどかしく思えて、携帯を手にその場で悩む。とはいえ、朝から電話をするのもきっと慌しい時間帯に迷惑なことだろう。しばらく待つと、またメールが着信した。彼女だ。
昨日の夜よりは落ち着いた内容だったが、やはりあまり要領を得ない内容でどうアドバイスしたらいいものか和浩は考え込んだ。それより何より、その場に駆けつけたい衝動が湧き上がってきていて居ても立ってもいられない気がしてきて、
(とりあえず、実物を見てみないと何も言えないな)
と言い訳のように考えて、夜に様子を見に行くと彼女にメールを打ちはじめる。彼女が気を遣ったり警戒しなくてもいいように、外で待っていてくれればいいと追加して。メールを送信してから、今日の調整の予定を頭の中で考える。多分、なんとかなるだろう。いや、なんとかしてみせる。しばらくして送られてきた返信には、待っています、という彼女の返事。安心したのか、ほっとしたような文面とひどく喜んだ様子でありがとうございます、の文字。その言葉を読むだけで、先日の植物園で見た彼女の笑顔が思い浮かんで、和浩は微笑んだ。彼女の力になってあげたい、不安を取り除いてあげたい。単に趣味を同じくするガーデニングの先輩としてのアドバイスを、というだけではなくてそんな風に思っている自分がどこか不思議だった。まだ、出会って間もないというのに。
そして今日は、疾斗に「カズさん、昼飯食わないの? オレ、食っちゃっていい?」と言われても何も文句を言わないくらいに集中して整備をやり通して、なんとか時間に終わらせたのだ。元々整備を始めると熱中してしまう性質ではあったから、今日のスケジュールを詰めるのも苦ではなかった。「カズさん、夕飯一緒に食いにいかねー? 昼もあんまし食ってなかったじゃん」という疾斗の声に「ごめん、ちょっと今日は帰るよ」と言い置いて急いで車を走らせた。怪しいなーとか、なんとか言う声が聞こえたような気がしたけれど構っていられない。思い浮かぶのは、最初に出逢ったときと同じ、途方に暮れたような彼女の顔ばかり。なんとかしてあげたくて、笑って欲しくて、今すぐにでも飛んでいってあげたくなってしまうような、彼女の顔ばかりだ。
待ち合わせの時間まであともう少し。多分、その時間までにはひとみのところへ到着できるだろう。あまり心配そうな顔をしていなければいいけれど。そういえば、前に待ち合わせた時はちょっと緊張したような顔して待っていたっけ。ライトで照らした道の端に、しゃがみこんでいる姿が見えた。その横顔は頼りなげで、取材のときにピットで出会う少し緊張気味の、でも前向きな気持ちに満ちた顔でもなく、先日のプライベートな時間に見た、少し照れたような、でも晴れやかな笑顔でもなくて、和浩はどきりとする。車を止めて、運転席から降りるとひとみが顔を上げた。ひどく済まなそうな顔をしている。
「大丈夫?」
声をかけてその傍らに歩み寄りながら、和浩は思った。こんな顔をしていて欲しくないんだ、と。こんな顔をしていて欲しくないから、きっと時間がいつでも、難しくても、遠くても、彼女が困っていたら何とかしてあげたくなる。笑顔で居て欲しい。でも、その彼女の落ち込んだ表情が、ハーブがしおれてしまったことが原因なのではなくて、忙しいであろう和浩の都合を考えずに世話になってしまったからだということが判って、彼女らしさに微笑む。
「気にしないで。僕が来たくて来たんだから」
それは本当の気持ち。彼女はわかっただろうか? そうだ、彼女が困っているのを助けてあげたくて、それ以上に彼女に会いたくて、自分はきっとやって来た。彼女のことがもっと知りたい。彼女と話をしたい、一緒に居たい、笑顔を見たい。
やっと笑顔になったひとみを見つめて、和浩は急速に自分の中で育ちつつある思いに戸惑いつつもそれを認めざるを得ない気持ちになっていた。
最初の待ち合わせは、少し緊張した顔だった。二度目の今日は、どこか落ち込んだ顔。次の待ち合わせでは、飛び切りの笑顔で僕を迎えて欲しい。そして、そんな待ち合わせがずっと何度もあればいい。少し上気した頬をして、安心したような笑顔を自分へ向けるひとみを見つめて、和浩はそんな風に思ったのだった。
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