「おはようございます」
ひとみは、元気良くオングストロームのピットに入ると同時に挨拶をした。取材のためにサーキットに通い始めて暫く立ち、最近は随分と慣れてきたし取材のためだけでなくレースを楽しむ余裕も出来てきた。
「やあ、香西さん、おはよう! いつも遠い所をご苦労さま」
ピットで最終調整をしていたのだろう、岩戸が立ち上がってひとみに言葉をかけてくれた。
「岩戸さん、おはようございます。他の皆さんは?」
その笑顔にひとみの心拍数があがり、頬が熱くなる。それを悟られないように慌てて言葉を返した。岩戸の方がひとみほど意識していない様子で、いつもと変わらないので余計に自分が恥ずかしい。
「航河は多分、外かな。集中するために一人になることが良くあるんだ。
 疾斗は買い出し、加賀見さんは本部へ行ってる。皆元気だし、調子もいいよ。
 ところで、今日の取材は内容はもう決まっているの?」
額の汗を袖で拭いながら岩戸が言う。ひとみは、その言葉にばさばさと資料を取り出して内容を確認するようにしながら
「はいっ、あの、今日はレースの様子を取材させていただきたくのとっ、あの、
 終わったあとで簡単にお話を、伺いたいなと思ってて……」
と答える。慌てた拍子に、手にした資料を落としかけてしまって膝で受け止め手で押さえ、ひとみは自分の落ち着きのなさに顔を赤くした。岩戸もそんな様子のひとみに、手を止めて傍らへと足早に寄ってきて落ちかけた資料に手を添える。
「大丈夫? ごめんね、今日の予定聞かせて欲しいって催促しちゃったかな。
 前みたいに、うちの不手際で香西さんに取材してもらえなかったりしたらいけないと思って。
 何かわからないこととかあったら、何でも尋ねてね」
岩戸の手から資料を受け取って、ひとみは恐縮して何度も頷いた。
(岩戸さんって、ほんとに優しい……私が手際が悪いだけなのに、気をつかってくれて。
 これだけいろいろお世話になっているんだもの、ちゃんと頑張って取材していい記事書くようにしなくちゃ)
資料を揃えてもう一度その内容に目を通しながらひとみはそんな風に思った。
「もうちょっと時間もあるし、椅子に座って待ってて。あ、そうだ、ちょっと待ってね」
「あ、あの、岩戸さん……」
ひとみが資料を手にしてぼんやり考えこんでいる間に、岩戸はピットの片隅から折りたたみの椅子を持ってきてひとみの傍らに置いて座るようにと促し、それからまた足早に何処かへ向かおうとする。調整の途中だったと思うのに自分が来たばかりに手を止めさせてしまって、ひとみは申し訳なく声をかけるが岩戸は全然そんなこと気にする様子もなく、今度はペットボトルのお茶を持ってきてひとみに手渡した。
「はい、これ。今日も暑いし、来るのに時間かかって大変だったでしょ。飲みながら休んでいてね」
「……はい、あの、ありがとうございます」
ペットボトルを受け取るときに、指先が触れ合ってひとみはまた自分の頬が熱くなるのを感じて俯いた。それに気付いたのか気付いていないのか、岩戸はまた車の元に戻ると
「何かあったら声をかけてね」
と言うと作業に戻った。ほうっと息をつくとひとみは、岩戸が用意してくれた椅子に腰を下ろす。ペットボトルを空けもせずに手にしたまま、ぼんやりとまた作業を続けている岩戸を見つめた。いつもと違う、少し早くなった鼓動が響いているけれど、それは心地よく思えた。優しい笑顔から打って変わった、真剣で厳しさも感じさせる岩戸の表情に引き寄せられる。
仕事に打ち込む男の人を、格好良いと思ったのは初めてかもしれない。
ずっと、その姿を見ていたい、そんな風に思いさえする。
今まで自分とは全くかかわりのなかったレースの世界。そこに何もわからないままに飛び込んだひとみだったが、何よりも心を打たれたのは、オングストロームというチームのレースに賭ける想いにだった。彼らの熱い想い、彼らにそこまで思わせるサーキットの魅力をもっと知りたいとひとみに思わせ、そして、彼らの想いを読者に伝えたい、と思わせた。そんな中でも、レースの花形となるドライバーもだけれど、チームを陰で支えるメカニックという仕事にひとみは心惹かれた。……メカニックという”仕事”に惹かれたのではなく、それに一心に打ち込む、物静かで優しい岩戸に惹かれたというのが正しいかもしれない。
機械のことも車のこともさっぱりわからないひとみにとっては、岩戸のしていることはまるで魔法のようにさえ思える。無駄のない、迷いのない動きでパーツが組み立てられ、あるいは分解され、工具を掴む手が動いていく。
その動きが洗練された美しいものに見えてしまうのも不思議ではあったけれど、それをもっと近くで見たくて、そろそろとひとみは椅子をずらして岩戸の作業の邪魔にならない、けれど良く見える位置にまで動かした。
(……やっぱり、こういうこともちゃんと見ておかないと、本当に私、何もわかっていないから……
 もうちょっと岩戸さんがお時間ありそうなときに、いろいろ聞いたりしたいなあ)
多分、彼なら喜んでいろいろと説明してくれるだろう。もちろん、それを自分が全て理解できるかどうかは別の問題として。ただ一番の問題は、自分の中でそれが……仕事の一環としての純粋なる興味なのか、その範疇を超えた、岩戸個人への興味から生まれるものなのか、が最近曖昧になってきていると思える点だった。
例え読者レポーターといえども浮ついた気持ちで仕事をこなしたくはないけれど、動機が個人的なことであっても車のことを知るのは取材に必要なことでもあって。何も岩戸を意識していなければ悩むこともないのだろうけれど、今はなんとなく後ろめたさが付いて廻ってしまう。取材に関係ないときならなあ、と思ったひとみは、ふと思いついて考える。
レースは週末の土日に行われるが、常に取材予定があるわけではない。例えば今日は取材予定日でひとみはサーキットへやってきたけれど、明日は取材の予定はない。ならば、明日、取材ではなく応援に「プライベート」として来ればいいのではないだろうか? そして、そのときにいろいろ話を聞けば良いのでは?
(そうだ、そうしたら、取材のための勉強にもなるし、取材自体はちゃんと終わっているから問題もないよね)
ほっとした気分でひとみは椅子に座り直し、持ってきた資料を取り出した。ざっと目を通しながらも、意識はやはり岩戸の方を向いてしまう。資料を手にしたまま、ぼんやり眺めていると、ふと目が合ってしまった。慌てて視線を手元の資料に落とす。
「ごめんね、退屈でしょ」
苦笑しながら岩戸が言う。
「いえっ、そんなことないです。むしろ、私の方こそ、お邪魔じゃないですか?」
「まさか、そんなことないよ。それよりほんと、退屈じゃない?」
「大丈夫です。資料見直したり、してますから。あの、それに、岩戸さんがお仕事しているの、見ていて飽きませんから」
つい、最後の一言は口が滑ってしまった。
「えっ、や、ちょっと、そんな注目して見られてたの?」
「あっ、いえ、本当にメカニックさんってすごいなーと思って、っていうか……。
 感心して見てたら時間も忘れちゃいます。……って、あんまりじっと見ていたらやっぱり困りますか?」
「あはは、そんなことないけど……香西さん、ちゃんと邪魔にならないようにって考えてくれてるし。
 でも、これから香西さんがいると緊張しちゃうなあ、失敗できないや、格好悪いとこ見せたくないし」
自分の言葉があまりにも意味ありげすぎたかと思ったひとみだったが、岩戸の言葉も深読みしてしまってまたも一人で赤くなってしまう。今の自分の気持ちを伝えるには、さっき程度の言葉が精一杯なのだけれど、その余裕のない自分に対して岩戸の何でもないような爽やかな笑顔が、嬉しくてちょっと寂しい。彼の笑顔はとても好きなのだけれど、こんなに意識しているのは自分だけなのだろうか、と。
再び作業に戻った岩戸の影がピットのコンクリの床に落ちている。その隣に、ひとみの座った影もあった。ちょうど岩戸の背中あたりにひとみの頭が隣り合っている。
(……こうしたら……)
そっとひとみは首を横に傾けてみた。岩戸の背中にひとみの頭がもたれかかったような形に影がなる。なんとなく嬉しくてひとみは、その影をずっと見ていた。岩戸はそんなことには全く気付かずに一心に車に向かっている。
こんな風に、傍に居られるようになればいいな
心に浮かんだ望みはあまりに正直すぎるもので、でもきっと、優しい彼の背中にもたれることができたら、どんなにか安らぐことだろうと思えて、今は影だけ彼に寄り添っていた。それだけでなんだか幸せで……
「あっれー、香西、来てたのか! おっす!」
背後から突然大きな声で呼びかけられ、ひとみはびっくりして椅子から飛び上がるように立ち上がる。
「はいっっ?!」
「何慌ててんの。なんか、今、変なカッコしてなかったか、お前」
買い出しから戻ってきたらしい疾斗だった。椅子に座りつつ首を傾げていたひとみのポーズが何かおかしな格好に見えたらしい。見えて当然なのではあるが。
「なな、何もしてませんよ。それより、鷹島さん、今日も取材宜しくお願いしますね!」
強引に話題を変えてひとみは多少引きつった笑顔で疾斗に向かって言った。
「任せろ! お前も目の玉かっぽじってよーく見とけよ!」
「……疾斗、それ、違うから」
苦笑しながら岩戸がそう言い、立ち上がる。
「よし、ひとまず終了。あとはテスト見ながら細かく調整していくかな」
「やったね、カズさん! 今回は絶対いい成績出そうぜ! 取材でいいとこ書いてもらわないといけないしな!」
ひゃっほう、とはしゃぎながら疾斗が買い出しで買ってきたものを隅のテーブルへ運んで行った。
「香西さんが来るようになってから、皆張り切っちゃって、ほんと、おかげでいい成績出そうな気がするよ」
その後ろ姿を眺めて笑いながら岩戸が言う。
「そんな、私なんて、何も」
「いや、ホント。今の疾斗だって見たでしょ。いい刺激になってると思うよ。
 僕もなんだか、張り合いがあるっていうか、楽しみができたっていうか……って変なこと言ってるね」
照れたような顔になって笑う岩戸に、ひとみも照れてしまう。しかし、岩戸の言葉がとても嬉しかった。
「じゃあ……じゃあ、あの、また岩戸さんがお仕事しているの……傍で見ていてもいいですか?」
思い切ってそんな風に尋ねてみる。その後で直接的すぎただろうかと慌てて「車のことももっと知りたくて」と付け足してしまって、自分の意気地なさに少し落ち込んだ。しかし、ひとみの言葉に一瞬なんだか驚いたような顔になった岩戸は、すぐにいつもの優しい笑顔になった。
「どうぞ! 僕、作業に集中しだしたら何も見えなくなっちゃうから香西さん、退屈するかもしれないけど
 知りたいことがあったら、声をかけてくれればいいし……」
車のこと勉強してるなんて、ちゃんと頑張ってて偉いね、と言われて、嘘ではないけれどそう偉くもないことを知っているひとみは苦笑した。車のことを知りたい。でもそれは取材のためでもあるけれど、それだけのためでもなくて。……でも、この仕事をきちんとこなしてその実になるのであれば、何が動機であってもきっと無駄にはならないはず。思い直してひとみは顔をあげた。
「じゃあ、よろしくお願いしますね」
本当に尋ねてみたかったのは、ただ、あなたのそばにいてもいい? ということ。いつかもっとあなたに近づきたい。そのためにも出来ることを精一杯やっていこう。目の前のこの人にも恥じない仕事をちゃんとこなしたい。
自分の気持ちを確かめて、ひとみはにっこりと笑った。それは前向きな気持ちのこもった笑顔で、それに見惚れたように岩戸がはっとした顔になり、すぐに笑顔になった。
「こちらこそ、よろしくね」
「俺も俺も! 俺もよろしくしちゃうぜ、だから俺のことかっこよく書けよな!」
背後から疾斗が手を振り上げて駆け寄ってくる。
「疾斗! お前は……」
呆れたような声で岩戸が嗜める。その様子が可笑しくて、ひとみは笑いながら答える。
「大丈夫ですよ、皆さん、わざわざかっこよく書かなくたって十分、かっこいいですから!」




恋をした2人のためのお題−10 for lovers−より
「そばにいてもいい?」って、まだまだ尋ねられない雰囲気の二人だったり。

ひとみちゃんの性格では、仕事で行ってるサーキットで
気になる人にアプローチってなかなかできなさげ、ではあるのですけども
それでもなんとか頑張って近づこうと努力してたんじゃないかなとか。
意識してなさげなカズさんの方も実はめちゃくちゃ気にしてたりするんだな、きっと。


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