シュボッ・・・ 闇の中に一瞬小さな光が灯った。タバコに火を付けた環音は、ふ〜っと煙を吐き出す。 しおんは泣きながら駆けていってしまった。 『鈴木には元気でいてほしいから、つらいことや悲しいことがあってもそれに負けないでほしい』 そう言って泣かせているのは、俺なんだろうな。 ふとそんなことを考える。海にたらした釣り糸は夜の闇に溶けてその先が見えない。 元気で前向きな少女にそのまま素直に成長してほしいと思ったのは、教師としての自分なのか男としての自分なのか。その境界が判然としなくなったのがいつごろだったのかも、あまり定かではない。だが、それはさして重要なことでもないような気がしていた。あるのはただ、彼女を、彼女の笑顔を守りたいという自分の思いだけで。 しかし。 タバコを吸い込むと先のオレンジ色の灯が小さく瞬く。 音は何の反応も返ってこない釣り糸の先をのぞき込むように見つめる。その先はやはり見えない。 元来、恋愛事は苦手だった。 相手が自分に好意を寄せていてくれるらしいのは、いつも薄々とは感じる。けれど、自分がそれにどう答えていいのかがわからない。「好き」だという感情は曖昧なもので、嫌いではないが、それがでは恋かといわれれば違うと思う。だが、相手を傷つけたくなくて答えを出すこともせず。そうやって結局相手を傷つけてしまうことも何度かあった。わかっていたのだが。 『先生を傷つけるつもりはなかったんです』 なんと間抜けな言葉なことか。同僚の鈴木里沙が、自分に好意を寄せていてくれるのはうっすらと感じていた。だが、はっきりとした答えを出すこともせず、曖昧なままで過ごしていた。結局、答えを迫ったのは里沙だった。その答えを出すようにと迫られて初めて、もしかしたら音は自分の気持ちをはっきり形にしたのかもしれない。自分の心は、しおんに向いている、ということに。 短くなったタバコを、胸ポケットから取りだした携帯用の灰皿に押し込む。 その鈴木里沙と、しおんが姉妹であったことはなんとも間が悪く。しかも、しおんが、里沙と音の話を聞いてしまったことがなおさら間の悪い結果に拍車をかけてしまって。 やっぱり、泣かせてるのは、俺だよなあ ぼりぼりと音は頭をかいた。釣り竿を支えた左手に、くっと反応を感じる。音はそれに素直に従いながらも、徐々に糸を巻く。だが、一際重みを感じた次の瞬間にふいに竿は軽くなってしまった。 逃げられたかな。 引き上げてみると、見事にエサだけがなくなっている。 う〜む。 しばし考えて、音は次のタバコを取りだし口にくわえる。ライターで火をつけて、それから再び針の先にエサをつけはじめた。 さきほどのしおんの仕草が思い出された。ゴカイを触るのだって初めてだろうに、慣れない手つきで一生懸命エサをつけようとしていた。そう、いつも一生懸命で。 器用にエサを針につけると音は再び糸を海へ垂らした。 逃げて欲しくはないな。 そう思う。半分は教師として。半分は、しおんを好きな男として。 辛いことや悲しいことから目を逸らしてほしくはない。里沙とのことは、音の問題だから、しおんが責任を感じることではない。たぶん、しおんがいなくても、自分は里沙に応えることはできなかっただろうと思うのだ。答えを出すのがもう少し先になったかもしれないだけで。 それは狡い論理かもしれないけれども。 釣りは魚とのタイミング勝負な遊びだ。魚の反応を感じ取り、駆け引きがあり、引き上げるタイミングが合って初めて魚を釣り上げることができる。 そう、タイミングなのだ。 今でなくてもいいというかもしれない。里沙とのことがしおんの重荷になっているなら、しばらくの時間を置いてからでもいいというかもしれない。けれど、今でなくてはいけないような気がするのだ。しおんと自分が同じ一歩を踏み出すためには。 逃げないでほしい。 しおんがぶつかってきてくれるなら、音は彼女のために、自分と彼女、二人のために、道を拓くことができると思っている。教師と生徒。その壁も越えてちゃんと彼女にその先を示すことが自分にはできると思っているのだ。恋に溺れて何もかもを押し流すほど若いわけではない。だが、この場合は自分が大人であり、その分別でもって道を探すことができるのは武器にもなる。 竿にまた、くいっと負荷ががかかった。音はその引く力に逆らわず流したり、時に糸を引いて反応を試し、徐々に糸を巻いていく。ばしゃっという水音とともに、糸の先で暴れる魚の反応が腕に伝わる。音はそれをつり上げると、手に取った。まだ、小さな魚だった。 ふむ、まだ釣り針の怖さを知らなかったのかな 釣った張本人のくせに、そんなことを考える。丁寧に、それ以上傷つけないように釣り針を魚の口から外す。そうして、悪かったな、と声をかけると魚を海へと戻した。 逃げないでほしい。 溺れて何もかもを押し流すほどに若いわけではないが、この思いは分別で諦めきれるほどでもないように思えるから。 俺も、自分の気持ちからは逃げないから。 そうして、次の糸を垂れることもせず、音はただタバコを吸いながら夜の海を眺めた。しおんがぶつかってきてくれるかどうかは賭けではあったけれども、心のどこかで音は信じている。彼女は泣き虫かもしれないけれども、弱くはない。 「先生〜! そろそろ帰りますか〜!?」 カイルが呼ぶ声がした。音は短く返事を返すと、岩場を降りて生徒達の元へと歩き出した。 夜の海は暗く、波の姿さえも見えない。だが、寄せて返す波の音はそこに海があることを、波があることを教えてくれる。目を逸らしてもその音は変わらず耳に響く。 思いが波だとすれば、今は夜がしおんの心を包みそれを見えなくしているかもしれない。だが、音が・・・音が彼女に教えるはずだ。そこに、波はあるのだと。 ライブの後。 音は化学室の扉を開けた。まだ遠くに歓声が聞こえている。それだけにこの化学室の静けさが際だつような気がした。ごそごそとあたりを引っかき回して、カエルのエサを取り出す。 しおんが来るまでしばしあるかもしれないし。後夜祭を楽しむ生徒たちのためにも、今日くらいはカエルの世話を生徒の代わりにしておこう。 準備室の扉をあけると、カエルたちのケージに近づく。 「よしよし、今エサをやるからな〜」 その声に応えるかのように、低く鳴いたのはウシガエルだった。しおんがなでてやったあのカエルだ。そのケージにエサを入れてやりながら、音はカエルに尋ねる。 「鈴木は来てくれると思うか? 思うよな?」 その問いに答えるかのように、もう一度、ウシガエルが低く短く鳴いた。 かたん、と化学室で音がした。人の気配を感じて、音はふと微笑む。カエルたちのケージにエサを入れてやってから、音は、準備室の扉を開けた。 そこには、思った通り、彼の待ち人が大きな目から今にも涙をこぼしそうになって立っていた。 「先生・・・・」 やっぱり、泣かせているのは、俺かな。 こんなときに間の抜けたことを考えながら、音はふわりと笑ってしおんに言った。 「こらこら、泣くなと言っただろう?」 言われて、懸命に笑顔を見せるしおんが純粋に愛しかった。 ああ、そうなんだな。 改めて音はそう思う。立場とかしがらみとか、そういうものを越えて。やっぱり自分はこの少女を守ってやりたいとそう思うのだと。 そのとき、窓の外に一筋の明かりが昇った。後夜祭の花火だ。 しおんの顔を明るく照らして、次々に花火が華やかに夜空に花開いている。音は窓辺に寄るとしおんを呼んだ。彼に寄り添うように窓辺に立って花火を見つめていたしおんが、囁くように呟く。 「先生・・・あたし、先生が、好きです・・・」 その言葉は、音の心に響いた。彼女がその言葉を口にするために必要とした勇気と決意を忘れまい。 花火も終わり後夜祭も終盤に近づいている。 しおんと並んで廊下を歩きながら、音は彼女に示した約束を考えている。その約束が現実になる日を考えている。今日踏み出した一歩の続きは、一年と少しの後になる。それまではしばらく同じ場所で足踏みすることになるかもしれないけれど。蓄えた力が次の一歩を力強いものにしてくれるだろう。待つ時間が、二人を夜の闇に包み込むときがあるかもしれない。けれども、寄せて返す波の音に耳を澄まそう。自分はしおんの心に響く波音になろう。 「これから、打ち上げでみなでまた海へ行こうという話になってな・・・」 音はしおんに言った。しおんは楽しそうに嬉しそうに音の顔を見上げている。音は、彼女に笑いかけながら続けた。 「今日は、一緒に、夜釣りを楽しもう」 その言葉に、可笑しそうにしおんが笑う。そうして、大きく頷いた。 END |