天使のいる場所〜angel night〜<1>

「フォルクガング卿、このところ連日遅くまでご苦労さまですな。
 人が変わったようだと評判ですぞ」
書類を整理していたシーヴァスは、そう声をかけられて顔をあげた。
「これは、エルンスト伯。これまで、公務を怠っていましたのでね。
 やるべきことが山積みで、毎日、取り戻すものが多くて参りますよ」
シーヴァスは、軽く会釈をすると、そう言ってまた視線を書類に戻す。
「あなたのように若い人間がやる気になってくれることは、心強いことですな。
 フォルクガング卿が変わったのは、とある女性のせいだと、もっぱらの評判ですぞ」
「ははは、そのような他愛のない噂、まさか信じておられる訳ではありますまい。
 ま、私も、くだらない遊びには飽きたということです」
「美しい婚約者を屋敷に住まわせておられるというのも、他愛のない噂ですかな」
それまで笑ってやり過ごしていたシーヴァスの表情が一瞬、変わる。
「・・・まったく、貴族の社交界というのは、そっとしておいてもらいたいものに限って
 つつき出したがるものなんですな。
 確かに、私の婚約者が私の屋敷にすんでいるのは本当ですが・・・」
「みな、興味があるだけですよ。
 シーヴァス卿の心を奪ったという天使のごとき女性とは、どんな方か、とね」
シーヴァスは、肩をすくめてみせた。
「ばかばかしいですな。他人の婚約者の話で盛り上がるなど」
「卿が隠すから、皆知りたがるのですよ」
「隠しているわけではありませんが。
 彼女はまだ、こちらでの暮らしに慣れているわけではありませんのでね。
 いずれ、結婚のあかつきには、ご紹介いたしますよ」
シーヴァスはそう言うと、手早く書類を片付け、席を立つと帰る支度を始めた。
「それは、楽しみにしておりますよ。
 ではお邪魔しましたな。失礼」
相手が愛想笑いをして帰っていくと、
シーヴァスはもう一度、椅子に座り込んでため息をついた。
・・・・まったく、どいつもこいつも!

「シーヴァス、お帰りなさい、今日も遅くまでご苦労さま」
シーヴァスは屋敷に帰ると、ルーチェの部屋に顔を出す。
彼女はいつも、彼の帰りを待っている。
そうとはわかっていたが、貴族の社会は政治の世界も色恋の世界も濁っていて、 勇者として働いていたころのように、単純な図式が通用するところではない。
正直いって、欺瞞に満ちた世界から戻り、彼女の顔を見るとほっとした。
しかし、口から出るのはあまり素直とは言えない言葉ばかりで。
「遅くなるときは、先に寝ていたまえと言っただろう。
 慣れない生活で疲れているのは君のほうなのだから」
彼女には、心に何の不安もなく、過ごしていてほしい。
彼女の前では、できれば自分は完璧とまでは言えないまでも強い人間でありたい。
彼女には心の中の弱さを見せたことがあるというのに、 それでも強がってみせたいと思う自分がこっけいでもあったが、 自分がどうであっても、彼女はありのままに受け入れてくれるとわかっているから、 あるいは、こうありたい自分を演じることができるのかもしれなかった。
「でも、シーヴァスが頑張っているのに、私だけが眠っているわけにはいきませんよ。
今の私にできるのは、これくらいのことしかありませんから。」
ルーチェは優しくシーヴァスにほほ笑みかける。
世界を救うことと引き換えに手に入れたこのほほ笑みだ。
「シーヴァス、疲れているのではありませんか?」
そっと彼女の手がシーヴァスの額に触れる。ひんやりとした感触が心地よい。
だが、シーヴァスはその手をそっと外すと彼女のそばを離れた。
堅苦しい上着を緩めながら、ソファに腰を下ろす。
「私のことはいい。自己管理くらいできている。君が心配することはない」
「でも・・・・私があなたのためにできることは、何もないのですか?」
ルーチェはシーヴァスの隣に腰掛けるとシーヴァスの顔を覗き込んだ。
「シーヴァスが私を大切にしてくれるのはよくわかっています。
 でも、あなたはずっと忙しくしているというのに、
 私はずっと、あなたを待つしかできないなんて・・・・。」
寂しげに俯くルーチェを見て、少し決まり悪そうな顔をしたシーヴァスは、 そんなルーチェの肩をそっと抱いた。
「・・・君は、それでいいんだ。そのままでいてくれ。
 君にそんな顔をさせてしまうとは・・・・すまない」
「す、すみません、シーヴァス・・・・私こそ・・・。
 ただ、私はほかの貴婦人と違ってダンスもうまくありませんし
 舞踏会に出てもあなたに恥ずかしい思いをさせるだけですし・・・
 もちろん、あなたの公務の手助けなんてできるわけもありませんし・・・」
「ルーチェ、君はそのままでいい、と言っただろう。
 そのままの君が、私にとって、どれほど安らぎになっていると思うんだ」
シーヴァスは、精一杯素直になってそう言うと、不機嫌そうに黙り込んだ。
「怒ってるんですか・・・? シーヴァス・・・」
シーヴァスはため息をついた。
「・・・・・照れているんだ、いいかげんに気付きたまえ、ルーチェ。
 私が素直ではないというのは、君がよく知っているはずだろう」
その答えを聞いて、ルーチェは小さく笑った。
「それに、私が君を社交界に連れていかないのは、君のせいじゃない。
 私のせいだ。
 私が君をほかの人間に会わせたくないだけなんだ」
「・・・・シーヴァス、どうして?」
シーヴァスは、そのルーチェの問いには答えず、
彼女を引き寄せると、そっとその柔らかな唇に口づけた。
瞬間、ルーチェの体がびくっと震える。
シーヴァスは、そっと唇を離すと、ルーチェにささやく。
「君は、地上に残ってほしいと願うのが私以外の勇者であっても
 天空を捨てただろうか?
 君が私のそばにいてくれるのは、人の恋ゆえか? 
 それとも、天使の慈愛ゆえか?」
「シーヴァス・・・」
「君は、いつになっても無垢な乙女のまま
 私の腕に抱かれても、恐れおののくばかりだ。
 口づけでさえも、君にとっては甘いものではないらしい」
シーヴァスはやや自嘲気味にそう言うとルーチェの肩においた腕を離す。
「まあ、いい。今、君は私のそばにいてくれるのだから」
「シーヴァス・・・・私がいることは、あなたにとって、苦しいことなのですか?」
ルーチェは、シーヴァスの手を取り握り締めるとそう言った。
「・・・・私には、本当のことを言ってください、シーヴァス」
シーヴァスは、瞳を閉じると小さくうなずいた。
「ああ、ルーチェ。君は、私に安らぎをくれる。
 そして、愛されているのかという不安も。もどかしい心の痛みも。
 だが、君が私の前から消えてしまったら、今よりももっと私は苦しむだろう」
シーヴァスは、今度はルーチェの額に口づけ、ソファから立ち上がった。
「もう、遅い。おやすみ、ルーチェ」
「シーヴァス、私は・・・・」
あんなことを彼女に告げるつもりではなかったのだが。
ゲームなら待つ身も苦にはならないが、本気となっては、それさえもどかしい。
彼女がシーヴァスに好意を抱いてくれていることはよくわかっている。
だが、それは恋を初めて知った少女のように、淡くはかないもののようで。
いまだ口づけにさえ体を堅くしてしまう彼女が、 いつか大人の恋に身を焦がす相手は果たして自分なのかと思ってしまう。
だから、誰の目にも触れさせず、そっと自分のものにしておきたい。
まるで、子供のようだ。
シーヴァスは、小さくため息をつくと、部屋を出る前にルーチェに言った。
「単なる私の愚痴だ。気にしないでくれ、ルーチェ。
 私はどうやら、臆病者で独占欲の強い人間らしい。あきれたか?」
「・・・・いいえ、シーヴァス。いいえ。」
シーヴァスは少し、ほっとしたように笑うと
「君が望むなら、今度の舞踏会に一緒に行くことにしよう。
 君も屋敷の中にいるばかりでは、退屈しているようだからな」
と告げ、ルーチェの部屋を後にした。






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