振り向いてみると、まだ幼さを残した子供が立っていた。 「いかにもそうだが。君はいったい誰だ?」 少なくとも私が顔を覚えている人間ではない。もっとも、男の顔など数えるほどしか覚えてはいないが。 「俺は・・・俺はリュドラル。ルーチェに頼まれて、アドメラレクを倒したのは俺だ」 「君が・・・? こんな子供に倒されるとは、奴も口ほどにもないな」 私は何でもないかのようにそうこたえたが、彼の言葉に頭の芯がすっと冷えていくのを感じていた。 ルーチェが、天使が私以外の勇者にアドメラレクの討伐を頼んだなどと。 そうだ。ヘブロンの私の元にまで、奴の噂は届いていた。 彼女が知らないわけがない。 なのに、依頼がこなかったのは、私以外の勇者に討伐を依頼したからにほかならない。 私は、彼女に裏切られた思いだった。彼女はわかってくれていると思っていた。 私が、アドラメレクを倒さねばならない理由を。 お笑いぐさだが、私は、自分の心の中まで彼女に踏み込んで欲しくないといいながら、 彼女は私の事を理解してくれていると、そう思い込んでいたのだ。 「彼女、あんたにも仕事を依頼した?」 彼がなおも私に向かって尋ねてくる。 私が今、この場にいることをいぶかしく思っているかのようだった。 そう、彼は私のことを知っていた。 彼女はさぞや、この子供を信頼しているのだろう。他の勇者のことについて話すほどに。 「いいや。ただ、私は奴の噂を聞き付けて自らやってきたにすぎない。 私自身の決着をつけるためにな」 「だろうな。だって、彼女、あんたに頼みたくなくて俺に頼んだんだもの」 ・・・私はこういう無神経な輩はどうしても好きになれない。 天使もそうだ。彼女は、世間知らずで純粋で汚れを知らず、そのうえどうしようもなく鈍感だ。 「それは聞き捨てならないな。私では役に立たないということか。 彼女の鈍感さにはまったく、ほとほと参るな」 彼女に信頼されている優秀な勇者殿に私はそう言ってやった。 「そ、そんな言い方ってないだろ。彼女はあんたを心配してたんだぞ。 俺はよく知らないけど、あんたと因縁のある野郎だったらしいじゃないかよ、アドメラレクってよ。 でも、そのために却ってあんたが傷ついたりすんじゃないかって、心配してたんだ。 だから、彼女は俺に頼んだんじゃないか。 鈍感どころか、いつもいつも気を使って、いい奴だろ? なのに、なんでそんな事、言うんだよ」 単純な人間というのは、実にわかりやすいものだ。 そう、うらやましいほどにわかりやすく、そのうえ真っすぐで自分が正しいと信じている。 こんな人間なら、確かにさぞ、あの天使と気があうことだろう。 彼は私とはなにもかもが正反対だ。笑えるほどに。 「君は、彼女に惚れているのか? 天使に恋をしても救われることなどないぞ」 そう言った自分の言葉に、私は内心笑いを禁じ得なかった。 それは一体、誰の話だ? 「だっ、だったらどうだっていうんだよ! あんたには関係ないだろ」 「やれやれ、彼女も困った天使だな」 これは、大変に間の抜けた構図でシチュエーションといえるだろう。 私はすっかりやる気などなくしてしまっていた。 彼と私がこれ以上会話をしたところで、実りなどありはしない。 「あ、あんたはどうだっていうんだよ。 お偉い貴族かなんだか知らないけど、いつだって彼女を困らせてたんだろ。 悲しそうな顔をさせたりして、俺だったらそんな顔をさせたりしない。 そのために、俺は戦ってるんだ。 あんたみたいに、自分の退屈しのぎに遊びでやってる奴に言われたかない」 彼のその言葉は私の神経を逆なでした。 私と彼女の間のことに踏み込まれたことが何よりも不快だった。 いったい、この子供に私の、私と彼女の何がわかるというのか。 もどかしく、認めることもできず、傷つけることしかできないなど、 彼には思いもよらないだろう。 ただ自分の思いを真っすぐに表すことができる、純真さを売る子供には。 「なるほど、まだまだ子供なんだな、君は。 私とて、遊びに命をかけるほど人生に退屈をしているわけではない」 だが、子供といえどさすがに天使の勇者となるだけはあって、彼は私の怒りを感じ取ったようだった。 「確かに君は勇者らしい。 だが、恋は知らぬ子供であるのも確かだな。 君にいいことを教えてやろう。甘いだけの恋など、本当の恋とは呼ばんよ」 そうだ、そして、私も本当の恋など知らずにいた。 甘いだけの、見せかけの恋だけを演じてきた。 自分の思いを認めることができず、傷つけることしかできない。 そんなことは初めてだった。だから、なおさら、それを恋と気づかずにきた。 天使に恋などしても、救いなどない。 それは、私のことだ。 もはや、この場所にいる理由もない私は、もと来た道を戻り始めた。 「待てよ、ルーチェを、彼女を責めないでやれよ」 彼が、そう私に呼びかける。 「それは、私と彼女の問題だ。君には関係のないことだ」 そう応えた私の中に、彼女は私のものだとそんな子供じみた対抗心があった。 自分の気持ちをてらうことなく言ってのけた彼を、私は認めたくなかったのだろう。 私とは、まったく正反対の、私にないものを持っている彼を。 ヘブロンに戻った私は、天使を呼び出した。 彼女の顔を見て、私はあの子供の言ったことは本当だったとわかった。 「君は、アドメラレクの討伐を私以外の勇者に依頼したそうだな」 私は彼女にそう言った。その言葉を聞いた彼女はそれとわかるほどに動揺していた。 「シーヴァス・・・あなたに黙っていたことはあやまります。 けれど・・」 彼女が何か言い訳しようとするのを私は遮った。 「そうだ、確かにどの事件を誰に依頼しようと、それは天使である君に選択権がある。 だが、君は、私と奴の間の因縁を知っていたはずだ。 なのに、なぜ私に奴を倒させてくれなかった」 「シーヴァス、それは・・・」 「私は、そんなに頼りないか。奴ごときに倒されるような勇者なのか」 「いいえ、いいえ、違います、そうではなくて」 彼女の美しい顔が、苦しそうに歪む。 私は自分の感情のままに彼女を責め立てた事を後悔した。 彼女に対する怒りは、もう引いていた。 むしろ、彼女をまた傷つけたという罪悪感が広がっていた。 『悲しそうな顔をさせたりして、俺だったらそんな顔をさせたりしない。』 私とて彼女にこんな顔をさせたいわけではない。 「私は・・・」 「・・・せめて、最後の決着くらいは私につけさせてくれ。 私は、自分自身の手でけりをつけたいのだ」 私は、そう彼女に告げた。心の底からの願いだった。 他の勇者とて、そう望むだろう。だが、私の願いだけを聞き入れて欲しい。 そう、願った。 「わかりました、シーヴァス。必ず、そのときはあなたに依頼しましょう」 彼女はそう言ってくれた。その言葉で十分だった。彼女はけして嘘を言わないのだから。 「また、来てもいいですか?」 帰り際に彼女はそう言った。 彼女がそんな事を言うのは初めてのことで、私は少なからず驚いた。 「ああ、たまになら君との会話も悪くないからな」 私は、自分でも素直ではないとわかってはいたが、そう言うのが精一杯だった。 本当は、君をずっと側においておきたいと言ったら、君はどんな反応をするだろう? 彼女は約束の通り、姿を現した堕天使たちの討伐を私に依頼した。 そしてその旅の間、私に同行していた。 他の勇者を放っておいていいのかなどと、聞くつもりはなかった。 彼女が私の側にいてくれるなら、そんなことはどうでもいい。 すべての敵も私が討伐してみせればすむだけのことだ。 それでも、時には休息を取る時間もあった。 久しぶりに招かれた舞踏会で、私はさほど楽しんではいなかった。 どこかの貴婦人が語りかけてきていたが、それも耳に入ってはいなかった。 彼女が庭に来ていることは私にはわかっていた。 私は舞踏会で、貴婦人に囲まれる時間よりも、 彼女とともに過ごす時間を望んだ。 遠く、舞踏会の音楽が聞こえる中、月明かりに照らされる彼女は美しかった。 彼女を初めて見たときも、そう思ったことを私は思い出した。 不思議なことに、私はまるで初めて女性と話をする少年のように、 彼女に何を語ればいいのか困っていた。 「あなたの話したいことを話してください、私はそれを聞きますから」 彼女の言葉は優しく、私はこれまで誰にも話したことのない自分自身のことについて、 気づけば語っていた。 私は弱い人間だ。そう認めることが怖かった。 だが、彼女はそれでいいと言ってくれた。そのままの私でいいのだと。 その言葉に私は救われた。 彼女が天使でさえなければ、私は彼女を腕に抱き締めていたことだろう。 私はこれまでさして自分で何かを望んだことはなかった。 欲しいものは与えられたし、望んでも無駄なものは最初から手に入れようとは思わなかった。 くるものは拒まなかったが、去って行くものを追いかけることは、 くだらない労力の無駄だと思っていた。 だが、長い勇者としての務めのうちに私は自分自身が変化したことを感じていた。 それは、彼女のせいだった。 私のために、地上にとどまってほしい。 それが彼女にとってどんな選択なのか、私はわかっているつもりだったが、 それでも、言わずにはいられなかった。 これまで数々の女性に接してきた私だったが、これまでのどんな時よりも、 この告白には勇気が必要だった。そしてまた、受け入れてもらえる自信もなかった。 だが、彼女はそれを受け入れてくれた。 「ええ、シーヴァス。私の思いも・・・あなたと同じなのですから」 私は、彼女の手をとって握り締めた。 そういえば、彼女に触れたのはそれが初めてだった。 柔らかく、暖かいその手が私の手を握り返してくれたとき、 そして、彼女の美しい瞳がうっすらと潤んでいるのを見たとき、 私は本当の恋の幸せというものを知ったのだ。 私の心の中に傷ついた子供はもはやいなかった。 優しい天使が彼を隠れ家から連れ出し、勇者へと育てたからだ。 |