CALLING

彼女は、まるで初めて地に足を下ろしたように、ゆっくりと大地を踏み締めた。
実際に、それは初めてのことだったのだ。
そして、この先では、彼女を一人の勇者が待っている。


「天使というものは、靴を履くということがないのか?」
ある日、彼の旅に同行しているとき彼が不思議そうにそう尋ねた。
その日は、林の中の道を歩く旅程にあたっており、 いつもなら彼の肩のあたりをふわふわと(本当にそう言うのがぴったりなようにゆったりと)飛ぶ彼女も 地に足をつけて歩いていた。
「履く者もいますよ。
 特に、上級天使さまになられますと、美しいサンダルを履いておられます。
 でも、私ははだしの方が好きです。
 草の柔らかさや、土のひんやりした感じが少しでもわかるような気がしますから」
「しかし、小石のかけらでケガをしたりしないのか?」
「ふふ、大丈夫ですよ。
 天使が地上世界で物理的に傷を追うことはないのです。
 逆に、力を振るうこともできないわけですが」
「なるほど、だから私たち勇者が必要になるということなのだな」
「・・・すみません。
 あなたたちは、私のかわりに時に傷を負ってまで闘ってくださってるのですね」
「・・・君が気に病む必要はない。
 自分の生きる世界を守ることなど当然のことだろう。
 それに、私はかなり勇者という仕事を楽しんでいるよ」
「・・・楽しんでいるんですか?」
彼女がそう尋ねると、彼はいつものからかうような瞳で彼女を見つめた。
「君の姿を見ることや、君とこうして歩くことや、君と話をすることや・・・」
「・・・それは勇者の仕事じゃないです。」
「だが、勇者だけに与えられた特権だ」
彼女は赤くなった頬を見られまいと俯く。
彼は、そんな彼女を見て、楽しそうに笑った。
彼の名は、シーヴァス・フォルクガング。
ヘブロン王国の貴族の名家・フォルクガング家の若き当主である。
そして、彼女の名は、ルーチェ。
時の淀みに囚われた地上世界インフォスを守るために遣わされた天界の天使である。
二人は、天使と天使に仕える勇者として出会い、そして、深い信頼を寄せ合う仲になっていた。
「・・・また、シーヴァスは私をからかったんですね」
少し怒ったようにルーチェは言う。
「どうして? 私はいたって本気なんだがね」
シーヴァスはそう言い、ルーチェの顔をのぞき込む。
ルーチェはますます頬が熱くなるのを感じ、
「もういいです。先を急ぎましょう」
と言うと、シーヴァスの先を歩きだした。
しかし、焦っていたせいか足がもつれてよろけてしまう。
「あっ・・」
「あぶない!」
とっさにシーヴァスは腕を伸ばし、倒れる彼女をかばった。
「・・・あの、シーヴァス、大丈夫ですか」
ルーチェをかばい、彼女をだきかかえたまま、地面に倒れ込んだシーヴァスに、 彼女は心配そうに尋ねた。
「・・・まったく、君はさすがに天使だけあって、歩き慣れないらしいな」
シーヴァスは体を起こすと土をはらった。
「私でしたら、地上世界ではケガをすることはないって言ったじゃありませんか。
 私をかばってあなたがケガをしてしまうなんて困ります」
「・・そういわれても、女性が倒れそうになっていたら、かばうのが男というものだろう。
 まして、それが愛する女性だったら、なおさらのことだ」
ルーチェは本当に困ったような顔をしてシーヴァスを見つめた。
「じゃあ、私は、もうあなたの前で転んだりしないように気をつけます。」
そうして、シーヴァスの手をとった。
シーヴァスは気づいていなかったが、手の端が少し切れて血が出ていた。
ルーチェは自分の着ている薄い服の端でその血をぬぐった。
「君の服が汚れる」
シーヴァスはそう言いかけたが、彼の血をぬぐったところで彼女の真っ白な服が紅く染まることはなかった。
天使がこの地上のものに傷つけられることも、汚されることもない。
それを思い知らされたようで、シーヴァスの胸は痛んだ。
これは、許される恋なのだろうか。
自分の手に包帯がわりの布を巻く彼女の手をとり、シーヴァスはふいにその手に口づけた。
「シ、シーヴァス!」
ルーチェが慌ててその手を引こうとするが、シーヴァスはそれを許さず、 その手をきつく握り締めた。
「・・・君のこの手は、今、私が触れている君のこの手は、
 私の口づけを、握り締める手の温もりをどう感じるのだろうな」
「シーヴァス・・・」
「君と私は、確かに住む世界が異なるのだな。
 それを思い知らされたようで、少しなんというか、そうだな、悔しいかな」
シーヴァスはそう言うと、少し自嘲気味に笑った。
ルーチェはそっとそんな彼の手を握り返した。
「あなたの手はとても温かいですよ、シーヴァス。
 住まう世界が違っても、あなたと私の手は触れ合っています。
 あなたと私の心も、触れ合っていますよね」
「・・・そうだな、ルーチェ」


そして、天使と勇者の旅は終わった。
今、ルーチェは、まるで初めて地に足を下ろしたように、ゆっくりと大地を踏み締める。
実際に、それは初めてのことだったのだ。
そして、この先では、彼女をシーヴァスが待っている。
これまでと異なり、人となった自分の重みを足に感じ、一歩を踏み出す。
冷たい石畳の感触が足の裏から伝わってくる。
そして、今までに感じたことのない、痛み。
少し驚いて足元を見ると、小さな石が彼女の柔らかな足の下にあった。
それさえもが、けれどルーチェには喜びだった。
シーヴァスに早く会いたかった。
人になった自分を、彼と同じ世界に住む人間となった自分を彼はどう思うだろう。
自然と早くなる足に、ときどき、つまずきそうになりながら、 ルーチェは先を急いだ。
勇者を称える祝賀の席というのに、主役のはずの彼は一人、庭に出てたたずんでいた。
その姿を認めて、ルーチェはふと立ち止まる。
そして、ゆっくりと彼の元へと歩きだした。
シーヴァスは、彼女に気づくと、一瞬驚いたように目を見開き、それから破顔した。
「ルーチェ・・・」
彼女の手をとり、それからほっそりとしたその身体を抱き締める。
「ルーチェ・・・ありがとう。」
翼を捨て、自分とともに生きることを選んだ彼女に心からそう告げる。
その彼の視線が、彼女の足元に及んだ。
素足のまま歩いて来た彼女を見ると、シーヴァスは彼女の身体を抱き上げた。
「シ、シーヴァス?」
「君はもう人になったんだろう?
 ここまでどれくらい歩いてきたんだい? 靴もはかずに。
 足が痛くはなかったか?」
「あの、ごめんなさい・・・でも、一度、感じてみたかったのです。
 天使のころと触れる大地の感じに違いがあるのか、と」
「・・それで、違ったかい?」
シーヴァスは優しくそう彼女に尋ねながら、彼女を抱いたまま庭を噴水の方へと歩きだした。
「ええ。ずっと強く、ずっとはっきりと大地を感じました。
 ・・・シーヴァス、あなたの温もりも、ずっと強く感じます」
そっと、ルーチェを噴水の縁に腰掛けさせると、シーヴァスは自分のハンカチを水に浸し、彼女の足をぬぐう。
「これからは、ずっと、この足で大地を踏み締めていくんだ、ルーチェ。
 君のこの足が傷つかないように、靴を買おう。
 君が歩むとき、私がそばにいよう。君が転ばぬように、私が支えよう」
そして、再び彼女を抱き上げる。
「君、重くなったな、ルーチェ」
シーヴァスは笑ってそう言った。
「す、すみません、自分で歩きますから・・・」
ルーチェは赤くなってそう言い、彼の腕から降りようともがいた。
だが、シーヴァスはなおさらきつく彼女を抱き締める。
「喜んでいるんだよ、私は。
 やっと君も人の子の乙女となってくれたとね。
 天使のころの君ときたら、どんなに強く抱き締めても擦り抜けていきそうだった」
「シーヴァス・・・」
「ルーチェ、私も、これまでのどんなときよりも、ずっと強く、ずっとはっきりと
 君の温もりを、君という存在を感じているよ」
シーヴァスはそう告げると、やっと自分と同じ世界へ降りて来た いとおしい恋人の頬にそっと口づけた。
そして、主役のないままに、いまだ続く祝賀の宴の音楽を遠く聞きながら、 彼は恋人とともに、家路をたどっていった。






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