光の庭<3>

天気のよい日、いつも私は中庭に出て草花の手入れをしていました。
彼の屋敷では、私は客人として扱われていたので、昼間に特に何かをしなくてはならないということはありませんでした。ですから、空いていた中庭にハーブを植えさせてもらったのも、言ってみれば私のわがままでもありました。
けれど、何も覚えていない私が、何もすることなくじっとしていることは、却って不安になることも多いと彼は考えてくれたのか、何も言いませんでした。
その日も、私は庭で草木の手入れをしていました。
「ビアンカ」
水をやっていると、彼が背後から声をかけてきました。彼が庭に出てくることは初めてで、私は驚きました。
「あの・・・今日は、お仕事は?」
「たまには休みをとってもいいだろう。
 これが、君の自慢の花壇、というわけだな?」
「自慢だなんて・・・ただ、好きなだけです」
「ロマーリオたちが言っていた。
 屋敷の中が、最近いつも花とハーブの香りで満たされていると。
 君が、育てた草花を屋敷の中に飾っているのだそうだね」
彼はそう言って、花壇に咲く花にそっと顔を近づけその香りを楽しんでいました。
「そういえば、君からもこんな花の香りがするな」
「・・・それは、ラベンダーです。いい香りがするでしょう?
 こっちはカモミール。お茶にして飲むんです。ミントもあるんですよ」
「詳しいんだな、私にはさっぱりわからないが」
「どうしてでしょうね、わかるんです。どうしたらこの子たちが喜ぶか、
 どんな香りがして、どんなふうに役立つのか」
「すごいな、君は草花の言葉がわかるらしい」
「・・・私は、本当はこんな所にいるような人間じゃないのかもしれませんね。
 どこか小さな町の花屋の娘なのかも」
「私はそれでもかまわないな。いや、君が遠い異国の姫君だというくらいなら、其の方がずっと嬉しいかもしれない」
彼はそう言って笑いました。
「私の両親はね、身分違いの恋をして結ばれたんだ。
 すべてを捨てても惜しくないという恋に出会った両親は、幸せだったと私は思う。
 だから、私も・・君が何者でもかまわないんだよ、ビアンカ」
私は、彼がそう言ってくれるのが嬉しく、けれど不安でした。幸せだと思えば思うほど不安が大きくなるのです。その理由はわかりませんでした。でも、彼が私を大切だと言ってくれれば、くれるほど胸が痛むのでした。
「どれ、今日はその花を摘んで屋敷に飾るのかね?
 たまには私も手伝ってみようか、ほら、私が屋敷まで運ぼう」
「そ、そんな、いいんです、私が持っていきますから」
「いいから、わたしたまえ」
そう言って彼は私の手から摘んだ花を受けとろうと、私の腕をつかみました。けれど、その瞬間、彼は動きを止めてこめかみを押さえました。
「どうかしましたか?」
けれど、彼はすぐに、いつものような笑顔を浮かべて答えました。
「いや、なんでもない。最近、少し頭痛がしてね。
 仕事が忙しかったからだろうと思って今日も休みをとったんだが・・・」
「大丈夫ですか? 休んだ方がいいのでは・・・」
「大丈夫だ、君と一緒にいることがなにより休養だよ」
彼はそう言って、花を抱えると歩きだしました。私は、彼の後を追いかけていきました。彼は、なんだかはしゃいでいるように楽しげでした。花を抱えて廊下を歩きながら、彼は時々立ち止まって、私を振り向き、そして、少しほっとしたような顔をするのでした。私は、少し速足で彼に追いつき、彼の横に立って花を彼の腕から少し受け取りました。
私は、ずっと自分が何者か、その不安だけで精一杯でした。自分の心の中の不安を受け止めるだけで精一杯で、彼の言葉に慰められ、助けられるばかりでした。でも、彼も、こんな私に共に生きてほしいと言ってくれる彼も、心に不安があったはずなのです。けれど、それでも彼は、私のすべてを自分が引き受けると、そう言ってくれたのです。
「私・・・自分の過去を、もう恐れません。
 思い出したくないと、思い出さなければずっとこのまま、あなたに守られて生きていけると思っていました。
 でも、もう思い出すことを恐れません。思い出せなくても不安に思いません。だって、どうであれ、私は今、ここにいて、心を持って生きているんですもの。
 だから、大丈夫です、私はもう、大丈夫です。」
彼は、唐突な私の言葉に少し驚いたようでした。私も、自分自身驚いていました。そして急に恥ずかしくなってしまい、
「ご、ごめんなさい、急に変なことを言いました。
 ただ、いつも心配をかけてしまって・・・でも、もう大丈夫だって言いたかったんです」
と、言い訳のように彼に言いました。そして、その場にいたたまれず、その場を走り去ろうとしたとき、彼が私の腕をつかみました。
「待って!」
けれど、私の腕を掴む彼の力が急に弱くなったと思うと、彼は床に倒れてしまいました。くずおれる彼を支えようと、抱きとめ、私は彼の身に何が起こったかわからず、彼がこのままどうかなってしまったらと、それだけに胸が張り裂けそうになりながら、彼を呼び続けていました。
「しっかりしてください! シーヴァス! お願いです! しっかり・・・!」


「たいしたことはない、頭痛がするだけだと言ったのに。
 君のほうがまるでとんでもなく辛そうだ」
「ですけど・・あんなふうに倒れるなんて・・・」
彼の部屋で、彼が横たわるベッドの傍らで、私は情けなく泣いていました。彼は青い顔をして、それでも私のことを心配してくれていました。
「大丈夫だ、少し疲れていただけだ。休めばすぐに良くなる。
 君の方こそ、今にも倒れそうだぞ」
そう言われて、私は、自分が彼を心配してもただ泣くしかできないことが情けなく、
涙を拭って彼に笑いかけました。
「ごめんなさい、私がこんなじゃいけませんよね。
 少しは、楽になりましたか?」
「ああ、ずっと良くなっている、君がいるおかげかな」
「また、そんな冗談でごまかさないでください」
「本当のことだ、嘘ではないさ」
「何か、欲しいものありますか? ロマーリオさんにお願いして用意します」
「じゃあ、君がいれてくれたお茶が飲みたいな。さっきの花壇にあった・・・」
「わかりました! じゃあ、少し待っていてくださいね」
私は、自分が彼のためにできることがあることが嬉しくて、喜んで庭に出ていきました。摘みたてのハーブで彼に心休まるお茶を飲ませてあげよう、と。きっと疲れた身体も休まるはずだから、と。
私は、彼のためにハーブを摘みました。そのとき、一陣の強いかぜが吹いて、咲いていた花を散らし、花びらを空へと巻き上げました。その花びらがやがてゆっくりと地面へと降りてくるのに、私は目を奪われ空を見上げていました。やがて、私が視線を空から戻すと、彼が庭に出て立っていました。
「! まだ、起き上がってはいけません!」
私は慌てて彼に駆け寄りました。けれど、彼はそんな私の腕を掴み、真剣なまなざしで私の顔を覗き込みました。
「・・・舞い散る花びらが、羽のように見えた。
 あのときと同じように、君がまた去っていくのかと、そう思った」
彼の言葉が理解できず、私は黙って彼の顔を見つめ返していました。
「君はとても純粋で、そして強くて、傷付いても立ち上がる気高い女性だった。
 君の涙を見たのは、別れのときが初めてだった」
「あの・・・・?」
「君は、ひどい。
 私から想い出とともに去っていきながら、もう一度君に恋をさせた。
 それとも、こうやって私の君への思いを試したのか?」
私はわけがわからずに、ただ彼の言葉を聞いていました。彼は、私を腕の中におさめると囁くように言いました。
「本当に、君は覚えていないのか?
 私と同じように、すべて忘れているのか?」
私はその言葉に答えられるはずもなく、おびえたように彼を見つめていました。彼は、そんな私に言葉を続けました。
「君に、触れてもいいか、ルーチェ。
 そう言った、あのとき私は半ば本気だった。
 だから、もう一度、言う。君に・・・触れていいか?
 本当に、君は私の元へ還ってきてくれたのか?」
ゆっくりと彼の顔が私に近付いてきました。彼の深い瞳に吸い込まれそうで、目を閉じた瞬間、私は自分の唇が彼の唇に覆われたのを感じました。心臓が早鐘のように頭に鳴り響き、そして、私は・・・自分が彼にしたことを思い出しました。
彼の困ったような顔、少年のような笑顔、頬に触れる指、初めて知った思い。
そして、それらすべてを一度は捨ててしまった自分。
彼が唇を離した後も、私は目をあけることができませんでした。今、私をこうして抱き締めていてくれるのが、本当にシーヴァスなのか、私の罪を彼が許してくれているのか、それを知るのが怖かったのです。
「ルーチェ・・・」
彼の声がして、やっと私は目を開けました。優しい、瞳でした。
「・・・シーヴァス・・・私は・・・」
「・・・思い出したのか? ルーチェ」
「私は、あなたを傷つけました・・・でも、あなたと共に生きることを選んで・・・
 戻ってきました。もし、あなたが私を許してくれるなら・・・」
私は泣いていました。彼がもう、私を許してくれていることがわかって。彼の優しさが今も変わらないことがわかって。
「・・・ルーチェ、もう一度、言う。
 君さえよければ、このまま、私とともに生きてくれないか。
 その思いは今も変わっていない」
私は、その言葉に頷きました。
「・・・はい・・・はい、シーヴァス。私、あなたと共に生きていきます」
「今度こそ、もう君を天界へ帰したりしない。もう、二度と、だ」
彼の腕の中で私は目を閉じました。
彼の暖かい思いが私の心を充たしていました。そして、私もまた彼の心を充たしてあげられたら、と、そう心の底から思いました。
私はもう、二度とこの思いに迷うことはないでしょう。彼を愛している、その思いは、ルーチェである自分がビアンカであったときも、けして忘れることができなかった思いなのですから。


END






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