格子つきの小さな窓が一つあいただけの狭い部屋で、天使は片隅に座ってずっと考え事をしていた。 冷たい石造りのベッドと、小さな机、少しの紙とペン、水。他は何一つないこの部屋は、特別な場合にしか使用されることのない部屋だ。つまり、禁を侵した天使が謹慎するための部屋なのである。長く使われることのなかった此の部屋をよもやインフォス守護という大任を果たした天使が使うことになろうとは、皮肉な話でもあった。 シーヴァスにはもう逢えないかもしれない。そう、うっすらとルーチェは思う。だが、以前ほど苦しくはなかった。彼を愛していると、初めて口にして認めたとき、心がすっと軽くなった。過ちでもいい、たとえ罪を犯しても、彼の思いに応えて自らの想いを認めたいとそう思った。 「・・・天使さま・・・!」 小さな囁き声がして、窓から妖精が中を覗いているのが見えた。天使は驚いて立ち上がると、窓辺に近づく。 「シェリー・・・なぜ、ここへ?」 「天使さま・・・すみません、私たちが差し出た真似をしたばかりに・・・ 天使さまにこんなご迷惑をかけてしまうことになってしまって・・。 天使さまにもう一度、シーヴァスさまにお逢いする機会をさしあげたかったんです。 でも、それがこんなことになるなんて」 泣きながらそう言うシェリーに、天使はにっこりと微笑んで答えた。 「いいえ、シェリー。あなたにも、ローザにも感謝しています。 私は今、とても穏やかな気分なのです。今までのどんな時よりも、幸せな気分なのですよ。 彼を愛しているとそう言えて・・・そう認めることができて、幸せなのです。 どんな処分が私を待っているかわかりませんが、どんな罰を受けようとも、 もうこの気持ちを変えることはできません・・・・」 「天使さまぁ・・・」 小さな羽根を震わせてしゃくりあげる妖精を、天使は優しい顔で見つめていた。労りと慈愛に満ちたその表情には、苦痛も不安も見えなかった。 「ローザはどうしていますか?」 禁をおかして自分にシーヴァスのことを知らせにきてくれた妖精のことを心配して、天使がそう尋ねる。 「大丈夫です・・・今は、インフォスにシーヴァス様のご様子を見に行ってます」 「そう、よかった・・・」とつぶやきながら、シーヴァスの名前に身体が一瞬震えた。なるべく声が震えないようにと祈りながら、表情が見えないように顔を伏せて妖精に尋ねる。 「シーヴァスは・・・シーヴァスは元気ですか?」 もし、天界の咎めが彼にまで及んでしまったら。それだけが心配だった。 「はい・・・毎日、天使さまを待っておられます。 約束は守られると信じて、ずっと待っておられますよ」 天界とインフォスでは時間の流れが異なる。ルーチェにとっては、シーヴァスのことを聞いたのは昨日の午後という感覚だが、インフォスではそれからすでに2週間は過ぎているだろう。しかし、今のところ彼には何事もおこっていないと知って、ルーチェはほっと息をついた。 「天使さま・・・大丈夫ですよね? ガブリエルさまもお二人のことをお許しくださいますよね?」 哀願するように妖精がそう天使に言う。天使はそれが難しいことを知りながら、妖精に心配をかけたくなくて優しく頷いた。それを見て、妖精はやっとにっこりと笑った。 「良かった・・・! 天使さまは嘘をおつきになられませんもの。 天使さまが大丈夫だとおっしゃるなら、きっと大丈夫ですよね。 シーヴァスさまにもじきにお逢いできますよね!」 妖精たちの想いが嬉しくて、天使はただ微笑んだ。もし。もし、シーヴァスに逢うことが叶わないなら、そのときは彼女たちに想いを託そう。彼女たちに辛い思いをさせてしまうのは、とても哀しいのだけれど、でも、シーヴァスに伝えてほしいとそう思った。 どうか、私を覚えていてください、と。 もう逢うことが叶わないなら、いっそ忘れてくれた方がシーヴァスのためになるかもしれない。 けれど、誰か他の女性を愛するようになっても、共に過ごした日々が遠い過去の話になってしまったとしても、心の片隅でいいから、覚えていてほしい。それが、本当に正直なルーチェの想いだった。たとえば、うららかな春の日に、風が木々の若葉を揺らして通りすぎていくその一瞬、彼女のことをふと思い出してくれる、それだけでもいいのだ。それだけで、幸せだと思える。風が通り過ぎるその一瞬だけでも、彼の心を自分で埋めてしまえるのなら。そう想いながら、ルーチェは苦笑した。なんと、自分は身勝手なのだろう。今になって、覚えていてほしいなどと思うなんて。 「シェリー・・あまりあなたもここへ長居をしていてはいけません。 見つかれば、あなたも咎めを受けることになりますし・・・ティタニアさまにもご迷惑がかかります。 ただ・・・一つ、お願いがあります・・・明日もまた、来てくれますか?」 「もちろんです、天使さま・・・私か、ローザが必ずご様子を窺いに参ります」 シェリーは、天使の願いに懸命にそう答えた。天使はにっこり微笑むと、じゃあもうお帰りなさい、と妖精に声をかける。シェリーは、そう言われて不安げな表情をしながらも窓から飛び立った。何度も何度も、小さな窓から見える天使の顔を振り向きながら。しかし、妖精はそのまま精霊界へも地上へも戻らなかった。天界のティタニアの元に身を寄せ、天使に裁定が下るのを待つことにしたのである。 一方、シェリーが帰った後、ルーチェは短い手紙をしたためた。明日、妖精が来てくれたならその手紙を託すつもりだった。小さく折り畳んだそれを、彼女は窓の格子にそっと結びつけた。明日の朝、もう彼女がこの部屋に戻らないことになっていたとしても、おそらく妖精が気づいてくれることだろう。そうして、堅いベッドに戻って目を閉じる。もう、悔やむ気持ちは起こらなかった。 そのとき、入り口の鍵が開けられる音がして、低く軋む音と同時に重い扉が開けられた。ルーチェは起きあがってそちらを見る。 「・・・ガブリエルさま・・・!」 入ってきた人の姿を見て彼女は慌てて床にひざまずく。インフォス守護の10年間、彼女をずっと見守り支えてきてくれたこの大天使の期待に背いてしまったことは、申し訳なく思っていた。痛ましげな顔をしたガブリエルは、静かな声で彼女に告げた。 「ルーチェ、あなたの処分が決定しました。 あなたは、インフォス守護に多大な功績を残した天使です。 私は、あなたがその任務にどれほど真摯に取り組んできたか十分に理解しているつもりです。 ですから、あなたを罰せねばならないことがとても辛い。 ルーチェ、過ちを犯してしまったことは、もはや仕方のないことです。 そして、それを告白し、悔いて改める者を敢えて罰することは無意味なものです。 あなたが、自ら告白した過ちを悔いているのであれば すべてを許し、新たなる任務に就くことを認めましょう。」 おそらく、その裁定はガブリエルが尽力してくれた結果譲歩されてだされたものなのだろう。しかし、ルーチェはそこまでしてくれたガブリエルの気持ちを、受け取れないことを辛く思いながらもこう言った。 「・・・ガブリエル様・・・ご厚情溢れる裁定、ありがたく存じます・・・ しかし、私はもはや、そのようにしていただける者ではありません・・。 私は、自らの罪は告白いたしました。しかし・・・しかし、今もその過ちを悔いることはできません。 彼を愛することができて幸せであったと、そう思えるのです。 自らの思いも、彼の思いももう否定することはできないのです・・・」 ガブリエルはきっと、哀しい顔をしているだろう。それを見るのが辛くて顔が上げられず、ルーチェは深く頭をうなだれて床を見つめていた。 しばらくの沈黙の後、ガブリエルの静かな声がした。 「・・・あなたなら、そう言うだろうと思っていました・・・。 それでも、どうかあなたを助けてあげたかった。力の及ばなかった私を許してくださいね、ルーチェ。」 思わず、ガブリエルの顔をルーチェは見上げた。ガブリエルは何も悪くはない。すべては自分が選んだことだった。言葉にならずにルーチェはガブリエルの顔を見つめたまま、首を振る。 しばらく目を閉じて心を落ち着けるかのように俯いていたガブリエルが、きっと顔をあげてルーチェの顔を見据えた。その表情はもはや、天界の天使を束ねる長の顔であり、厳しいものになっていた。 「それでは、裁定を言い渡します・・・・」 シーヴァスは、その日もまた野に出ていた。彼女が戻ってくるならどこだろうと思っていたのだが、インフォスの風景が好きだった彼女ならきっと見晴らしのいい野に戻ってくるような気がしたからだ。この場所で、共に語り合ったこともあったなと思い出す。最初は、初めて共に旅に出たとき。まだ、彼女と知り合ったばかりで、天使というものがどんなものかも良くわからなかった。はしゃぐように野を駆けて、景色がきれいだと嬉しげに語る彼女に向かって「まるで子供だな」と言ったのを覚えている。とたんに、少し大人しくなって、「呆れてしまいましたか?」と申し訳なさそうに尋ねてきた。無邪気なその心に惹かれた。何度も共に旅を繰り返し、そして最後にここで会ったのは、別れのときだった。「約束を、覚えているか?」とそう問うと、小さく頷いた。長い時を経て、いつしか無邪気だった彼女は憂いを秘めた顔の天使に変わっていた。変えてしまったのは自分なのだと、十分承知していた。それでも、時折漏らす小さな微笑みが愛おしかった。 「約束を、覚えているか?」もう一度、会いにきてくれと。もし、自分が彼女のことを覚えていたらもう一度会いに来てくれと約束をした。だが、彼女にそう念を押した自分こそが約束を忘れていた。彼女はそれを知っていたのだ。自分が忘れてしまうことを知っていたのだ。だから、彼の思いに答えようとはしなかったのだ。忘れてしまえるほどの想いの何を信じることができる? だが、今、シーヴァスはすべてを思い出していた。彼女の笑顔、涙、紫水晶の瞳、桜色の唇、細い指、白い背中、やわらかな身体、しなやかな翼。彼女の姿を、名前を、二人の過ごした時間を忘れていても、彼女を愛していたということは忘れられなかった。だから、夢の中でずっと彼女を捜していた。やっと、思い出した。やっと。・・・だから、ルーチェ、君も約束を果たしてくれ。 私を愛しているとけして言わなかった嘘つきな天使。だが、この約束は嘘ではないだろう? 祈るような気持ちでシーヴァスは天使を待っていた。 風が草をなでて通りすぎていく。さわさわと揺れる草が優しい音を耳に届ける。 ・・・シーヴァス・・・ ふいに、誰かに呼ばれた気がした。シーヴァスは辺りを見回す。 「・・・シーヴァスさま・・・!」 小さな光がシーヴァスの頭上を飛び回っている。目をこらすとその光の中にいるのは、見覚えのある妖精だった。かつて、天使とともにいた妖精。 「・・・シーヴァスさま! はやく、こちらへ・・!」 どうした、と声をかける間もなく、妖精の切羽詰まった様子にシーヴァスはその後をついて先を急ぐ。野を進み、膝までのびた草を踏みしめてしばらく歩くと妖精が止まった。 「・・・?」 シーヴァスもその場に立ち止まって妖精を見上げる。 「シーヴァスさま、ルーチェ様が、この先に・・」 堅い声でそう告げる妖精の言葉に、シーヴァスは妖精の脇をすり抜けて先を急ぐ。その後ろ姿を妖精が少し辛そうな顔で見送った。 シーヴァスはその場で立ちすくんでいた。草むらの中に、彼女が倒れていた。白い血の気のない顔をしてぐったりと倒れていた。口の中がからからに乾き、頭に血が上って鼓動が早くなっていた。やっとの思いで膝を折りまげて地につけ、おそるおそる彼女の顔に耳を近づける。かすかに呼吸しているのがわかった。 「・・・ルーチェ・・・?」 小さく呼びかけるが彼女の目覚める気配はない。シーヴァスはそっと彼女を抱き起こした。その背中の下に手を差し込んだとき、シーヴァスはぎょっとした。倒れた彼女を見たときに感じた違和感。それは、背中に翼がないことだった。そして、今、また。 その手に触れたぬるりとした感触をシーヴァスはよく知っていた。だが、思い違いであってくれることを願っていた。おそるおそる、彼女の背に触れた手を見てみる。そして、彼女の血で濡れた手を見たとき、息をすることさえ忘れた。 「・・・・なんだ、これは・・・・!! なんだ、これは!! どういうことなんだ!」 血を吐くようなシーヴァスの叫びに、それを背後から見守っていた妖精が苦し気に答える。 「仕方なかったんです! 天使さまが、ここへお戻りになるには、それしかなかったんです! 罰を受けても、インフォスへ戻る願いを曲げることはなさらなかった・・」 妖精は、自分が見たことをシーヴァスには伝えなかった。自分も見届けるのがあまりに辛かった。天から堕した天使。その烙印を押されたのだ。引き出され、地に押さえ付けられ背の翼を切り落とされるその刑を、妖精は直視することができなかった。インフォスの地に落とされたのは、せめてものガブリエルの情けなのだろう。 「応急処置はなされています、血もいずれ止まることでしょう」 淡々とした妖精の言葉に、シーヴァスが怒りのあまり睨み付ける。この仕打ちが天の成す技だというのか。インフォスを救った彼女に対する仕打ちなのか。だが、そんなシーヴァスの鼻先に、妖精は小さな壜を差し出した。 「・・・これを、とガブリエルさまとラツィエルさまから内密にお預かりしました。 シーヴァスさまなら、御存じでしょう、天界の薬です。 傷痕は残るでしょうが、天使さまの背中の傷もこれで癒されるはずです。 飲ませてさしあげてください」 確かに見覚えのあるその壜をシーヴァスは赤く染まった手で受け取った。 「・・・私のせいなのか・・・私のせいなのだな? 彼女がこうなってしまったのは、私のせいなのだな・・・・ なぜ、彼女が罰を受けるんだ、なぜ、私には何一つ咎めなく、彼女なんだ・・・!」 こんなことを望んでいたわけではない。彼女が傷つけられることを望んでいたわけではない。彼女がこのような目にあわされるくらいなら、自分が咎を受けるほうがどれほどましだっただろう。そして、これこそが自分に与えられた罰なのだろう。 「・・・シーヴァスさま、 もう、私たちや大天使さまが天使さまのためにしてさしあげられることは何もないのです。 これからは、シーヴァスさまが天使さまをお守りしてさしあげてください。 天使さまが、翼を落とされてもシーヴァスさまの元にお戻りになりたいと願われたことを どうか、大切にしてさしあげてください。 シーヴァスさまが、ご自分のことを苦に思われては、天使さまが悲しまれます・・・」 シーヴァスは、腕の中の翼を奪われた天使をそっと抱き締めた。そうだ。それが罪だと言われても、この思いを貫くと決めたのは自分だった。それに応えてくれない彼女を責めたのも自分だった。ならば、今のこの胸の痛みを自分は一生背負っていかなくてはなるまい。 「シーヴァスさま、私達の大切な天使さまのこと、お願いいたします。」 妖精が深く頭を下げた。シーヴァスは大きく頷く。 「・・・すまない・・・彼女をここへ連れてきてくれたことを感謝する・・・ この薬を与えてくれた大天使どのとやらにも・・・礼をたのむ。 彼女のことは、私が必ず幸せにすると。」 地上で彼女が人として生きることは、自らの罪を購うことでもあるのだろう。だが、ここで生きることが天に対する贖罪などと思わせない。選んだ道が間違いであったと思わせない。彼女と幸せになる。 「・・・シーヴァスさま、どうか、天使さまをお願いいたします・・」 何度もそう繰り返しながら、妖精は空へと消えていった。しばらくその行方を目で追っていたシーヴァスは、妖精から受け取った壜の中身を口に含んだ。もしも、万が一この壜の中身が薬でなかったとしても、これで自分も彼女と共にいけるだろう。そんなことを考えている自分に苦笑する。 血の気の失せた彼女の唇にそっと口付け、彼女の咽に薬を流し込む。小さく喉が動いて彼女が薬を飲んだ。そっともう一度、彼女の身体を抱き締め直す。 やがて、彼女の冷えた指先に血が通いはじめ、温かさを取り戻し、頬に赤みがさしてきた。 そうして、長い睫が震えるとともに、ゆっくりとその目が開けられた。じっと覗き込むと、彼女はしばらくシーヴァスの顔を眺めていたが、小さく唇を動かした。かすれた声が彼の名を呼ぶ。 「・・・シーヴァス・・・?」 「・・・ああ、そうだ。・・・おかえり、約束を果たしてくれてありがとう・・・」 シーヴァスは優しくそう応えた。ルーチェがにっこりと微笑む。その手がのばされてシーヴァスの頬に触れた。 「・・・ほんとにシーヴァスなんですね・・・よかった・・・」 「ああ、私だ。君は、インフォスに戻ってきたんだよ」 触れる彼女の指にそっと口付けてシーヴァスが答える。目蓋が重そうに何度かまばたきを繰り返してルーチェが囁く。 「・・・良かった・・・安心したら、なんだか眠くなってきました・・」 「ああ、寝たまえ、疲れているだろう? 天界からここまで遠かっただろうしな」 努めて明るく、シーヴァスがそう答えるのに、ルーチェが首を弱く横に振る。 「・・・でも、眠って目が醒めたら、また夢だったんじゃないかって・・・だからもう少し起きています」 「大丈夫だ、君が目覚めるまで側にいるから・・・」 そっとその額に口づける。くすぐったそうに、天使が首を竦めた。じっと、彼女の瞳がシーヴァスの瞳を見つめていた。深く吸い込まれてしまいそうな、瞳。 「・・・シーヴァス・・・」 じっと、彼の瞳を見つめて天使が囁いた。 「シーヴァス・・・愛しています・・・あなたを、愛しています」 ずっと封印されていた言葉。 「・・・ああ」 知っていた。ずっと、声に出さなくても彼女がそう言い続けていたのを知っていた。シーヴァスが頷くと、ルーチェは嬉しそうに微笑んだ。 「・・・ああ・・・やっと、言えました・・・・」 そうして、大きく一度息をつくと、そっと目を閉じた。満足そうな微笑みを浮かべて。 「・・・ルーチェ・・・?」 だが、もう彼女はシーヴァスの言葉に答えず、静かな寝息をたてていた。 シーヴァスは、彼女の温もりを逃さぬように彼女を深く抱きかかえる。 「おやすみ、ルーチェ・・・」 風は優しく、空は高く。腕の中の温もりが消えぬように、シーヴァスはただその場で彼女を抱き締めていた。 |