その夜、レインは眠ることができなかった。 選ぶことのできなかった自分の罪を思い、傷つけることしかできなかった自分の罪を思って。 自分が選ぼうとしている道は、本当に正しいのか。それはまだわからない。けれど、そうしなければ、自分は先へ進むことができないと、そう思った。許してほしいとは思わない。ただ、胸の中のこの輝く石があれば、この地で一人でも生きていけると、そう思った。 翌朝、朝食もとらずにシーヴァスの部屋を訪れたレインは、その扉を軽くノックした。中からシーヴァスの返事があり、レインは扉をあけて彼の部屋に入る。彼はもうすでに、服装を整え終わっていた。その目は昨晩眠れなかったのだろう、赤く疲れた様子だった。 彼は、レインの姿をしばらくじっと見つめ、そして静かに言った。 「行くんだな・・・」 レインはその言葉にゆっくりとうなずく。 「・・・彼の・・・ところへ?」 その問いには首を横に振った。 「ひとりで・・・・ひとりでもう一度・・・考えようと思うのです。 私が、インフォスに降りてきた意味を。 人の子として生きるということを。 何のために、この地へ降りてきたのかということを・・・ そうして、もう一度自分の心を見つめ直す時間がほしいのです・・・。」 「・・・そうか」 シーヴァスは、短く、そう言った。彼はただ、黙ってレインの顔を見つめていた。レインはそんな彼を見つめ返し・・・しかし、彼のことを思って耐えられず俯いてしまう。自分はなんて勝手なのだろう、こうしてまた、彼を深く傷つけようとしている。 「・・・許してください、シーヴァス・・・私は、あなたのことも傷つけることしかできなかった・・・」 「・・・ラビエル・・」 シーヴァスがそう彼女の名を呼ぶと、レインは首を振った。 「・・・レインと呼んでください。・・・あなたにはそう呼んでほしい。 あなたがレインと呼んだ私は、今も私の中にいるんです。 シーヴァス・・・私は・・・」 「レイン・・君が本来帰る場所を私が奪ってしまったのかもしれない・・。 許してほしい。君の過去を知りながら、それを告げる勇気を持てなかった私を・・・」 「いいえ! いいえ!シーヴァス!」 レインは大きく首を振ってシーヴァスの言葉を否定した。 「いいえ・・・あなたがいてくれたから・・・私はもう一度歩き出すことができた。 あなたが私に教えてくれたから・・・今も、私はもう一度一人で生きてみようとそう決心することができた。 あなたが、私に手をさしのべてくれたから・・・今度は一人で歩いてみようと、そう思うことができたんです。 シーヴァス、あなたが私を愛してくださったから、私は生きる力を得ることができた。」 「すべて・・・かつて君が私にくれたものだよ、レイン。 天使だった君が私に教えてくれたことだ。 世界が優しく美しいことも。この世に生きる意味も、すべて。」 泣きたくはなかった。自分が傷つけた彼がそれでもなお、自分を赦してくれているというのに、彼の前で涙を見せる資格など自分にはないと思った。彼の顔がにじんで見えるのをレインは必死でこらえていた。 「シーヴァス・・・」 「レイン・・・ひとつだけ、教えてくれ。 ・・・・君は、私を愛してくれていたかい?」 レインはそのシーヴァスの問いかけにゆっくりと深くうなずいた。 「・・ええ。シーヴァス・・・私はあなたを愛していました。・・・今も。 今も、あなたを思う気持ちは変わらない・・。 でも、私は自分で自分が許せない・・・あなたに甘えたままで生きることができない。 一人で、この地で一人で立ち、歩くことができる人間になりたいのです。 わがままを・・・勝手な私を・・・赦してください・・・」 「いいんだ・・・それさえ聞くことができれば、それでいい。 君が、私を愛してくれたと、それだけで私も報われる」 今すぐにでも、本当はシーヴァスに抱きしめてほしかった。けれど、そうされれば、一晩かけて考えた自分の決意さえも崩れてしまいそうで。 「シーヴァス・・・」 「・・・レイン、君の幸せだけを祈っているよ。 私も、そして、きっと、彼も。 インフォスの同じ空の下で、君の幸せだけを願っている。 それを・・・忘れないでくれ」 シーヴァスは、そういうとレインの頬にそっと手を伸ばして触れた。 優しい、手だった。レインの瞳からこらえていた涙が一滴、こぼれた。 「シーヴァス・・・・シーヴァス・・・」 何度も傷つけた。それでも、笑ってくれた。彼の傷を癒すのが自分だったら良かったのに。彼の元にとどまろうとそう思えたならどんなに良かっただろう。 でも、今は。 レインは小さな鞄を一つだけ持って、シーヴァスの屋敷を出ていった。 門までの道のりを歩きながら、彼女はシーヴァスがずっと自分を見送っていることを感じていた。そっと彼女は右手で胸元にペンダントとして下げたある物に触れる。今朝、ベランダで見つけたそれを、彼女はシーヴァスに返すことができなかった。この地上で自分を示すただ一つのしるし。 レインは青い空を見上げた。 雨上がりの空、虹を見るたびに思うだろう。 同じ空の下、虹の彼方に愛しい人が生きている。それだけできっと、優しい気持ちになれる。胸の中の輝く石が、心を温めてくれるだろう。 そして、もし赦されるなら・・・彼のために祈ることが赦されるなら。 プレイボーイで知られたシーヴァス・フォルクガングの手痛い失恋の噂は、相手の女性が身分の差を思って自ら身を引いたのだという、悲恋の物語としてヘブロンを騒がせた。 しかし、その噂が人々の口に上ることもなくなってしばらくがすぎたころ、人々は彼がそれを悲恋で終わらせるつもりなど、さらさらないということを知ることになる。 ヨースト領というのも名ばかりというほどの小さな田舎の村。その村の外れにある古いもう誰も住まなくなった教会にその娘がやってきたのは、1年ほど前のことだった。タンブールのシスターエレンの紹介で、それまでも各地の教会を転々としてきたというその娘は、尼僧の服を着るわけでもなく従ってシスターというわけでもないようであった。若く美しいその娘が教会を転々としてきたというその理由を村人たちは、おそらくは身分ある人物と関わりがありながらも表に立つことのできない人物なのだと、そう推測しあっていた。 ある日、その村を一人の青年が訪れた。 身なりのよい服装のその青年は、見るからに身分ある人物に見えた。その青年の問いに村人は村はずれの教会を指さす。青年は、振り仰いでその教会を見やり、ゆっくりとそこへと向かっていった。 その日、レインはいつものように朝起きて、教会の裏の小さな畑で自分が食する分だけの野菜を採ってきた。ヨースト領であるこの村では、時折シーヴァスの噂を聞くこともあった。村人の誰一人として、彼の姿を見たことのあるものなどいないけれど、村人にとってシーヴァスはまだ若いがやり手の領主さまとして慕われているようだった。 同じ空の下、君の幸せを祈っている。 そう言ってくれた彼の言葉が、今も胸に沁みる。 離れてなお、時が過ぎてなお、鮮やかに残るものがあるとレインは一人になって初めて知った。 教会の扉をノックする音が聞こえて、レインは入り口へと向かう。 時々、食べ物を持ってきてくれる村人たちだろうかと思い、レインはその扉を開けた。そして、そこに立つ人物の姿に息をのむ。 変わらない優しい笑顔。けれど少し大人っぽく精悍な顔になったような気もする。流れる金髪は変わらず、そして、唇からもれる彼女の名を呼ぶ声はいつも彼女の胸の中に響いていたそのままで。 「レイン・・・久しぶりだね。元気そうで安心したよ」 「・・・・・シーヴァス」 レインの手が服の下に隠れた胸元のペンダントを握りしめる。 「村人にね、君が自分の名をレインと名乗っていると聞いたんだ。 君が、その名を大切にしていてくれることが私にはうれしかった。 そう・・・まだ、私にはチャンスが残されていると思ってね」 シーヴァスは、そう言うと長めの前髪を掻き揚げ、照れたような顔で笑った。 「あのとき、君は一人になる時間が欲しいといったね。 今もまだ、一人でいる時間が欲しいかい? もしも・・・もしも、君がもう自分を許しているというのなら もう一度、私に君と最初から始めるチャンスをくれないか? レイン。」 「シーヴァス・・・」 あの日、シーヴァスはもう、心に決めていたのだ。もう一度、レインの前に立つことを。長い時間をかけても、もう一度彼女を探し出すことを。 「今すぐに戻ってきてほしいとは言わない。本当はそうしたいと思っているけれどね。 ただ、また、ここを訪れて君と過ごす時間を持つことを許してほしい。 君さえ、よければ」 レインはただ、頷いた。声が出なかった。シーヴァスは、そんな彼女に向かって笑いながら言った。 「そうだな、もし、良ければヨーストの街から馬で駆け通してきた旅人に 一杯の水を恵んでくれるところから始めてみないか?」 レインは泣き笑いのような表情で頷くと彼を教会の中へと招き入れた。 もう一度、新しい物語を始めよう、君と私で。 過ぎた時よりもまだこれからの時間は長い。 だから私は急がない。 これからの時間のすべてを費やしたとしても 最後の瞬間に君が側にいてくれるというのであれば それで何も惜しいとは思わない。 別れの時と変わらぬ青い空の下、新しい物語が始まろうとしていた。 |