告白<2>

シーヴァスはまた夢を見ていた。
暗闇の中、彼はやはり、誰かを捜していた。逢いたくて、逢いたくて、逢いたくて、もうずっと探し続けていて。
名前を呼んで。なんという名前だったかわからないけれど、夢の中のシーヴァスは名前を呼んでその誰かを捜し続けている。ずっと歩き通していて、それでも会えなくて。ついにシーヴァスは立ち止まってしまった。
君は嘘つきだ。
夢の中のシーヴァスは誰かに向かってそう言った。頬を涙が伝った。そのとき、闇の中、天空から白いものが降ってきた。
・・・雪?
手に受けてみる。それは羽根だった。シーヴァスは暗い空を見上げる。どこから降ってくるのかもわからない。ただ、白い羽根が舞っていた。
これが別れの挨拶なのか? もう逢えないというのか?
舞い落ちてくる羽根を手に受けてシーヴァスが天空へ叫ぶ。
忘れたままで終わるなんて、ごめんだ! ・・・・・!!
天空へ向かって彼女の名前を叫んだ。そこで目が覚めた。体中に汗をかいている。顔に手をやると濡れていた。泣いていたのだ。最後に自分が叫んだ名前はやはり思い出せなかった。だが、相手が「彼女」だというのはわかった。今日も天気が良く、シーヴァスの心とは正反対のうららかな日射しが窓からさしていた。溜息をつくとシーヴァスはベッドを降りて窓辺に近づく。庭の木々が緑の影を地に落としている。窓を開けるとシーヴァスは風を室内に入れた。そうして、窓辺を離れて鏡の元へ近づく。
最近、眠ったような気がしないから疲れた顔をしているな・・
自分の顔を見ながら、そんなことをふと思った。そのとき。
鏡に映った庭の木の梢に白いものが見えた。
・・・何だ?
シーヴァスは鏡の中のその一点に目を凝らす。白い翼・・・人の乙女のような姿。驚いてシーヴァスは振り返って窓辺に走り寄る。だが、鏡に映っていた辺りに目を凝らしても何も見えなかった。もう一度室内に戻って鏡の中をのぞき込む。だが、そこにももはや何も映ってはいなかった。
・・・魔物か・・・?
シーヴァスが呟く。白い翼を持った乙女の姿。そのとき、奇妙な既視感があった。前も、こんなことがあったような気がする。
「・・・魔物か?」
声を出してシーヴァスは言ってみた。さっきの鏡に映っていた姿を思い描きながらもう一度言ってみる。
「・・・魔物、か?」
・・・いいえ! いいえ、違います
ふいに、そう答えた声を思い出した。・・・そうだ。確かにそんなことがあったはずだ。そう思うと呼吸があがってきた。手に汗が滲む。焦らずに・・・・ゆっくりと、記憶を・・・なくしたはずの記憶を辿るのだ。
目を閉じて、鏡に映っていた乙女の姿をゆっくりと思い描いた。
白い・・・翼。栗色の髪・・・流れるような髪・・・紫水晶のような瞳・・・そうだ、不思議な色の瞳。桜色に色づいた唇・・柔らかな唇、優しい手・・・一つずつ、鏡に映ってなどいなかった細かな部分までも思い描ける自分にシーヴァスは気づいていた。憂いを含んでいつも泣きそうだった瞳・・・震える翼・・・鈴を振るような声・・・「シーヴァス・・・」そう、私の名前を呼ぶ、声・・・・
彼女の名前を呼べば、すべて思い出せそうな気がした。彼女の名前。・・・天使・・・翼・・・光・・・。光・・・光・・・ルーチェ。
「ルーチェ・・」
シーヴァスは声を出してそう言ってみた。
・・・はい、なんですか? シーヴァス
そう答える声を知っていた。
「ルーチェ・・」
もう一度声を出して呼んでみる。悲しそうな微笑を思い出した。泣いている瞳を思い出した。柔らかな唇の感触を思い出した。
「ルーチェ・・・」
首を横に振って彼女は言った。---あなたは、私を、忘れる。そう言った悲しげな顔を思い出した。
シーヴァスは窓辺に走っていった。空を見上げる。空を見上げて叫ぶ。
「ルーチェ!! ルーチェ! 約束を、思い出したぞ! ルーチェ!」



天使はミカエルの元へ向かっていた。昨日、これが最後だと思うとたまらず、気づけばインフォスへ向かって飛んでいた。いつものように自室の窓を開けるシーヴァスの姿を見つめていた。公務が忙しいのだろう、少し疲れた顔をしていた。もう、会えないのだと思うといつまでも彼の姿を見つめていたかった。彼の瞳がもう自分を写すことはなく、自分の目もまた彼の姿を写すことがないのだと思うと、いつまでもその場にとどまっていたかった。
天使は首を振って想いを振り払うと再び歩き出した。
その耳に小さな、しかし聞きなれた羽音が届いた。天使はその音を振り向く。
「天使さま・・・!」
それは共にインフォスを守った妖精ローザだった。
「ローザ・・・どうしたんですか? いったい・・・」
天使は驚いて立ち止まる。妖精は急いでやってきたかのように肩で息をして、羽をせわしなく動かしていた。
「天使さま! 天使さま、面会を求めている勇者さまがいらっしゃいます」
「・・・・・・え・・?」
天使は妖精を見つめた。任務に忠実なローザは冗談などを言うことはなかった。インフォスを守護する任務は終わっており、彼女に面会を求める勇者などいるはずがない。しかし、ローザはもう一度繰り返した。
「面会を求めている勇者さまがいらっしゃいます」
はっきりとした語調でそう繰り返す。天使の唇が震えた。誰が。誰が、と尋ねようとして声が出なかった。それを察したかのように、ローザが続ける。
「シーヴァスさまが、面会を求めておられます・・・・!」
「・・・シーヴァスが・・・?」
---もし、私が君が天界へ戻った後も君のことを覚えていたら、会いに来てくれるか?
それは、果たされることなどないはずの約束だった。シーヴァスが天使を覚えていることなどありえないことだったのだから。
だが、彼は・・・・
「天使さま・・・どうされますか、天使様」
天使が顔をあげたそのとき、ガブリエルの姿が現れた。ローザがその姿を隠す。
「ルーチェ、まだこんなところにいたのですか?
 はやく、こちらへ・・・」
促されるままに天使はその後をついていった。だが、その表情はうつろなものだった。
重い扉が天使の後ろで閉まる。妖精はその扉の外で心配そうに天使が出てくることを待っていた。
天使はミカエルの部屋に入ってからも、ローザの言葉が頭の中に響くだけで何も考えることができなかった。眼前にミカエルがいることも、ガブリエルがいることも意識していなかった。ミカエルの率いる天使軍の幾人かが控えていたが、それも気づかなかった。
「ルーチェ?・・・どうか、したのですか?」
ガブリエルにそう声をかけられてはっとして顔を上げる。
「・・・話を聞いていましたね? あなたの新しい任務ですが・・・」
そういうガブリエルの言葉をさえぎって、天使は声をあげた。
「・・・ガブリエルさま・・・・」
言葉をさえぎられたガブリエルは、いぶかしげな顔をして天使を見つめた。
「ガブリエルさま・・・もし、もし自分がこのままの道を進めば罪を犯すことになるとわかっているのなら
 それを辞することは正しいことでしょうか」
どこか震える声でそういう天使に、不審そうな表情をしながらもガブリエルは答える。
「罪を避けることができるのなら、それは正しいことではありませんか?」
ミカエルのどこか冷たい厳しい瞳が天使を見つめている。
「・・・では・・・では、私は新しい任務をお受けすることはできません・・・
 それは、新しい罪を犯すことになるからです」
その告白にガブリエルが息を飲む。
「なぜなのですか? なぜ、新しい任務に就くことが罪なのです・・・」
「裏切りの罪を犯すことになります」
天使は静かにそう言った。その声はもう震えていなかった。だが、その頬を涙がとめどなく流れていた。
「・・・私は彼と約束を交わしました。
 彼に会いにいくと・・・彼のもとへ行くと約束をしたのです・・・。
 彼が私のことを覚えていてくれたなら、会いにいくと約束したのです。
 彼が私を忘れるとわかっていても、約束してあげたかった。
 でも、彼は忘れなかった・・・私のことを思い出してくれた。
 私は・・・彼に会いにいかねばなりません・・・」
「そんなことが、赦されると思っているのですか?
 あなたは天使なのですよ?」
ガブリエルの言葉に、天使はうっすらと微笑んだ。
「・・・もう、私は天使の資格を持ちません・・・・
 私は彼を愛しています。人である彼を愛してしまいました。」
「なんてこと・・・・」
ガブリエルが息を呑む。天使はしかし、続けた。
「彼と口付けを交わし、肌を重ねました。
 彼を忘れられないことが辛かった。彼を覚えていることが嬉しかった。
 それが天使として、罪を犯しているとわかっていても・・・想いをとめることができませんでした・・・」
その天使の告白を、ガブリエルの言葉が遮った。
「・・・それがどういうことか、あなたはわかっているのですか? ルーチェ・・・!  あなたは、自分が何をしたか、わかっているのですか・・?!」 人の子たる勇者と情を交わしたと。想いを重ねるだけでなく肌を触れ合わせたと。汚れ無き存在であるべき天使が人の手に触れられたと。 「・・わかっております、ガブリエル様・・・  わかっていて、私は彼を拒みませんでした。彼を受け入れました・・・」 その言葉を聞いてガブリエルの唇がわなわなと震えた。哀しげな色に瞳が染まる。 「・・・わかりました。・・・もう、お下がりなさい。
 あなたへの処分は、おって沙汰します」
固い表情でガブリエルはルーチェにそう告げた。ミカエルの側近の天使が彼女を取り囲む。彼女は黙って、ガブリエルの顔を見返す。そうして、申し訳無さそうに深く頭を下げた。そうして、ずっと黙ったままだったミカエルの顔を一度だけ見て、彼にも頭を下げると天使たちに取り囲まれて部屋を出ていった。
 外に出ると、物陰で様子を伺っていたローザが心配そうに現れた。取り囲まれた天使を見て顔色が変わる。
「・・・天使さま・・・」
ルーチェは、その声を聞いて妖精を振り返る。心配そうに自分を見つめる小さな妖精に向かって、彼女は微笑みかけた。
「・・・ローザ・・・私のかわりに、彼に・・・シーヴァスに伝えてください・・・
 あなたを、愛しています、と・・」
微笑んだ天使の顔が少し泣きそうに歪んだ。妖精はそれを聞いて叫ぶ。
「そんな! イヤです、天使さま! そんなこと、御自分の口でお伝えください!」
ミカエルの部屋を出てきたガブリエルの姿が妖精の目に映った。
「がブリエルさま! 天使さまを・・・天使様を許してさしあげてください!
 ガブリエルさま!」
「お下がりなさい、ローザ。ここはあなたが来るところではありませんよ」
「ガブリエルさま!」
悲痛なローザの叫びが聞こえる。
罪を背負った天使は、独り罪人として多くの者に取り囲まれたまま、その場を後にした。






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