「最近、雨が多いですね・・・」 ルーチェは読んでいた本をひざの上で閉じて、窓の外を眺めながらため息をついた。 長雨の季節、ここ数日、しとしとと雨が続いている。 シーヴァスは今日も公務に出ていた。 「こんな天気だというのに・・・シーヴァスも大変です・・」 雨の日は、ルーチェも庭に出ることが少なく、屋敷の中で過ごしていた。 自然と、体を動かすよりも考え込むことの方が多くなり、ため息の数も増えている。 本人は気づいていないが。 天界からインフォスに降りて生活するということは、思ったほど簡単なことではない。 人間界の常識というものを、天使は知らない。ルーチェも、やはり人として生きるということに、かなりの覚悟が必要だった。 かつて、勇者として接した者たちは彼女を知っていたが、彼らも近くに暮らしている わけでもなく、彼女が頼れるのは、シーヴァスだけと言ってもよかった。 もちろん、屋敷の使用人たちは彼女に敬意を払っていたし、彼女も彼らに親愛を込め て接していたが、それでもやはり友人のように、とはいかない。 椅子から立ち上がるとルーチェは軽く伸びをして、本を椅子の上に置いた。 「ルーチェさま」 軽いノックの音とともに、執事のロマーリオの声がした。 「はい?」 ルーチェはその声に答えると、部屋の扉をあける。 「お客様がおいででございます。フィアナさまとおっしゃるのですが。 なんでも、ルーチェさまの古いご友人とのことで・・・」 「まあ! 本当ですか? フィアナが」 ルーチェの声が喜びに弾む。 「・・・では、お客様を客間にご案内いたします」 「ええ、ええ、すぐに行きます」 フィアナとは、人間になる以前、ガープを倒した後、天使として最後のあいさつをしに行って以来、ずっと会っていなかった。自然とルーチェの顔がほころぶ。 ルーチェは客間へと急ぎ、その扉をあける。手持ち無沙汰そうに、窓辺に立って庭を眺めていたのは、間違いなくフィアナだった。 「ああ、ルーチェ、久しぶり、ホントにお屋敷なんだねえ、ちょっとびっくりしたよ」 「まあ、フィアナ、本当によく来てくれましたね、嬉しいです」 ルーチェはフィアナに駆け寄ってその手を取り、笑いかける。 「さあ、こちらへ、座ってお話ししましょう、いろいろ聞きたいですよ、あなたの事」 フィアナは、苦笑してルーチェに手をとられたまま、テーブルにつく。 「なんか、あたしなんかがくるようなお屋敷じゃないしさ、ちょっと考えたんだけど。 近くまできたから、会っておきたいなって思って。元気かどうか知りたかったし。」 「ええ、もちろん、元気ですよ。フィアナも元気そうでなによりですね」 ルーチェはワゴンで運ばれて来たティーカップをフィアナの前に置いた。暖かい紅茶から湯気が立ちのぼる。 「そんでさ、彼は? もう、結婚したの?」 「えっ? いえ、シーヴァスは今日は公務で・・・ 結婚は・・・その、まだしてませんよ」 ルーチェは赤くなってそう答える。 「なあんだ、道理で招待状がいつになっても届かないと思った。予定は? いつなの?」 「え・・と、その、まだ決まってないんです。いろいろとあるらしくて」 それを聞いたフィアナがかちゃん、とカップを音を立てて置いた。 「何、それ。何がいろいろあるっていうの」 「シーヴァスは、貴族ですから、いろいろなしきたりがあるんですよ。 貴族の結婚というものは、国王の許可なしには成り立たないものなのだそうです」 ルーチェは笑ってそう答えたが、フィアナは納得しかねるような顔でルーチェの顔をのぞき込む。 「・・・ルーチェはさあ、それでいいの? な〜んか、あたしはちょっとがっかりしたなあ。 もっとこう・・・ルーチェのこと、守ってくれる人かと思ってたのに」 「そんなこと、ないですよ。フィアナ。 シーヴァスは、優しいです。私のことも、とても大切にしてくれますし・・ 私は、大丈夫ですよ」 その言葉を聞いて、フィアナはため息をついた。 「・・・それ、ルーチェの口癖だね。」 「・・・え?」 「大丈夫です、っていうの。 天使だったころのあんたが言うのはさ、すごく安心できて頼りになるって思ってたけど でもさ、今、同い年くらいの普通の女の子になったあんたに言われると、 無理してんじゃないかって考えちゃうよ」 「・・・そうですか? 私はそんな・・つもりはなかったんですが」 「・・・ふうん、そうなの? あんた、自分のことにはニブそうだしなあ。 んで、今日は彼はいつ帰ってくんの?」 「さあ。いつも遅いですから・・・」 ルーチェはそう言ってカップの紅茶を眺める。本当はもう少し彼とゆっくり話す時間があればいいのに、と思うのもウソではない。 「・・・やっぱり、無理してんじゃないの」 そのフィアナの言葉に、ルーチェは黙る。 フィアナはカップに残った紅茶を飲み干した。 「あんたの彼ってさあ、プレイボーイだって聞いてたけど・・・女心わかってないんじゃないの? ルーチェも無理せずにもっと甘えりゃいいのに」 「シーヴァスは、自分のするべきことを見つけて頑張っているんです。 私がそんなこと、言ってられませんよ」 フィアナは、そんなルーチェの手をとって言った。 「あのね、あんたは知らないかもしれないけどね 人間の男ってのは、好きな女に甘えられるのが好きなんだよ。 気にせずにどんどん甘えちゃえ」 「・・・そういうものなんですか?」 その言葉にフィアナは大きくうなずく。 「そういうものなの!」 夕方、フィアナは宿に戻っていった。屋敷に泊まっていかないか、というルーチェの言葉に、フィアナは笑って、こんな所は落ち着かないから、と言った。そして、早く結婚式の招待状を送ってちょうだい、と言い残して帰っていった。 一人の夕食がすみ、部屋に戻ったルーチェは椅子に腰掛けてフィアナの言葉を思い出していた。 『あんた、無理してるって』 そんなことはないと思っている。人としてここで生きることを決意したとき、多少の困難は覚悟していた。それでも、シーヴァスのそばにいたいと、そう思ったのだ。 だから、彼とともに生きることができるなら、それで満足だと思う。 思うはずだ。 「・・・今日も、シーヴァスは遅いんですね・・」 ため息がルーチェからもれる。ルーチェはテーブルに頭を伏せて、目を閉じた。 雨の音だけが、耳に響く。その音を、寂しい音だと彼女は、ふと思った。 そのまま、うとうとと眠ってしまったらしいルーチェは夢を見ていた。 ふわふわと、心地よい柔らかなものに包まれて、彼女はまどろんでいる。 まだ翼を持っていたころのように、なんだか体が軽いような気がする。 翼を捨てて、人になる。 ただの人となった自分は、いったいシーヴァスのために何ができるのか。 そればかりを考えていた。 彼が、自分のするべきことを見つけたのなら、それを見守ること。 それが自分にできることだと思った。 けれど、ときどき、そう、こんな雨の日は少しだけ彼に甘えたくなるのだ。 彼の背中を見つめるだけではなくて、彼の隣で彼の肩にもたれてみたいと思うのだ。 『だめですね、私。そんなことのためにあなたの元にとどまったわけではないのに』 だが、そんな彼女にシーヴァスの声が答えてくれたような気がした。 『君は、もっと我がままを言いたまえ。 私だって、君が何も言わないと不安なんだぞ』 その、少し憮然としたような照れたような口調が、夢の中というのにいかにも彼らしくて、ルーチェは微笑んだ。 昨晩は、そのまま眠ってしまったらしい。 目を覚ますと、窓の外がほの明るくなっていた。しかし、今日も雨らしく、窓を叩く雨音が聞こえる。 そういえば、いつの間にベッドに入ったのか、ルーチェには記憶がなかった。 そして、自分が誰かに抱き抱えられているのに気づく。あまりの事に彼女は慌てて身を起こし、傍らで眠る彼に驚く。 「シ・・・シーヴァス!?」 彼は、その声に目をしばたきながら眠そうな顔で彼女を見た。 「な・・・なぜ、あの、その・・・」 ルーチェは真っ赤になって、声も出ない。彼は少しうるさそうに答えた。 「君が机で眠り込んでいるから、ベッドに運んだだけだ。 言っておくが、私の服をつかんで離さなかったのは君のほうだぞ」 「そ、そうなんですか、あの、ありがとうございます・・・でも・・・」 と、言葉を続けようとして、ルーチェは気づいた。 夢の中で、暖かいものに包まれて心地よかった。あれは、きっとシーヴァスだったのだ。 シーヴァスはというと、また目を閉じてしまっている。 「君のせいで、ほとんど眠れなかったんでね。もう2、3時間眠らせてもらいたいな。」 「すみません・・・あの、私、寝相悪かったですか?」 一瞬、不機嫌そうにシーヴァスは目を開けて彼女を見ると、 「・・・そういうことじゃない」 と言って布団をかぶってしまった。 しばらく、そんな彼を見ていたルーチェだが、ベッドから降りると少し伸びをした。 そして、ふと気づいたように、ベッドのシーヴァスを振り返る。 「シーヴァス、今日はいいんですか? 公務の方は。」 「・・・今日は、休みだ。たまには、息抜きも必要だからな」 「そうですか」 嬉しそうにルーチェは答える。 「あの、シーヴァス、私、あなたに聞いてほしいことがあるんです。 目が覚めたら、聞いてくださいね」 昨日、フィアナが来てくれたこと。夢の中で考えたこと。 「・・・ああ、私も君に話したいことがある」 そう言うシーヴァスは、半ば眠りの中にいるようだった。 ルーチェは、微笑んで眠るシーヴァスを見つめていたが、やがて、彼を残して寝室を出た。 雨の音が昨日と同じように彼女の耳に届く。 けれど、その音を寂しいとは、もう彼女は感じなかった。 |