休息の翼

インフォスに天使・ルーチェが降りて7年。勇者たちの働きによって、インフォスはなんとかバランスを保っていた。しかし、まだ堕天使たちの動きは勢いを失わず、インフォスを覆う暗い影も晴れることがなかった。
刻一刻と迫りくる時間に、ルーチェはその翼を休めることなく働き続けていた。
「天使さま、少しはお休みくださらないと、このところご無理なさっているのでは
 ありませんか?」
その日もベテル宮を出て勇者の元へ行こうとする彼女に、ローザがそう声をかけた。
「ええ、でもシーヴァスが今、旅の途中ですし、
 グリフィンに新しい武器を渡しに行かないと、前の戦いで傷んでいたようですし、
 再び現れた死者の軍団のこともありますから、レイヴの元にも行かなくては・・・」
ルーチェはそう言うと、ベテル宮を飛び立つ。
「天使さま、勇者さまの同行は私たちも行けますから・・」
妖精たちにも疲労がたまっており、ルーチェは休養を命じていたのだが、ローザには、自分たちよりも天使の方がよほど休息を必要としているように見えた。しかし、呼び止める間もあればこそ、ルーチェの姿はもう見えなくなっていた。

「グリフィン・・・!」
その日、久々に町中の賭場に遊びに行こうとしていたグリフィンは、天使に呼び止められて、舌打ちをした。どうしてこうもタイミングの悪いときにこの天使は現れるのか。一言文句でも言ってやろうと振り向いたグリフィンだったが、ルーチェが剣を重そうに抱えてふらふらと飛んでいたので、その言葉を飲み込んだ。
「あの、この前の戦闘で武器が傷んでしまっていたようですから
 ラツィエルさまにお願いしていただいてきました。」
「あ、ああ・・・」
にっこり笑うその笑顔もどこか疲れが見えて、グリフィンは黙って剣を受け取った。
「いつも危険な戦いをお願いして申し訳ありません。
 私にできるのは、少しでも戦いが有利であるようにこうやって
 武器や防具をそろえることだけですが、これからもよろしくお願いいたしますね」
「ああ、それはいいけどよ・・・」
「あ、すみません、どこかへ出掛ける途中だったのですね、お邪魔しました。
 では、私はこれで・・・」
「あ、おい!」
おまえ、ちゃんと寝てるのか、とグリフィンが聞く時間を与えず、急ぐようにルーチェはその場を飛び立った。残されたグリフィンは、手渡された剣を握り締め、手への馴染み具合を確かめるように、2、3度振ってみた。そうして、仕方ねえなあ、と呟くと、町へ向かわず、新しい剣を使っての稽古をするために郊外へと向かったのだった。

「レイヴ、お元気ですか?」
長い虜囚生活から解放され、騎士団長に復帰したレイヴは体調を整えると同時に、落ちた筋力を取り戻すべく鍛練を続けていた。その日も一人、騎士団の訓練所で黙々と剣を振るうレイヴの姿があった。
「ああ、君か。」
「もう、すっかり体調はいいのですか?」
「ああ。すまなかった。君には随分と心配をかけたな」
すっかり落ち着いた様子のレイヴに、ルーチェはほっとした様子を見せる。ずっと過去の傷を癒すことなく抱き続けていたレイヴ。彼がやっとその傷を乗り越えようとしているのがわかり、うれしかった。
「俺を助けてくれたのは・・・」
「はい、シーヴァスです。あなたの事をとても心配してましたよ。
 口ではとてもぶっきらぼうでしたけれど」
その時のシーヴァスの様子を思い返したのだろう、ルーチェが苦笑する。
「そうか・・・」
「レイヴ、あなたの周りにいる、あなたを大切に思っている人のことを
 もう、忘れないでくださいね。」
「ああ、そうだな」
そういうレイヴには、もうかつてのような迷いの様子は見えなかった。ルーチェはそんなレイヴに向かって言った。
「レイヴ・・・あなたにお願いがあります」
「ああ。勇者であることにもう迷いはない。言ってくれ」
その言葉にルーチェは頷くと静かに言った。
「死者の軍団が再び現れました。レイヴ、あなたにお願いします。
 彼らを止めてください。」
「・・・・わかった」
天使はレイヴの言葉に深く息をついた。レイヴにとって辛い任務となることはわかっていた。だから、彼女は最後までこの任務をレイヴに任すことを迷っていたのだが、彼を信じることにしたのだ。
「・・・ルーチェ、俺にその任務を任せてくれて、感謝する」
ルーチェはその言葉に、静かにほほ笑んだ。
「では、よろしくお願いいたしますね。私か、妖精が同行するようにいたしますから」 そう言い置いて飛び立とうとする天使に、レイヴが少しためらいがちに声をかける。
「・・・おい、疲れているようだが、ちゃんと休んでいるのか?
 無理をさせた俺が言うことでもないかもしれんが・・・」
「あ、いえ、大丈夫です。あまり眠くなったりしないんです、このところ。
 レイヴこそ、無理しないでくださいね」
そう言って飛び立った天使をレイヴは心配そうに見送った。


カノーアの森へ向かう途中、野宿で一晩過ごし日の出とともに目覚めたシーヴァスは、旅装を整え、今まさに出立しようとしていた。すがすがしい空気の中、遠く朝を告げる鳥の声が聞こえてくる。
「おはようございます、シーヴァス」
そう声をかけられて、シーヴァスは空を仰ぎ見た。翼をふわふわとはためかせて、ルーチェが降りてくる。心が通じ合った天使の姿をシーヴァスは、少しまぶしそうに見上げたが、その飛び方が常にもまして心もとないのに加えてその顔を見て、いきなり彼女に言った。
「こんな所に何をしに来ているんだ。」
「え? あ、あの、ご迷惑でしたか? 旅の様子を見にきたのですけれど・・・
 疲れているんじゃないかと思って・・・」
ルーチェはシーヴァスの言葉にとまどいを隠すことができず、中空に浮かんだまま、地上に降り立つことができずにいた。シーヴァスはため息を一つつくと、そんな彼女の手首をつかんで地上に降り立たせる。そうして、その頬に触れると
「君は私の心配をする前に自分の顔を鏡で見てみるのだな。
 君がそんなに疲れた顔のまま、私たちのところへ来るようでは
 私たちの心が休まるはずがないだろう。」
と言った。
「そんな疲れた顔をしてますか? 
 私、自分ではそんなに疲れているとは思わないんですけれど・・・
 眠らなくても大丈夫なくらい、元気なんですよ?」
「眠らないんじゃなくて、眠れないんじゃないのか?」
自分では元気だと思っているルーチェだったが、その実、気力だけが彼女を支えていたのであった。
「でも、本当に眠くならないんです、だから大丈夫です」
シーヴァスが心配してくれていることがわかるので、ルーチェは自分が元気であることを見せようと、笑顔を見せる。
「では、そうだな・・・」
シーヴァスはルーチェをそこに立たせたまま彼女から離れる。そうして
「では、ここまで歩いてきてみたらどうだ?」
と言った。ルーチェはそんなこと訳無いことだとばかりに、少し膨れっつらをするが、シーヴァスが真面目な顔をしているので、歩きだす。ところが、いざ足を踏み出すと足元がおぼつかない。
「え・・・?」
木の根が張っていたわけでもなく、石がそこにあったわけでもない。シーヴァスのいる場所までは、なめらかな苔に覆われた土しかないというのに、ルーチェの足がもつれて倒れそうになった。それを、シーヴァスが駆け寄って支える。シーヴァスの腕につかまり、おぼつかない足元を不思議そうに眺める。こんなはずはないのに、というような彼女の表情にシーヴァスは彼女の腰に腕を回してしっかり腕を組み、彼女を支えるように抱き締めながら彼女の顔をのぞき込んだ。
「・・・自分で気がついていないだけで、君はもう限界に近く疲れているんだ。
 勇者に健康管理を説く君が、そんなことでどうする。」
「・・・す、すみません・・・でも、ほんとに・・・」
「それだけ、気が張っているということだな。
 君ときたら、本当に、少しは力を抜くことを覚えてもいいだろうに」
「でも・・・眠くならないんです、だから・・」
それを聞いてしばらく考えていたシーヴァスは
「では、私が君が眠れるようにまじないをしてやろう」
と言った。
「え? そんなおまじないがあるんですか?」
「ああ」
どうやら、自分はこのままではいけないと気づいたルーチェはシーヴァスの言葉に彼の顔を見上げる。
「ぜひ、教えてください。私ときたら、自分の健康管理ができていなかったなんて、恥ずかしいです。」
「わかった。では、いいか?」
シーヴァスは、彼女の腰に回して組んでいた手を離すと、左手は彼女の腰を支えたまま、右手で彼女の左手を取った。そうして、ゆっくりとその手を持ち上げると、そっとその指先に口づける。
「え・・・? あの、あの、シーヴァス」
ルーチェが慌てて手を引こうとするのに、それを許さず、指先、手の甲、手首、と口づけていく。ルーチェの頬がみるみる朱に染まっていく。シーヴァスはそれから彼女をさらに抱き寄せると、その顔を間近くのぞき込む。
「あの・・・・」
ルーチェの頭の中はもう何も考えられないくらいに混乱していた。心臓が痛いほどにどきどきしている。シーヴァスの琥珀の瞳に見つめられて、目をそらすこともできないほど、目を閉じることもできないほど、頭の中には自分の鼓動だけがこだましている。
シーヴァスの唇がそっと額にふれる。瞬間、びくっとルーチェは震える。シーヴァスの腕にしがみついた彼女の手に力がこもる。シーヴァスはゆっくりとそれから彼女の頬にも口づける。右の頬、それから、左の頬。そうして、ゆっくりとシーヴァスの唇が、彼女の唇に触れようとしたそのとき、ルーチェの体からふっと力が抜けた。
彼女の唇に触れようとしていたシーヴァスは、そっとその顔を離すとルーチェの顔をのぞき込む。ぐったりとした彼女は、シーヴァスの腕の中で気を失っていた。そっと、その口元に耳を寄せて、ゆったりとした寝息を確かめる。
緊張の糸が切れたルーチェは、彼の腕の中で深い眠りについていた。
天使は、しばらく目覚めそうもない。彼女を抱きかかえたまま、大地に腰を下ろしたシーヴァスは、改めてその顔をそっとのぞき込む。
『・・・ずっと、一人で緊張しつづけていたのだな・・・
 君が、こんなにも懸命になっているというのに、
 この地に住む私たちが不甲斐なくては話にならない。
 君のためにも、必ず、この地に平和を取り戻してみせよう、ルーチェ・・・』







そうして、眠る天使の額にもう一度、口づけを落とす。
「眠れなくなったら私のところへくるといい。
 君の翼を休めるための場所を、私はこの腕の中に用意しておこう」
そう囁いて、シーヴァスは彼女の体を抱え直した。ルーチェは彼の腕の中で心地よさげに眠っている。シーヴァスは彼女の寝顔を見つめつつ、
「どうやら、もう一晩をここで過ごすことになりそうだな」
と呟いた。しかし、その表情は優しく愛しげなものであった。
ルーチェが彼の腕の中で目覚めるのは、まだ先のことである。






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