天使の瞳

「・・・今日も遅いですね、シーヴァスは」
ルーチェは小さくあくびをした。
天使でいるときは、地上の距離はたいした問題ではなかったが、 人となった今、彼女にあるのは二本の足のみ。
シーヴァスが今、どこにいるのかは知るよしもない。
翼を捨て、人として住まうようになって一カ月が過ぎる。
好きな部屋を使って良い、と言われ、ルーチェは中庭に近い部屋を自室にしていた。
シーヴァスのいない昼は、庭で草花の手入れをしていることがもっぱらだ。
(こんなことでいいんでしょうかね・・・)
天使だったころは、勇者である彼に力を借りながらも、 ルーチェもまた、彼のために力を与えることができた。
今の自分は、シーヴァスのために何ができるだろう?
「やはり、まだ起きていたのだな。灯りがついていたから、もしやと思っていたのだが」
そう、声がして、少し疲れた顔をしたシーヴァスが部屋に入ってきた。
「ああ、お帰りなさい、シーヴァス。」
「遅くなるときは、先に寝ていたまえと言っただろう?
 慣れない生活で疲れているのは君のほうのはずだ」
「でも、シーヴァスが頑張っているのに、私だけ寝ているわけにはいきませんよ。
 これくらいしか、今の私にはできないんですから」
ルーチェは、ソファから立ち上がり、シーヴァスのそばに近づく。
「お疲れのようですね。大丈夫ですか?」
「君はいつになっても心配性だな。
 たいしたことはない。自己管理くらい、きちんとしている」
「すみません。そんなつもりはなかったんですけど・・・・」
「あ、いや、そんな気にすることはないんだ。
 私よりも君は、自分を心配するべきだろう」
シーヴァスは少し慌てて、そう答えた。
それは、ルーチェの体を心配してのことだったのだが、ルーチェの方は、まったく違う方向に取ってしまったようだった。
情けない顔をしてうつむいてしまう。
「そう・・・ですよね。
 私ときたら、あなたのために何もできなくて。
 このままでいいのかなって思ってるんですけど・・・・。
 ほかの貴婦人方のように、せめてダンスができるとか、
 裁縫が得意とか、何かとりえがあればいいのですが・・・・。」
「君がダンスが下手だろうと、裁縫ができなかろうと
 私には関係がない。第一、他の貴婦人と君を比べる必要などない」
シーヴァスは、やれやれと言った表情でそう言った。
彼にとって彼女が重要なのは、何もダンスができるからでもなければ、 裁縫ができるからでもない。
いったいそれに彼女は気付いているのか、いないのか。
「・・・・シーヴァス、私でいいんですか? 本当に?」
ルーチェはそっとシーヴァスの顔をのぞき込む。
「まったく、君ときたら天使のころからそうだったが・・・
 度し難いほどに鈍いんだな!」
シーヴァスは、不機嫌そうにそう言った。
「シ、シーヴァス、怒ったんですか?」
むっつりとしてシーヴァスはルーチェの元から離れ、 堅苦しい上着を脱ぐと椅子にかけた。
「怒るというよりも、君の言葉を借りれば、傷ついたというところか。
 君が、私の思いを疑うというのなら」
「そんなつもりじゃなかったんです。シーヴァス、あなたを傷つけるとか、
 あなたの思いを疑うとか、そんなつもりはなくって・・・」
ルーチェは慌ててそう言うと、シーヴァスの元へ寄る。
彼がまっすぐに自分を求めていてくれることは知っている。
しかし、天使であった自分と今の自分とは、
彼の思いを受け止めて彼のためにできることがあまりに違う気がして。
「私は、ずっと、君のための勇者でいると誓った。
 その誓いは今も変わらないんだ、ルーチェ。
 君がそれを疑うというのなら、君に教えてもいい」
「シ、シシ、シーヴァス????」
強くシーヴァスに手首をつかまれて、ルーチェは赤くなったり青くなったりする。
「いいかい、君が天使だったことにこだわっているのは私も同じだ。
 君に触れたくても・・・・ずっと我慢していた。ルーチェ・・・」
「シ、シーヴァス、あの、あの、」
シーヴァスの顔がルーチェに近づく。
間近にその瞳を見て、ルーチェはどぎまぎする。
「ま、また冗談・・・・じゃないですよね・・・・」
「だから、君は鈍感だと言うんだ。
 あのときだって、私はかなり本気だったんだぞ。
 ただ、君があまりにも初心な乙女のようだったから・・・・」
シーヴァスの腕に抱き締められ、ルーチェはどうしてよいかわからずにもがいた。
だが、シーヴァスは、きつく抱き締めるでもなく、かといって腕を緩めるでもなく、 か弱い抵抗を続けるルーチェの動きを楽しむかのように、 彼女をその腕の中に包み込む。
「シ、シーヴァス・・・あの、あの・・・」
「君に、触れてもいいか? ルーチェ」
熱っぽくささやかれて、ルーチェは真っ赤になってしまう。
自分の鼓動が耳に響いて、シーヴァスにも聞こえるのではないかと思った。
「シーヴァス・・・・イヤじゃないです。
 でも、どう、どうしていいか、わかりません・・・・そ、それに・・」
シーヴァスに触れられることは厭ではない。
だが、それをシーヴァスに許可するには翼をなくすよりも、 人になるよりも多大なる決心が必要だった。
やっとそう答えるルーチェをさえぎってシーヴァスが言う。
「だまって・・・・だまって、ルーチェ。
 キスするときは、黙って目を閉じるんだ」
優しく口づけられて、シーヴァスの腕の中にルーチェは体を預ける。
「シーヴァス・・・・」
やっと唇を離したシーヴァスは、ルーチェを抱き上げた。
「シ、シーヴァス? あの、あのっ」
慌てるルーチェをもう一度軽い口づけで黙らせるとシーヴァスは答えた。
「続きは、ゆっくり教えよう、ルーチェ」






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