どんなに強く抱きしめても、どんなに深く口付けても、彼女を自分の腕に捕らえた気がしない。 彼女の唇は愛の言葉を紡がない。彼女の瞳はいつも涙に濡れている。 知っている。彼女の心が私を求めていると知っている。求め合うことが罪だというならその罪さえも背負うことを厭わない。なのに彼女は涙を流す。白い翼を震わせる。 それでも私は彼女を離さない。離したくない。どうすれば彼女は私を愛しているといってくれるのだろう。その心を言葉に乗せて紡いでくれるのだろう。 「シーヴァス、そろそろ出発しましょう。今日中には目的地に着かないと」 シーヴァスはそんな天使の言葉に皮肉っぽい微笑を頬に刻んだ。天使にとっては先を急ぎたい理由があるだろう。この世界を守るという名目の他にも。 「そして、この依頼は終わり、君は望みどおり天界へ戻ることができるというわけだ。 その後はもう私の元へ来るも来ないも君の自由。 私のことなど忘れたふりをして天使の勤めをまっとうすればいい 私の他にも勇者は多くいるようであるしな」 「シーヴァス・・・」 天使の顔が悲しげに歪んだ。そんな顔をするくせに。どうして自分の心を認めようとしないのか。シーヴァスは天使の手首をつかむと引き寄せる。天使の身体が震える。じっと瞳を見つめると長い睫が揺れた。シーヴァスはそっと天使に口付けた。 こんなにたやすく口付けを赦すのに。こんなに強くシーヴァスの背中を抱きしめるというのに。天使は彼に愛の言葉を紡がない。 「拒まないんだな」 「シーヴァス・・・」 「これは間違いなんだろう? 拒まないのか?」 天使が困ったような悲しげな顔をしてシーヴァスを見返した。もうずっと天使の笑顔を見ていなかった。もうずっと彼女の顔は悲しみに満ちたままだった。シーヴァスの端正な顔が苦しげに歪む。天使は優しい手を伸ばして彼の頬に触れた。 「すべてが終われば・・・あなたの苦しみも終わります」 「・・・・?」 「あなたは、私のことを忘れる。」 「忘れない。ルーチェ、君が天界へ帰ったとしても忘れない・・」 天使は黙ったままシーヴァスの胸に顔を埋めた。・・・シーヴァスは忘れる。それは天界の決まりだからだ。すべてが終われば、勇者たちは天使と天界にかかわるすべての記憶を封印されるだろう。いつもと変わらぬ朝の目覚めが彼らを迎えてくれるだろう。そのとき、彼らは天使と共に過ごした閉じた時の環の10年間のことを忘れているのだ。だが、それでいい。それでいいのだ。シーヴァスは罪を忘れる。誰もそれに気づかない。彼は神に愛された勇者として生きていくのだ。天使の頬を涙が伝った。それが悲しいのか、それとも彼に罪を犯させていることが悲しいのか。だが、それも終わる。もうすぐ終わる。 「・・・シーヴァス、あなたは私を忘れる。 そして・・・また以前と変わらない日常に帰っていくの。 閉じた時間が流れ出して、あなたもインフォスも新しい未来に向けて動き出す。 そのとき、天使はもう必要ないものなのです」 「天使が必要なんじゃない、君が必要なんだ。私には、君が」 それは今だけの言葉。天使は彼の言葉に首を横に振った。シーヴァスがどんなに忘れないと願っても、彼は忘れるだろう。それが天界の意思だからだ。それが天界と地上の決まりなのだから。 「もし・・・・・」 頑なな天使にシーヴァスが静かに告げる。 「もし、君が天界へ帰った後も私が君のことを忘れずに覚えていたら・・・」 「シーヴァス・・・そんなことはありえない。ありえないことなのです」 シーヴァスは天使に口付けて黙らせるともう一度言った。 「もし、君が天界へ帰った後も君のことを私が覚えていたら 私の元へ会いにきてくれるか?」 「シーヴァス・・・そんなこと・・」 「私が君を覚えていることがありえないと言うなら、約束してくれてもいいだろう?」 シーヴァスが笑いながらそう言った。笑っていたけれど、その瞳はけして笑っていなかった。 愛していると言ってくれないのならひとつくらい約束をくれ。 天使はシーヴァスの顔をじっと見つめた。いつも自信に満ちた瞳をする人だった。なのに時々とても脆い寂しげな光を宿す人だった。今は、哀しい瞳をしている。そうさせているのは、自分だ。 「・・・わかりました・・・。もし、もし私が天界へ帰ってしまった後も あなたが私のことを覚えていてくれたなら、私はあなたに会いにきましょう。」 「本当だな?」 「ええ。本当に。天使は、嘘をつきませんよ」 しかし、その天使の言葉にシーヴァスは薄く笑った。 「それは、嘘だ。君は嘘つきな天使じゃないか。君が嘘をつかないなんて私は信用しないよ」 天使はシーヴァスの言葉に苦笑した。確かにそうかもしれない。果たされることなどないと知りながら約束を交わすのは嘘をつくのと似ている。 「・・・じゃあ、約束を交わす意味なんて、ないんじゃないですか? もしも、私が嘘をつくとあなたが思っているのなら・・・」 しかし、シーヴァスは天使の手をとり、その細い小指に自らの小指をからませた。 「誓いを交わすときのしるしだ。」 まるで、子供が約束を交わすときのようなその仕種に天使は薄く微笑んだ。微かなその微笑みをシーヴァスは目にして、胸が痛んだ。これほどにささやかで微かな微笑みでも、彼女の笑顔を見るのはずいぶんと久しぶりだった。哀しい顔をさせているのは、自分なのだろうか。自分の思いは、彼女を傷つけ縛りつけているだけなのだろうか。それでも、約束が欲しかった。愛しているという言葉を彼女が紡いでくれないのなら。 からめられた小指はしばらく離されることがなかった。その指が結ばれている間だけがまるで約束が本当のものであるかのように。 「君が約束を忘れないように、私が約束を覚えているように・・・ 身体のすべてに刻んでおきたい・・・」 シーヴァスは小指をほどくと天使の身体をそっと抱きしめた。強く抱きしめると彼女の細い体が折れてしまうような気がした。その細い喉に唇を寄せると天使は震えながらもじっとしていた。 「やっぱり、拒まないんだな、ルーチェ」 一瞬シーヴァスは皮肉な笑いを頬に刻むと再び彼女の身体に唇を寄せていった。 何も応えてあげることができないのなら、せめて嘘でも約束くらいあげたかった。 罪を覚えているのは自分だけでいいと思った。 それがどんなに辛いことでも。罪をあがなうための罰は自分ひとりに課せられればよいと思った。 その日の朝、シーヴァスはいつもと同じように目が覚めた。 少し前までの冬の寒さが嘘のように、空が青く広がり風がさわやかだった。窓を開けて風を室内に入れると芽吹いたばかりの若葉の香りがした。 いつもと変わらない朝。毎年変わらぬ春の訪れ。しかし、シーヴァスにはそれがとても大切なことに思えた。 一瞬、強く吹いた風が室内を駆け巡り、机の上の書類を飛ばした。窓辺に立っていたシーヴァスは振り返ると部屋の中に散らばった紙切れを拾い上げた。公務用の書類。以前は熱心に取り組む気もなかったものだが。シーヴァスは苦笑した。そして床に落ちた最後の1枚をひろいあげて、その内容をふと目にとめる。 -----光 翼 天使 光(ルーチェ) ほとんど意味をなさない言葉の羅列。シーヴァスは苦笑した。 どうやら自分は詩でも書くつもりだったらしい。誰かどこかの貴婦人にでもささげるつもりだったのだろうか。しかし、これではたいした意味を持ちそうもない。シーヴァスはしばしその紙切れを眺めていたが、それを屑入れに投げ入れた。 天使はおそらくこれが最後になるであろうインフォスの世界を見つめていた。インフォスに住まう彼を見ていた。 あなたはすべてを忘れる。私のことも。私を愛していたことも。 部屋の窓を開けたシーヴァスを風がなでていた。金色の髪が朝の光に輝いていた。 天使である私にはあなたを忘れる術はない。 忘れてしまうことがあなたの罪の代償なら、忘れられないことが私に与えられた罰。 約束は、きっと永遠に果たされることはない。でも、それでいい。 風に揺れる木の上で天使はずっと彼を見つめていた。頬を濡らす涙をぬぐうこともせずにずっと彼を見つめつづけていた。 |