ギシギシと靴の下で雪が踏み固められる音がした。 夜も更けたというのに、ほのかに明るいのはかすかな光を雪が反射しているからだろう。雪明かりという言葉が思い出される。 吐く息も白く、息を吸い込むたびに胸の奥がきしきしと痛むくらいの寒さだというのに、帰ってそれが清々しく心地よい気がする。 夜会の喧噪を離れて、少し火照った身体を冷ますように、一歩一歩を踏みしめてシーヴァスは歩いていた。 聖夜を祝うという名目で催された夜会だったが、常より早めに切り上げたのは、この夜を祝うのに喧噪よりも静寂がふさわしいような気がしたからだ。馬車を先に帰らせて歩いて帰る気になったのは、この夜の空気を感じたいと思ったからかもしれない。今夜の空気は、どこまでも透き通っていて、五感に染み通る。 街の中は今もなお明るく、この夜を祝う人でにぎわっているのだろうが、その喧噪を離れた静かな公園の中を通って屋敷へ帰る道を彼は選んだ。聖なる夜、人々は神に感謝し、祝福を与えあう。 やんでいた雪がちらほらと、また降り出してきた。ゆっくりと、ひとひらずつ舞い落ちる雪は、この夜を彩るのにふさわしい気がした。 そういえば、雪が好きだったな。 初めて雪を見たときに、嬉しそうにしていた顔が思い浮かぶ。彼女のいる天界も、今日は特別な日なのだろうか。 ふと立ち止まって舞い落ちる雪を手のひらに受ける。雪、花、月、星。彼女と出会ってから、あまりにも当たり前すぎて通り過ぎていたものに気が付いた。雪の美しさ。花の可憐さ。月の切なさ。 この世界の摂理の一つ一つの意味。 それらに気づくこと、それが彼女から与えられた祝福のようにさえ思える。 あまりに多くのことを、彼女から与えられたと思う。 シーヴァスは再び、歩き出した。 こんなにも素直にそう思えるのは、やはり今夜が特別な夜だからなのかもしれないな、と思う。 こんな夜こそ、天使が降りてくるにふさわしい夜といえるのだろうな。 降る雪が、まるで天使の羽根のように舞っている。 「シーヴァス!」 それは、夢のように美しい光景だった。ほの明るい雪空を白い翼がふわりと羽ばたき、舞い散る雪の中で彼女が微笑んでいる。柔らかな光に包まれたような彼女が、シーヴァスの目の前に降りてくる。 「ああ、君か・・・。 こんな日にやってくるとは、何かあったのか?」 うっとりとその姿に見とれていたことなど気づかせないように、常と変わらぬ態度でシーヴァスは天使にそう言った。薄いドレスを纏っただけの彼女の姿は、ほんの少しの痛々しさをシーヴァスに感じさせる。天使は地上の暑さや寒さを感じることはない。そう言われて理解もしているというのに、こんな夜の彼女の姿はどこか儚げだ。 「いえ・・・・そういうわけではありませんけれど、あの、ご迷惑でしたか?」 「いや、そんなことはない。ただ、今日は聖誕祭だ、君の居る天界も特別な日かと思った」 「ええ、ですから、あなたに会いに来たんですよ」 にこっと微笑んで天使がそう答えた。シーヴァスは、少し驚いたように目を開いて天使の顔をまじまじと見つめる。 「大切な人に祝福を与える日です、大切な勇者に天使の祝福を」 天使はそう言葉を続けた。シーヴァスは、その言葉にああ、なるほど、と口の中でつぶやく。 「では、他の勇者たちにも祝福を与えてまわっているということか。 相変わらず、ご苦労だな」 苦笑しながら、天使の髪についた雪をそっと手ではらった。 「はい、シーヴァスで最後です。遅くなってしまってすみません」 天使は、慌てて自分の手で雪をはらい、翼をはためかせた。きらきらと翼についていた雪が舞う。 「やれやれ、私はいつも最後で、後回しにされているということか」 肩をすくめてシーヴァスはそういうと、またゆっくりと歩き出した。天使はその後に続いて歩きだすと 「でも・・・でも、最後だったら少しはゆっくり一緒にお話できるんじゃないかと思って」 と少し恥ずかしそうに言った。シーヴァスはその言葉を聞くと柔らかく微笑んで立ち止まり、天使を振り返って抱き寄せ、腕の中に収める。 「あの・・・! シーヴァス、ちょっと・・・」 驚いた天使が腕をつっぱって身体を離そうとするのに、シーヴァスは力を緩めずに、そっと自分の額を彼女の額に寄せて間近く瞳をのぞき込む。天使の淡い菫色をした瞳が、きらきらと輝いていた。その瞳の中に自分の姿が映っている。 「シーヴァス・・!」 「少し寒くなってきたな。雪は美しいが人たる身には冷たい」 「だ、だったら早く家へ帰らないと、風邪をひきます」 「だったら、君が温めてくれ」 笑いながらシーヴァスが言う。 「シーヴァス! 私は・・・あなたに触れても温もりを与えることができないって 知ってるじゃありませんか・・・」 天使は抗議の声をあげて、シーヴァスの胸を叩く。触れることはできてもその温もりを伝えあうことはない。まるで薄い膜を通して触れあっているかのような頼りなさ。それが悲しいと彼女はいつも寂しげに言う。それを知っているのに、と彼女はシーヴァスの瞳をきっと見返した。だが、シーヴァスの瞳は、真摯な光を称えて彼女の瞳を見つめていた。 「心で感じるから。君の温もりを、心で感じるから、温めてくれ」 なおもそう言うシーヴァスに、天使はやがて仕方なさそうに彼の背中に腕を回す。そうして、背中の翼を広げると、その翼でもシーヴァスの身体を包み込んだ。 「ほんとに、寒くないんですか?」 少し心配そうに天使がシーヴァスに囁く。天使の翼は、降る雪からシーヴァスを守っていたけれど、それでも寒くないはずはないのに、と彼女は思う。 「・・・そうだな、心は寒くはない。君がそばにいるからな」 「二人そろって、このままじゃ雪まみれになってしまいます」 「それもいいかもな」 どこまで本気かわからないシーヴァスの物言いに、天使は困ったように苦笑する。 「シーヴァス?」 「君の存在そのものが、私にとっては祝福のようなものだ。 この聖なる夜のように、いつも君の祝福を感じるよ。ただ・・・・」 「ただ?」 「私には、その祝福を受ける資格があるかどうか、時々不安になるけれどね」 「・・・どうしてですか。 あなたは、勇者として十分に働いてくださっているのに。 そんな心配なんて必要ありませんよ?」 天使は、シーヴァスの顔をのぞき込んでそう言った。彼を翼で包み込んでいるがゆえに、狭い空間に二人で寄り添っているかのような錯覚にとらわれる。あまりに彼との距離が近いような気がして、天使は顔が赤らむのを感じた。そのとき、シーヴァスの顔がゆっくりと近づいてきて、天使は思わず目を閉じてしまう。 「罰当たりな勇者は、天使に恋をしているからな」 そういうシーヴァスの声とともに、唇に柔らかな感触を感じて、天使は驚いてまた目を開ける。少しいたずらっぽい光を称えたシーヴァスの瞳が間近にあった。 「シーヴァス、あの、あの・・・今?」 天使がうろたえてそう言うのに、シーヴァスはもう一度、キスをした。天使の頬が真っ赤にそまる。 「シーヴァス・・・」 「君に、恋をしている。こんな勇者に祝福を受ける資格は、あるかな」 天使はそのシーヴァスの言葉を聞いて、少し目を伏せたが、やがてゆっくりと言葉を紡ぎだした。 「シーヴァス、あなたに祝福を。 あなたの歩む道が平坦でありますように。 あなたの心に平安がありますように。あなたの行く先に幸運がありますように」 「・・・それは、天使の祝福?」 「そうです。天使から勇者への祝福です」 そう、天使は言い、それからしばらくして付け加えた。 「勇者に恋をした天使から、愛しい勇者への、祝福です」 頬を染めた天使が囁くようにシーヴァスにそう告げる。シーヴァスは、その言葉に今一度強く天使を抱きしめると、その滑らかな首筋にキスを落とした。くすぐったさに天使が首をすくめて、震える。 そうして、シーヴァスはやっと彼女の身体を解放すると、微笑みながら天使に向かって手を差し出した。 「屋敷についたら、温かいお茶でもごちそうしよう。 だから、今夜は二人でこの聖なる夜を祝わせてくれ」 天使はしばらく考えるように立ち止まり、それから微笑んでその手をとった。 |