失われたものを取り戻すためには、そのための代償を支払い、試練を乗り越えねばならない。 それは、自分自身の臆病のための代償。けれど失いたくないと思うなら。 すでにそのとき、後悔していた。 別れの言葉をどうしても告げることができなかった。 なぜ、あのとき、地上に残りたいと訴えることができなかったのか。 今、こんなにも心が苦しいのに。息もできないほどに、彼以外に何も見えないほどに。 「・・・それが、君の決断なのか。君は・・あの約束を・・・」 その言葉さえも最後まで聞くことができなかった。 いっそ、このまま消えてしまいたい。 今なら、わかる。自分にとって何が必要だったのか。 天使であることを理由に、勇気を出すことができなかった。 彼の元にとどまりたいと、その望みをかなえることができなかった。 今なら、わかる。今なら、言える。 後悔が、苦しみが、心を引き裂く。 このまま、この先の長い時間を生きていくことができるのだろうか。 心の半分をなくしたままで。心の半分を殺したままで。 「ガブリエル様・・・・」 「愛しき幼き天使よ、どうしたのですか。 勇者とお別れを言ってきたのではないのですか。 なぜ、何を泣くのです。」 「ガブリエル様、私は、もはや天使の資格をもちません。 私は・・・・ガブリエル様!」 血を吐くような天使の叫びに、ガブリエルは天使の傍らにそっとよりそい、幼き天使の涙を拭った。 「さあ、何があったのか、お話しなさい、幼き天使よ。 インフォスを救ったあなたが、なぜ、何を泣くのですか」 「・・・・ガブリエル様、私を、私を地上へとどめさせてください。 私を、インフォスへお戻しください・・・!」 「・・・幼き天使よ、あなたのインフォス守護の仕事は終わったのですよ。 あなたがインフォスの地に特別の感慨があることはわかりますが・・・」 「いいえ、いいえ違うのです、ガブリエル様。私は・・・・ 私は、彼のために地上へとどまる約束をしていました。 私は、彼を愛してしまっていたのです。 けれど、人としてインフォスに降りる勇気を出すことができませんでした。 それは、私の罪なのです。 私は、自分が何を求めているか気づくことができなかったのです」 「・・・かわいそうな天使。 あなたは、今、大切なものを失ってしまった悲しみに満ちているのですね。 しかし、悲しみはいずれ時が解決してくれることでしょう。 あなたには、天界での務めがあるのですよ」 しかし、そのガブリエルの言葉にさえ天使は激しく首を振った。 とめどなく涙が流れる。 「いいえ、いいえガブリエル様・・・私の心は今にも死んでしまいそうなのです」 その天使をガブリエルは静かに見つめていた。そして、ゆっくりと告げる。 「幼き天使よ。失ったものを取り戻すためには、試練と代償が必要です。 あなたには、その覚悟がありますか」 その言葉に、天使は顔をあげる。 「ガブリエル様・・・・」 「さあ、幼き天使よ、どうしますか。 このまま、天界にとどまるならばそれも良いでしょう。 しかし、どうしても、今一度インフォスへ戻りたいというのであれば あなたは、代償を支払い、試練を受けねばなりません」 迷うことなく、天使は頷いた。 「ガブリエル様! インフォスに戻れるのであれば・・・ どのような代償も試練も受けます」 「幼き天使よ、インフォスの勇者たちは、 すでに天界のこともあなたの事も記憶を封印されています。 あなたが地上へ降りたとしても、彼らにはあなたの事はわからないでしょう。 それでも、地上へ降りますか」 「・・・それでも、構いません。 もう一度、会えるなら。彼のそばで生きることができるなら」 涙に濡れていたが、天使の瞳には強い意志が見えていた。 「・・・・わかりました。 あなたは、翼と天使としての力のすべてを失います。 人として、地上に降りるのです。 そして、あなた自身もまた、天界と天使であった記憶を封印されねばなりません。 それが、あなたの受けるべき試練です」 「ガブリエル様・・・」 「あなたは勇者と出会っても、彼が誰であったか思い出すことはないでしょう。 勇者たちもまた、あなたの事を思い出すことはないでしょう。 けれど、あなたがインフォスの守護にあたっていたときに 彼らから深い信頼を得ていたのであれば、勇者たちはあなたと同じ時間を過ごすうちに 記憶の封印を解くことがあるかもしれません。 そして、あなた自身の記憶の封印もまた、勇者たちによって解かれるでしょう。 けれど、それは賭けに等しいものともいえます。 勇者はあなたを思い出すことなく、彼ら自身の人生を歩むかもしれません。 あなたもまた、天使である自分を思い出す事なく、 一人の人間としてささやかな生を終えるかもしれません。 それでもいいですね」 天使は、ゆっくりと、けれども力強く頷いた。 失うものがもはやないのであれば。 たとえわずかな希望であっても、それを信じるだろう。 いや、そうではなく、天使は今や心から堅く信じていた。 たとえ記憶を封印されても、彼のことを思い出すだろうと。 「では、幼き天使よ、目を閉じなさい。 あなたの記憶を封印します。 次に目覚めたときには、あなたは記憶を封印され人としてインフォスにいることでしょう。」 天使は、静かにその瞳を閉じた。 ガブリエルの手がその額に当てられるのを感じる。 だんだんと白くかすんでゆく意識の中で、天使は最後まで彼の勇者の姿を思い描いていた。 その日、彼はいつもと違ってかなり早くに目が覚めた。 夢の中で、良く知った誰かに語りかけられたような気がした。 何を言われたかは、覚えていなかったが。 気が向いたからというよりは、そうしなくてはならないような気がして 彼は朝食を採るより早く、朝の道を散策に出掛けた。 歩き慣れた道ではあったが、木々が朝日に輝く景色はいつもと違う美しさだった。 そこで見つけた朝露に濡れる草の中で眠る少女は、それこそ朝露の精霊のようだった。 彼は、眠る少女をそっと抱き起こした。 少女の閉じた瞼が小さく震え、その瞳が開く。 その澄んだ瞳と彼の目が出会ったとき、新しい物語は始まった。 人の目には見えぬ存在である妖精たちが、中空からその様子をそっと眺めていた。 「よかったですう、勇者さまに天使さまは出会えたです」 「私たちの声が、勇者さまに届いたのですね」 「でも、まだこれからが大変よね。天使さまは、思い出せるかしら」 「お二人を見守るしか私たちにはできないけれど・・・ 天使様には幸せになって欲しいですものね・・・」 その思いは、遠く天界から地上を見守るガブリエルの願いでもあった。 「・・・幼き天使よ、あなたの幸せを祈っていますよ。 あなたが、人として幸せな生を送ることを、願っています。 たとえ、記憶の封印が解かれることがないとしても、幸せになれるように、と」 END or CONTINUE |