「そういえば、シーヴァスは小さい頃、どんなことをして遊んでいたんですか?」 無邪気な顔で天使がそう尋ねた。久しぶりに訪問してきたと思ったらこれだ。これから遊びに行くから用件は手短に、とシーヴァスが言ったとたんにこれだ。一瞬、顔を顰めたシーヴァスだったが、天使の無邪気な笑顔を見てしまっては、何も言えない。 小さい頃。言われてシーヴァスは最早、遠い過去のこととなってしまった幼い頃を思い出す。そういえば、もうずっと、忘れていた。思い出すことさえ、しなかった。まだ、自分が何も失っていなかったころ。傍らには父が居て、一緒に母の絵を描いていた。 『はは、上手いぞ、シーヴァス、よく似ているな、母さんに』 ・・・・シーヴァスは首を振って今の自分にとっては邪魔なものでしかない感傷的な想い出を振払った。天使が訝し気な顔をして彼を見上げている。 「・・・君は、おかしなことを尋ねるんだな。そんなことを聞いてどうするんだ?」 「えっ?? あ、あの、どうするって・・・」 天使は困った顔をして彼を見上げる。どうする、と言われても、単に聞いてみたいと思っただけのことで、さして意味があったわけではない。以前、レイヴとともに英霊祭に赴いた際、シーヴァスの少年時代のことを聞いたことがある。大人しくて真面目な少年だったと、レイヴは言っていた。今のシーヴァスからは、想像もできないことだろうが、と言ったレイヴに対し、しかし、天使はどこか納得してしまっていたのだった。いつも皮肉屋のシーヴァスが、それでいて、真摯な青年であることも、天使には薄々と感じられていた。だから・・というわけでもなかったが、幼いシーヴァスがどんなであったのか、知りたいとふと、そう思っただけのことだった。 天使が困った顔をしていると、シーヴァスはそれがいつもの事なのだが、溜息を一つついてから答えた。 「・・・まあ、いい。 ・・・そうだな、父と一緒に、絵を描いたりしていたな・・・」 そう短く答えると、天使は一瞬驚いたように黙り、それからにっこりと笑った。 「そうですか」 シーヴァスが絵を描いているところなど、もちろん、天使は見たこともなく彼がキャンバスに向かっているところを想像するのは難しいところだったが、彼の亡くなった父が画家だったということは知っていたので、幼いシーヴァスと彼の父との優しい関係に思いいたって天使は微笑みを誘われたのだった。幸せな家庭で育った少年は、きっと優しく穏やかな日々を送っていたことだろう。 「今は、もう、絵を描いたりしないんですか?」 つい、そう尋ねたのは、きっと絵筆を握っていたころのシーヴァスは幸せであっただろうと、そう思ったからで。もちろん、今のシーヴァスが不幸であるとは、けして思ってはいないけれど。 「・・・・悪いが、もう時間だ、行かせてもらうぞ」 天使の最後の問いには応えず、シーヴァスはきびすを返して歩き出した。天使は、自分の言葉が彼の気をそいでしまったか、と少し慌てた表情を見せる。 「あの・・・シーヴァス・・!?」 しかし、シーヴァスは天使の声に振り向きもせずに歩き去ってしまった。 シーヴァスは、歩きながらぼんやりと天使に言われたことを考えていた。 そういえば、自分は昔、絵を描くことが好きだったような気がする。父の隣で、同じように絵筆を握って、幼いながらも何かを描きとめようと、色を重ね、絵を完成させることが好きだったような気がする。それが、今となっては、身近に絵筆の一つもない。いつからのことだっただろうか。 両親が死んでしまったから・・・? いや、祖父の家に引き取られるときに、まだ自分は焼け残った絵筆や絵の具を持っていたのではなかっただろうか? 引き取られた幼い自分は、まだ瞼にはっきりと残る両親の面影を紙に描き出そうとしていたのではなかっただろうか。 そこまで思い出して、シーヴァスは立ち止まってしまった。 幼かった自分が最早会うことも叶わぬようになった両親の姿を一生懸命に描き残そうとしていたその姿を思い出してふいに胸を突かれたような気になってしまったのだ。 「・・・・・もはや、くだらない感傷だ・・・」 呟いて、シーヴァスは足早に歩きだした。 『ちちうえ、ははうえ・・・』 幼い少年が一枚の絵を見つめてしょんぼりと座り込んでいる。金髪がゆれて、その大きな瞳は今しも涙が盛り上がってしまうかのように、潤んでいた。しかし、小さな手でごしごし、と目をこすると、ほっと一つ息をつく。 『フォルクガングの名に恥じないように、なみだなど、見せません』 そう、強く言いきって、鼻をすすりあげると、また手にした絵をじっと見つめる。ふいに、少年の頭上から骨張った手が伸びてきて、手にしていた絵を取り上げた。 『あっ!!』 慌てた少年が手を伸ばして絵をつかもうとするが、届かず、少年は立ち上がって絵を取り上げた人物を振り返った。 『・・・あ・・・おじいさま・・』 ひょろりと背が高く、骨張った体つきの初老の人物がまじまじとその絵を見ていた。少年は、もじもじと下を向いて、上目使いに厳しい顔つきの老人を見上げる。 『・・・シーヴァス、お前が描いたのか?』 低いかすれた声で老人が少年に問う。言われた少年は、嬉しそうに頷く。 『はい!』 誇らしげに少年はそう答えた。かつて、少年の父は彼が絵を描くのを嬉しそうに見ていてくれたものだ。上手だといつもほめてくれた。絵を描くことは少年にとって、誉められるべきことだった。・・・そのときまでは。 老人は少年の答えを聞くと手にした絵をびりびりと破り捨てた。 『ああっっ!!』 悲しげな叫び声が響き、床にちらばった紙切れを拾い集めようと少年はしゃがみこむ。 『お前がそのような下らないことをすることを許さん。 父親と同じ真似などさせん。お前は、フォルクガングの跡継ぎだ。 もっとほかになさねばならんことは山ほどある。』 冷たい声で老人はそう告げるときびすをかえして、少年から歩み去る。もうもとにはもどらない紙の切れ端を少年は両手に集めてずっと見つめていた。 目が覚めたシーヴァスは、ベッドの上に起きあがり、不機嫌そうに眉をしかめた。思い出したくもないことを思い出させられた。そうだ、絵を描くのをやめたのはあの時以来だった。祖父は、シーヴァスが絵を描くのを嫌った。当時はただ、それがいけないことなのだと思っていたが、今は祖父の気持ちもわからないでもない。娘を奪っていった男と同じことを、自分がするのが我慢ならなかったのだろう。だが、自分は。シーヴァスはそこで考え込む。 自分は絵を描いていたかったのだろうか。もし、可能であったならば、今も絵筆を持っていただろうか。 わからない。今の自分が、絵を描きたいと思っているかもわからない。 取り上げられたという思いは残るが、未練があるという気は今はもうしない。それに、今となっては描きたいと思うものもない。 幼いころは、両親と過ごした優しい風景と両親の姿がシーヴァスの絵のすべてだった。今は、彼の心を絵に向かわせるものがない。 そう考えたとたん、心の端を白い翼が横切る。 「・・・・どうかしている」 天使の笑顔が脳裏に浮かんで、シーヴァスは眉を顰めて首を横に振った。それでも、天使の無邪気な笑顔が心から離れず、シーヴァスは困ったように長い前髪を掻き上げると苦笑を漏らした。 もう長く開けたことのない部屋は扉を開けると少しカビ臭いにおいがした。埃のたまったソファは今のシーヴァスには小さすぎて。今も、そこには拳を膝の上で握りしめ、泣くまいと唇を噛みしめる幼い自分がいるかのようだった。それは、思い出したくもないことだが。幼く、力もなく、ただ、膝を抱えるしか能のなかった自分。シーヴァスは一瞬顔をしかめたが、ずんずんと部屋の奥に入り、閉じられたままの棚の扉を開く。勢いよく開きすぎて、埃が舞うのに咳き込むが、目当ての物を探して手を伸ばす。どうやらその棚にはないようで、隣の棚に移動する。木でできたおもちゃ、絵本、読み書きの練習をしたノート。今度まとめて捨ててやろうとばかりに、シーヴァスはそれらを放り出す。見たくもない思い出の品はあれども、目的のものはなかなか出てこなかった。 低く舌打ちして棚の奥に手を伸ばしたシーヴァスは、その板が動くのに気づいた。動かすと外れてしまいそうだ。シーヴァスは服に埃がつくのも構わずにがたがたとその板を動かし、外そうとする。ゆっくりと上へずらすと、はめ込まれていた下の部分が外れ、板はごそっととれてしまった。そこは、隠されたスペースになっていて、その中にシーヴァスは探していたものを見つけたのだった。 子供用の絵筆と、もうすっかり乾いてしまった絵の具。取りだしてみてシーヴァスは苦笑する。 「・・・そうだな、今更、使えるはずもなかったか・・・」 いったい、自分は何をしようとしていたのか、今更、取りだして絵を描こうとでも思っていたのだろうか。だが、乾ききってしまった絵筆と絵の具にかすかに残る油の匂いは、妙に懐かしくシーヴァスの心を揺らした。 結局、使えそうもないそれらを今の自室に運んできてしまったシーヴァスは、それを机の上においてどうしたものかと眺めていた。そこへ、馴染み深いものになった柔らかな羽ばたきの音が聞こえる。 「シーヴァス、こんにちわ」 天使が舞い降りてきたのと、彼女の視線が机の上の見慣れぬものへと注がれるのと、ほぼ同じくらいだった。シーヴァスはどことなくばつの悪そうな顔をして、天使の顔を見返す。 「・・・時もわきまえずに突然現れるのも考え物だな。」 不機嫌そうにそう言うシーヴァスに、天使は申し訳なさそうな顔をする。 「すみません・・・お忙しかったですか?」 シーヴァスは、さりげなく歩いて位置をかえ、天使から絵筆と絵の具が見えなくなるように間に立つ。 「・・・まあ、いつものことだ、今更言っても仕方ないのはわかっているが。 それで、用件はなんだ?」 そうシーヴァスが尋ねると、天使は、少し言いにくそうにうつむく。怪訝そうな顔をしたシーヴァスが、沈黙のうちに先を促すと、天使はちらりとシーヴァスの影にある絵の具を見ながら言った。 「・・・あの、シーヴァス、今日はお誕生日だったでしょう? だから、何かプレゼントをさしあげようと思ったのですけど・・・・ その、シーヴァスがそんな立派なものを持っているなんて、知らなかったものですから、私・・・」 もじもじとうつむいた天使が後ろ手に持っていたものを、シーヴァスの前に差し出す。 「・・・・これは・・」 リボンのかけられた白い絵の具が天使の手にあった。 「あの、私はこういうものを買うわけにはいきませんから、 ラツィエルさまにお願いして特別にいただいたのですが どれか一色だけ、と言われたので、何色を一番よく使うのかと思ったんですけど、 白かしら、と思ったものですから・・・あの・・」 シーヴァスが何か言わなければ、そのまま手を引っ込めてしまいそうだったので、とりあえず先に絵の具をシーヴァスは天使の手から受け取る。 「・・・あれは、昔の絵の具だから、もう固まってしまって使えないんだ」 そう言うと、天使は 「それじゃ、この絵の具も役に立ちますか?」 と顔をあげた。シーヴァスは苦笑しながら答える。 「さあ、絵の具があっても、私に絵を描くつもりがなければ仕方のないものだ」 「・・・もう、描かないんですか?」 少し残念そうに天使が言う。 「シーヴァスの描いた絵を見たいです・・・。だめですか?」 「なぜ?」 「理由がなくちゃ、ダメですか?」 いつになく、頑固に言い募る天使に、シーヴァスは肩を竦めた。 「君が理由を言えないなら、私が言ってやろうか? 君は、このまえの私の話を聞いて、こう思った。 『シーヴァスにとって、絵を描くということは、幼い幸せだったころの象徴なのだわ。 彼はなくしてしまったものを取り戻すために、もう一度絵筆を握るべきじゃないかしら』 ・・・違うか?」 シーヴァスの言葉に天使の顔がさっと朱に染まった。 「・・・そ、そんなつもりは・・・」 「全然なかったと言えるか?」 天使が押し黙ってしまう。シーヴァスは黙り込んでしまった天使を見て、少し苛めすぎたかな、と言葉をかける。 「・・・まあ、いい。そうだとしても、的外れだとはいえないかもしれないからな。 別に、絵を描くことに未練があるわけではないが、好んで捨てたわけでもない。 それを確かめるために・・・もう一度絵筆を取ってみようか、などと思っていたところだからな」 それを聞いて、天使が顔を輝かせた。なんとも現金なものだ。 「じゃあ、シーヴァス、絵を描くのですね?」 「だから、なぜそれがそんなに嬉しいんだ」 無邪気な天使の笑顔につられたかのように、シーヴァスもつい微笑みを誘われて笑いながらそう問うた。天使はたしなめられたと思ったか、少し頬を赤らめると 「・・・本当に、シーヴァス、あなたの描いた絵が、みたいだけなんです。 あなたの目に、この世界は、どう映っているのか、それを知りたいとそう思っただけんなんです」 と答えた。ただ、シーヴァスの目に映る世界を知りたい、と。では、それは、何故だ? そう問うことを、しかし、シーヴァスはしなかった。なおさら、天使が困るだろうことは目に見えていたから。そして、その問いの答えは、まだ急がないと、そう思ったから。 「・・・まったく、君はおかしな天使だな。 まあ、いい。 絵の具も、私に絵を描くつもりにさせたのも、君からの誕生日プレゼントだと思っておくことにする。 そうだな、幼いころに取り上げられた「絵を描く」ことを、君が返してくれた、と そう思うことにするさ」 そう言うと、天使は嬉しそうに笑った。まったく、この笑顔には勝てない。シーヴァスは内心苦笑する。 「シーヴァス、何の絵を描かれるんですか?」 早速そんなことを聞いてくる天使に 「バカな、気の早いことを・・・ まだ、君にもらった白い絵の具しかないというのに、何を描くもないだろう」 そう、呆れたように答える。だが、またまた申し訳なさそうに顔を赤らめる天使を見つめながら、シーヴァスにはもうすでに、何を描くかという心は決まっていたのだが。 天使が、青い空に真白な翼を広げて飛び立つ乙女の姿を描いた絵を手にするのは、天使でなくなったその後のことであった。 |