シーヴァスは、崩れていくガープの体を眺めていた。 巨大な肉の塊がドロドロと溶け落ちていく。これを、たった今、自分が倒したのかと思うといまだ信じられない気がする。 「うっ!」 シーヴァスの頭上へ、崩れたガープの肉片が落ちて来る。咄嗟にそれを避けて、シーヴァスは後ろに飛び下がる。暗闇に浮かび上がる滅び行く堕天使の姿。長い旅の果てに望んだのが、この結果だ。これで、すべてが終わる。すべてが。 「シーヴァス!」 天空から彼の名を呼ぶ声がして、彼がそちらを振り向くと同時に腕を掴まれた。ほっそりとした天使が彼の体を支えて、空中へと飛び上がる。淀んだ堕天使の支配する異空間から彼を連れ戻すために。闇に沈んでいくその地を一度だけ振り向いて、シーヴァスは自分を抱えて飛ぶ天使の顔をじっと見つめた。いまだ厳しい表情で必死に天空を飛ぶ彼女に、シーヴァスは口の端を上げてかすかな笑みを漏らすと、彼女の背に回した腕に力をこめた。 これで、終わった。そう思うと、自然と彼女に触れる手に力がこもる。彼女の存在を確かめるかのように。 彼女のシーヴァスを支える腕にも力がこもり、周囲の様子がめまぐるしく変化していく。漆黒の闇に色が混ざりはじめ、やがてその色がマーブル状に溶け合い、混ざり合い流されていく。頭上から光が降りてくるとともに、色がはじけてまばゆいほどの光に二人は包まれる。シーヴァスはあまりの眩しさに目を閉じた一瞬の後、その体にぐん、と風の抵抗を感じた。目を開けると、そこは見慣れたインフォスの風景だった。 ふわりと天使が緑の丘に舞い降りる。シーヴァスは地面に足を降ろし大地を踏み締め、周囲を見渡した。それまでこの地上を覆っていた暗い雲も淀んだ空気も感じない。清々しい風と青く澄み渡った空。 「シーヴァス・・・ありがとうございました」 空を見上げるシーヴァスに向かって、傍らの天使がそう語りかけた。シーヴァスは、視線を天使にむける。静かに彼の傍らに立つ彼女は、疲れた様子も見せず、いつもと変わらず穏やかな笑顔をその顔に浮かべていた。 堕天使によって歪んだ時間の中に閉じ込められたこの世界を救うために天界より遣わされた天使。彼女によってシーヴァスは勇者として導かれ、さまざまなことを学んだ。そうと言えば、彼女はそれは彼自身が秘めていた力が開花しただけのことで、自分の力によるものではないと言うだろう。だが、彼女との出会いがなければシーヴァスが変わることもなかっただろう。彼を導いてくれた優しい天使。彼は彼女を深く愛していた。 「ルーチェ、私の方こそ、君に礼を言わせてくれ。 君がいてくれたからこそ、すべてが成し遂げられた」 彼女の柔らかな淡い栗色の髪にそっとシーヴァスは触れる。彼女の頬がさっと朱に染まった。彼女の思いは、シーヴァスと重なっていた。彼に触れられるとき、天使は、天使の表情ではなく一人の女性の顔になる。恋人を前にした一人の女性の顔になる。それが、シーヴァスにはいとおしい。だが、彼女の背に輝く白い翼が彼を不安にさせる。 「シーヴァス、それじゃあ、私、ガブリエルさまにご報告をしてきます。 他の勇者の皆さんにも、知らせに行きたいですし・・・」 彼女は無邪気にそうシーヴァスに告げる。シーヴァスは思わず、そんな彼女の手をとり引き留める。彼女が今、ここを離れてしまったらそのまま戻ってこないような気がした。 「ルーチェ・・・・!」 彼女はそんな彼の様子に驚いたように体をすくめる。シーヴァスは彼女をきつく抱き締めた。柔らかい彼女の体。けれど、天使の体はいくら触れても抱き締めてもどこか頼りなくて、本当に触れているのかさえも不安になる。それでも少しでも彼女の存在を確かめるかのように、彼女を抱き締め、肩に顔をうずめる。そんな彼をなだめるように、ルーチェはそっと彼の背中に腕を回した。何も語らず、何も問わず、ただ彼を抱き締めていた。 彼の腕の力がやっと少し緩まると、ルーチェはささやくように問うた。 「・・・・シーヴァス?」 彼女の声に、シーヴァスはそっと彼女から身体を離した。 「・・・・すまない、君ともう会えなくなるような気がした。 最後の最後で、意気地のない男だな、私も」 苦笑するシーヴァスに向かって、ルーチェは少し怒ったような顔をして見せた。 「シーヴァス、私はあなたに、ここにとどまると約束しました。 信じてくださらないんですか? 私が今まで、あなたにウソを言ったこと、ありましたか?」 悲しそうな、少しすねたような顔をする彼女に、シーヴァスは素直に謝罪した。 「すまない・・・・君を信じている。君は私にけして嘘を言わない。 だが・・・それでも、いざこの時が来たらそれが本当に実現するのか信じられなくなった。 君の背には確かに翼があって、そして、君は本当は天空に住まうべき天使なのだ。 本当に、私のそばに君を止めることが許されるのだろうか?」 ルーチェは、彼のその言葉に対して鮮やかに笑顔で応えた。 「翼は、もういりません。私は、天界で翼を置いてくるつもりです。 私は、自分が住まうべき世界を自分で決めます。それは、天界ではなくて、あなたの側なんです、シーヴァス。 ガブリエル様がお許しくださらなければ・・・・いいえ、それでも、あなたの元に戻ってきます」 この優しげな天使のどこにそれほどに強い意志が宿っているのか。シーヴァスは、彼女を見つめ、そうしてそっと彼女の唇に触れた。ふいをつかれたかのようないきなりのキスに、ルーチェはびっくりしたように、身体を堅くする。彼女の頬がみるみる真っ赤に染まっていった。 「シ、シーヴァス!」 思わず上ずった声をあげた彼女の頬に触れて、シーヴァスはやっと微笑んだ。彼女は戻ってくるだろう、彼の元に。どれほど時間がかかろうとも、必ず帰ってくるだろう。 「ルーチェ・・・・待っているから、行っておいで。 君の勇者がどう闘い、どのように堕天使を倒したのか、報告してくるといい。 私は、君をこの世界で待っているから」 ルーチェはさっきまでの、切羽詰まった様子とはうってかわった穏やかな様子のシーヴァスに、ほっとしたような顔をした。そうしてそっと彼の首に腕をまわし、彼の胸にそっと顔を埋め 「・・・いってきますね」 そう告げる。それからゆっくりと彼から離れて白い翼を広げてふわりと舞い上がった。 光に包まれたような彼女の姿をシーヴァスは見送った。いつも、彼女がやってくるのを待ち、彼女が去っていくのを見送るばかりだった。これが、彼女を見送る最後で、彼女を待つ最後となる。彼女の真白な翼を見るのも、これが最後だろう。 ルーチェの白い翼は、彼と彼女を隔てるものの象徴ではあったけれど、シーヴァスはけして嫌いではなかった。翼を広げた彼女の姿は、何にも変えがたく美しく彼の魂を引き付けてやまなかった。これが彼女が翼を広げて彼の前に立つ最後なのだと思うと、彼はなおさらしっかりとその姿を目に焼き付けるかのように、天空へ向かう彼女の姿を見つめ続けた。彼女の姿が見えなくなるまで、ずっと。 その夜、彼はいつもと同じように庭にでて夜の空を見上げていた。かつて彼女と並んで語り合った噴水のへりに、今は一人で腰掛け思いを馳せる。彼の天使はまだ戻ってこない。しかし、彼には彼女が帰ってくるとわかっていたので、不安はなかった。心に彼女の姿が今も鮮やかに思い描かれている。かつて、彼は大切に思う人の記憶が薄れていくことが恐ろしかった。けれど、今、彼女の面影がいつか心から薄れることがあろうとも、彼女への思いが色あせることがないと、そう思える。思いは、はるかに時を越えると、そう信じられる。 「不思議だな、そんな揺るぎない思いがあるなんて、かつての私なら信じることなどできなかっただろうに。 これも、天使たる君の力なのか?」 夜空に向かって彼は語りかける。 「いいえ、それは、あなたの中に最初からあったもの。 あなたが、心の奥底にずっと抱いていたものです。」 シーヴァスは、驚いてその声を振り返る。緑に彩られた庭園を抜ける細い小道に彼女はたたずんでいた。彼が立ち上がると同時に、彼女がゆっくりと彼にむかって足を踏みだし、そうして軽やかに駆け出す。 「シーヴァス・・・帰ってきました。私、帰ってきました!」 シーヴァスは両手を広げて彼女を受け止める。 「・・・・おかえり、ルーチェ。 ・・・・・・おかえり・・・」 変わらずほっそりとした彼女の身体を抱き締める。これまで彼女の背に腕をまわすと手に触れた翼は、今はもうない。そうして・・・抱き締めた彼女の身体は、温かかった。 「シーヴァス・・・温かいです。あなたの温もりを感じます。 私・・・本当にあなたに、触れているんですね。 あなたの世界に・・・いるんですね。」 ぎゅっとルーチェの手がシーヴァスにしがみつく。胸に埋められた彼女の顔を上げさせると彼女の瞳はうっすらと潤んでいた。ずっと心に思い描いていた、やっと再び間近く見ることのできた彼女の顔。覗き込むようにじっとルーチェを見つめるシーヴァスの瞳と目があうと、彼女は、はにかんだように、優しい笑顔を見せた。 暗闇を切り裂き、地上を照らした光は鮮やかな軌跡を描いて、今、やっと約束の場所へとたどり着いたのだった。 |