幸せのにおい





「裕香、気をつけるんだ」
バリーの声がして、私はその声に気を取られて下を見た。
「なに? 何かあるの、バリー?」
その瞬間、手を滑らせて天地が逆転した。ばさばさばさっと凄い音がして、私は地面に叩きつけられる、と目をぎゅっと閉じた。けれど、来るべき衝撃は訪れず、代わりにふわっと甘い香水の匂いが私を包む。目を開けると、バリーの呆れた顔がそこにあった。
「……だから、気をつけるんだ、と言っただろう」
「バリーが急に声をかけたから驚いたんでしょ!」
私は子猫を抱きかかえたまま、バリーに抗議した。そう、ここは噴水広場。迷子の子猫が公園の木に登って降りられなくなっているというので、助けに来たのだ。バリーは自分だと重すぎて枝が折れるというので、私が木に登ったのだけれど、猫を片手に抱いてそろそろと戻る途中に、バリーに声をかけられて……今のこの状態。
今更に気付いたけれど、私は子猫を抱いていて、その私はバリーにいわゆるお姫さま抱っこされた状態になっているわけで。そしてここは広場なわけで。ただでも背が高くてハンサムなバリーは目立つわけで。あちこちの視線を集めているような気がして、私は慌ててバリーの腕から降りようともがいた。
「とにかく、あの、ありがと! 大丈夫だったから降りるから」
なのに、バリーはちょっと意地悪な顔で笑いながら私の耳元に顔を近づけて囁く。
「落ちた拍子に小枝で擦ってあちこち擦り傷があるはずだ。それに、心拍数も通常より上がっている。
 発汗も呼吸数も多いようだ。そんな君を立たせるわけにはいかない」
私の心拍数が高いのは、落ちたせいじゃなくて、バリーのせい! と言いたいけれど、言ったらきっとバリーはもっとからかってくると思うから。だいたい、今のセリフも本気なのか冗談なのか。私はバリーの顔をじっと見る。吸い込まれそうなきれいな紫色の瞳に、つい、ぼうっとしてしまいそうになって、慌てて私は首をぶんぶんと振る。そして無理やり、バリーの腕から飛び降りた。
「大丈夫だって!」
とん、と地面に立つとバリーの空いた手に子猫を預け、その場でジャンプしてみせる。
「ほらね!」
そして、子猫を受け取ると
「さ、早くこの子を飼い主さんのところへ連れていってあげなくちゃ!」
と言って走り出す。だって、あのままバリーの傍にいたら、また、何か言われそうだったから。元気になって戻ってきたバリーは、以前のジゴロモードとは違う素直でストレートで、さらにもっと熱っぽく恥ずかしいセリフを言ってくれる。それがまた、言葉だけじゃなくて時に行動を伴ってくるから、私はいつも困ってしまう。一番困るのは、私がそれを嫌じゃなくて、嬉しいことだったりするのだけれど。時と場所を選ばずにバリーに見惚れてしまうのは、我にかえると随分と恥ずかしいから。
駆け出す瞬間、ふわり、とバリーの香水のいい匂いがした。
そう、バリーはいつもいい匂いがする。バリーに言わせると、「フレグランス機能」がついているかららしい。たいていはいつも、少し甘い香水の匂い。私も好きな香水なんだけれど、バリーも好きでその匂いなのかと思って尋ねてみたら『裕香が好きな香りだから』と真面目な顔で答えられた。『君の好みは良く理解しているし、そのときの君の状態に合わせて、君の求める香りを出すことができる』 私の好きな匂いなんだ、と思うとちょっと嬉しい。でも、おかげでバリーの傍にいると、心地よすぎてうっとりしちゃうことも多かったりして。そう、うっとり「させられて」しまっている気がしてしまう。


たとえば、そう、夜のバリー。
「裕香……」
バリーがいつもよりもずっと少し低い声で囁いてくると、それだけで私はもうドキドキしてうっとりしてしまう。バリーの腕の中で、いつもよりもっと甘い気がするバリーの匂いに包まれて、それだけでクラクラして立っていられなくなってしまう。それってバリーのこの甘い香りのせい? そんな風にときどきバリーが狡く思えてしまったりするのだけれど、でも、バリーに包まれて眠るのは嫌いじゃない。
「ね、バリー」
眠気と気だるい疲れがないまぜになって、意識がとろけそうになっている中でそっと傍らのバリーに問いかけてみる。なんだかバリーが戻ってきてからずっと、私はバリーの香りに包まれているみたい。
「どうした? 裕香」
そっと私の髪を撫でて艶のある声でバリーが囁く。
「なんだか、いつもより甘い気がする、バリーの香り」
目を閉じてバリーの胸に顔を埋めて大きく息を吸ってみる。そのままうつらうつらと眠りに引き込まれそうになる私にバリーがくすり、と笑った。
「君は自分がどれほど甘い香りを放って居るかしらないんだな? 君に誘われて私の香りも変わる。
 言っただろう? 君の状態を合わせて君の求める香りを私は出しているのだと」
そのバリーの言葉には何か含むところがあるみたいだったけれど、もうそのときには私はバリーの腕の中で半ば眠ってしまっていて、バリーが随分と恥ずかしいことを言っていたのによくわからなかった。
「……裕香、君ときたら私を誘うような台詞を言っておきながら……」
溜息つきながら、それでもちょっと笑いを含んだバリーの声が耳に遠く聞こえて、柔らかく髪に口付けられるのを感じた。


夏の日差しは朝から容赦なく照りつけてきて、私は嫌々ながらも目を覚ます。寝返りを打って腕を伸ばしてみたけれど、バリーはもうベッドの中には居なかった。これも、もちろん、毎日のことで、私がバリーよりも先に目が覚めたことなんてない。バリーの移り香の残るベッドにもぐりこんでいると、そのままバリーが傍にいるみたい。でも夏休みが終わってしまったら、こういうわけにもいかないんだろうな、と思うとちょっと寂しい。一年前、数週間一緒に過ごしたバリーが誰よりも大切な人になっていたと同じように、バリーが戻ってきて数週間、一緒にいるのが当然みたいになっている。夏が終わってしまうのを正直、考えたくないなんて思っていたり。でも、もちろん、そんなわけにはいかないし、叔父さんの家にずっと居候させてもらうわけにもいかない。カレンダーの8月の残り日数を見て、やっぱり、もうすぐ夏休みも終わっちゃうなんて考えるから、寂しいと思ってしまうんだろうな、とのそのそとベッドの上に起きあがって息を吐いた。
シャツを拾って袖を通すと、部屋の扉を開けて1階へ続く階段を下りる。キッチンからはバリーの鼻歌とベーコンが焼けるいい匂いが漂ってきていた。洗面所へ向かう前に、キッチンへ行ってフライパンを器用に操るバリーの背中にぴったり抱きついてみたりして。
「おはよう、バリー」
「おはよう、裕香。ふむ、今日も特に体調に変化はないようだな。胸の大きさも変化無しだ。
 大丈夫、小さいということは大きくなる可能性を秘めているということだ。
 それに私は胸の大小にはさして価値を見いだしてはいない」
「……バリー」
ちょっとムッとして腕に力を込めてみる。バリーにはあんまり意味がないけど。
「冗談だ、裕香。すまない。ただし、君の体調が今日も万全なのは冗談ではない」
笑えない冗談は冗談って言わない、と更にぎゅっと腕に力を入れてみると、バリーが笑いながらその手をフライパンを持っていない手で外そうとする。
「火傷をするぞ。腕を放して。それとも、おはようのキスをご所望かな」
ジゴロモードなわけでなければ、これもバリーの冗談。いつもだったら、恥ずかしいこと言って、とばかりに離れて洗面所へ行くのだけれど。今日はなんだか夏休みが終わるのが寂しいなんて思ったから、そのままぎゅーっと腕に力を込めて
「……そう、ご所望です」
と言ってしまった。言ってしまってから恥ずかしくなってバリーの背中に顔を埋める。バリーは驚いたのか何なのか、黙ってしまって、私は更に恥ずかしくなってしまう。顔が熱い。こういうときこそ、何か言ってよ、ポンコツ直ったはずなのに、と内心でバリーに文句を言う。
カチリ、とガスを消す音がしてそれからぎゅっとしがみついていた手をバリーの手がゆっくり解いた。
「裕香……急に君の体温が上昇して、心拍数・呼吸数も通常値を超えたぞ」
からかって笑っているのかと思ったバリーはそっと見上げると、驚くほどに真面目な顔で、吸い込まれそうな紫の瞳がじっと私を見つめていた。呆然としたようにバリーに見惚れている私に向かって、バリーが優しく微笑むと、そっと顔を近づけてくる。
「……仰せのままに」
低く甘い声でそう囁かれて思わず目を閉じたら、そのまま、おはようの挨拶とは思えない甘い口付けが降りてきた。そのまま抱き合って啄ばむようにバリーがキスを繰り返して、私はそのまま、またふわふわと意識が蕩けてしまいそうになったのだけれど、そのとき不思議に甘い匂いが鼻をくすぐって、その匂いに反応したのかお腹がなってしまった。
「…………」
「…………」
ムードが台無しになった私とバリーは顔を離してお互いに顔を見合わせる。
「……裕香……」
ふう、とバリーが溜息をつく。私は恥ずかしさで顔を赤くしてバリーに向かって言う。
「バッ、バリーのせいじゃない。だって、バリーがフレンチトーストの匂いなんか出すから……」
「……私のフレグランス機能は、君の体調や状態に合わせるようになっている。
 ……つまり、君の状態が空腹だと察知して反応したのだ」
真面目な顔でそう解説するバリーに私はなんだか可笑しくなってしまって笑い出した。バリーも柔らかく微笑む。私はバリーにぎゅっと抱きつくと、おいしそうなフレンチトーストの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「……バリーは、いつも、幸せな匂いを感じさせてくれるんだね」
それは私のための幸せな香り。ずっと一緒にいられる今は、なんて贅沢な時間を過ごさせてもらっているんだろう、と思った。こんなに近くに、いつも幸せな気分にさせてくれる人がいるってことが、とても特別なことなんだ。もうすぐ夏は終わってしまうけれど、幸い、学校はペット探偵事務所から近いし。毎日バリーと動物たちの顔を見にやってこよう。日曜には叔父さんたちのお手伝いをしにこよう。だから、もうあと少しの夏休み、バリーと一緒の時間を大切に過ごそう。
もう一度ぎゅっとバリーに強く抱きついて、素敵なフレンチトーストの香りを楽しんでから、私は彼から離れて
「じゃ、顔洗ってくるね! 朝ごはん一緒に食べよう!」
と言うと、今度こそ、おはようの挨拶に相応しい軽いキスをバリーに送って洗面所へと向かった。




「ペット探偵Y's」より、バリー×裕香です。
だいたいのネタは考えてあったのに、書くのにすごく時間がかかってしまいました。
夏休み中はきっと叔父さん夫婦はまたも旅に出てしまっているに違いない。
バリーとの交際ってやっぱり、叔父さん夫婦にもヒミツなのかなあ(やっぱ普通はそうかな)



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