少し前から気づいていた。彼の自分を見る眼差しが他の人たちとは違うこと。 自分の彼を見る眼差しが、他の勇者を見るのとは違うこと。 お互いにわかっていたけれど、口にしなかった。口にしたら終わってしまうような気がして。 ずっと、目をみないようにしていた。怖かった。それを認めてしまうことが、怖かった。なのに。 「しばらく同行します、よろしくお願いしますね、シーヴァス」 天使がそう言って頭を下げた。シーヴァスはそんな天使の顔をじっと見つめるが、視線が合うことはない。いつからだろう、彼女が自分の視線を避けるようになったのは。怯えるようにいつも距離を取り、けして近づこうとはしない。だが、知っている。彼女は見ている。シーヴァスを見ている。いつも、少し遅れてシーヴァスの後をついてくる彼女がじっと自分を見つめているのを感じる。その視線に込められているものを、自分は見誤ってはいないと思う。だが、それを問いただすことができなかった。彼女と向き合えば、いつも彼女が自分との間に距離を作ってしまうから。一方通行でしかない視線。交わることのない思い。お互いに気づいている。気づいているから彼女はシーヴァスを避けている。微かな苛立ちがシーヴァスを捉えていた。 最近は同行する間、天使は翼を隠していることが多かった。当初は勇者が歩くその頭上をふわふわと飛んでいたのだが、いつのころからか、勇者と共に地上を歩くようになっていた。人は人、天使は天使。そう考えていたはずが、いつしか勇者とともに、インフォスの大地を感じて歩きたいと思うようになっていた。彼らの頭上を飛ぶよりも、彼らと友に歩む方が、ずっと彼らを近く感じることができた。だが、あまりに彼らと近しく接しすぎてしまったのかもしれない。人と天使は所詮住む世界が違うもの。思い入れを強くしたところで、いつかは別れるものだというのに。まして天使は神に仕えるべき存在だ。神の慈愛でもって人に尽くすならともかく・・・・ 天使はシーヴァスの後ろをついて歩きながらそんなことをぼんやりと考えていた。シーヴァスは天使がついて歩く後ろをけして振り向いたりはしない。だから、天使は安心して彼の背中を見ていることができた。彼女が同行している間、彼の歩調は彼女にあわせて少しゆっくりになる。それに気づいたのはいつだっただろう。彼の背中を見つめて歩くことが好きだと気づいたのはいつだっただろう。そう考えたとき、胸が痛んだ。天使にあるまじき想い。それは、認めてはならない想い。それを認めれば罪となるだろう。 「今日中に街に着くのは無理だな。どこか夜露をしのぐことができる場所を探さねばなるまい」 天使の考え事を遮るようにシーヴァスがそう言った。太陽は西へ傾きつつあり、空の端はオレンジ色に染まりかけていた。彼らが歩いている街道は、緩やかな傾斜を伴う山道に入っており、戻るにせよ進むにせよ日が暮れるまでに街にたどり着くことはできそうもなかった。どこか、山小屋でも探すしかない。もうしばらくいけば、炭焼き小屋があったはずだと、シーヴァスが呟く。勇者になって以来、インフォスの街道は彼にとってなじんだ道となっていた。傍らに天使を伴い歩く旅が、なじんだものとなっていたように。 「随分と埃っぽいが、一晩くらいなんとかなるだろう」 がたがたと扉を開けながらシーヴァスがそう言った。炭焼き小屋は狭かったが、土間もあり火もおこせるようになっていた。小さいテーブルと仮眠用の藁でできたベッドと。シーヴァスは火をおこして明かりを灯すと、ベッドにかけられた湿っぽいシーツを取り除き、自分のマントをひいた。 「少しはマシだろう、君がここで眠りたまえ」 そうして天使にむかってそう言う。ぼんやりと窓の外を眺めていた天使はその言葉に驚いたように顔をあげる。 「え・・・? 私が、ですか? あの、私は天界へ帰りますから・・・」 とまどいがちにそう答えるとシーヴァスの顔が少し不機嫌そうに曇った。 「今回はしばらく同行すると君は言ったように思ったんだが、気のせいか?」 「いえ、でも・・・」 「以前は、同行するときは旅の途中で天界へ帰るような真似を君はしなかったように思うが」 問いつめるようなシーヴァスの言葉には微かな苛立ちが感じられた。天使はそれに気づいてそわそわと焦りだす。手に冷たい汗が滲んだ。 「わ、わかりました・・・それではこちらで休ませていただきます」 その場を取り繕うように天使はうわずった声でそう言った。それでもう終わりにしてほしかった。それ以上問いつめてほしくはなかった。俯いた天使をシーヴァスの刺すような視線が貫く。気づいていたが、知らないふりをした。気まずい沈黙が訪れる。その沈黙に耐えられなくなったのは、天使の方が先だった。 「それで・・・いいですか?」 念を押すようにそう言って、シーヴァスから離れてベッドへ行こうとする。ここで夜を過ごすというのなら、早く眠ってしまいたかった。何も考えなくて済むように。しかし、シーヴァスは通りすぎようとする天使の手首を強く掴んで引き留めると、 「まだ眠るには早いだろう、たまにはゆっくり話でもしないか?」 と言った。その声は静かな調子だったが、有無を言わさない強さを持っていおり、捕まれた手首の痛みよりも、彼の手の熱さが天使には怖かった。 「君はこのごろ、私と同行しても顔も見てくれなければ話もしてくれない。」 「そ、そんなことありません・・・ちゃんとこうやって話をしてるじゃないですか」 震える声で天使が答える。もちろん、そんな答えでシーヴァスが満足するはずもなく。それは天使にもわかっているが、そう答えるしかできなかった。 「そう、そうだな。任務の依頼や私が質問したことにだけは、事務的に答えてくれるようだ。 だが、せっかくなんだ、もっと違う話をしようじゃないか?」 「・・・・・離してください、手・・・手が痛いです・・・」 しかし、シーヴァスは手を離そうとはしなかった。それどころかより強い力で彼女を引き寄せる。 「君が私と話をしてくれると言うまでは離さない。」 「何を・・・何を話せばいいと言うんですか」 引き寄せられまいと懸命に力を込めて体を離そうとしながら天使は言った。頭の隅でこのままではいけないとわかっていた。彼が何と言おうとも、早くこの場を逃れて天界へ帰らなくては。彼がその言葉を言う前に。 だが、所詮はシーヴァスの力の方が彼女よりも強いのだった。彼女の手首はしっかりとまるでつなぎ止められたかのようにシーヴァスの腕から逃れることはできず、ぐん、とシーヴァスが勢いをつけて腕を引くと彼女は簡単に体のバランスを崩して彼の腕の中に倒れ込んだ。 「!!」 体を離そうと彼女が腕を突っ張るより早く、彼が彼女を強く抱きしめる。目眩がした。心臓が苦しかった。薄い布を通して感じるシーヴァスの腕の温もり。間近に感じるどこか甘い彼の香り。髪にかかる彼の吐息。体が震えた。何でもないふりをしなくては。こんなことで動揺したりしないと思いこまなくては。懸命に息を整えて 「シーヴァス・・・ふざけないでください、離して」 そう言うが、上手くいったかわからない。声が震えていた。シーヴァスは何も答えてくれなかった。もちろん、体を離そうともしなかった。 「・・・シーヴァス・・・!」 それはもう、哀願に近かった。自分でも、もうダメだと思った。 「君が、私をどう思っているのか聞かせてくれたら離してあげてもいい」 シーヴァスが静かにそう言った。 「・・・大切な勇者です。インフォスを守るために働いてくださる、大切な勇者だと思っています」 「そんな答えを聞きたいわけじゃないことくらい、君にだってわかっているだろう」 シーヴァスの声に少し冷たさが混じる。天使は黙り込んだ。そんなこと、言えるはずがない。そんなこと、言ってはいけない。 「私は・・・私は君のことを・・・」 「言わないで! 言わないでください、シーヴァス!」 シーヴァスの言葉を遮って天使が声をあげる。その言葉を聞いてはいけない。その言葉は天に背く言葉だ。彼にその言葉を言わせてはならない。だが、シーヴァスは彼女の唇にそっと指をあてて黙らせると続きの言葉を紡いだ。 「・・・私は君を愛している。君を、一人の女性として愛しているんだ」 シーヴァスは天使の唇にあてた指をそっと離すと彼女の顎に添えて顔を上げさせた。 「・・・私の目を見て、答えてくれ。君は私をどう思っているんだ?」 天使の長い睫が震えていた。紫水晶のような不思議な色の瞳がどこか哀しげに見えた。 ゆっくり、伏せられていた目が彼の瞳と逢う。彼女の瞳に涙が盛り上がった。 「・・・そんなこと・・・言えません・・・言ってはいけないんです」 シーヴァスの端正な眉が顰められる。わかっているのに。答えはわかっているのに、彼女はそれを言ってくれない。言えないと言う。シーヴァスはそっと彼女の顔に自らの顔を近づけていった。 そうしてそっと彼女の唇を塞いだ。唇を離して彼女に囁く。 「私が嫌いで・・・いやだというなら、本気で抵抗したまえ」 そうして、もう一度、さっきよりも深く彼女に口づける。だが、天使は抵抗しなかった。ただ、泣きながら彼に言った。 「・・・シーヴァス・・・こんなこと、間違っています・・」 「そうかもしれないな」 シーヴァスはそう答えてもう一度彼女に口づける。 「あなたは人で、私は天使なんです・・・こんなこと、許されるべきじゃありません・・・」 だが、天使の腕はシーヴァスの背中を抱きしめていた。彼女の頬を流れる涙をシーヴァスは唇ですくった。 「・・・あなたは・・・あなたは天に愛された勇者なのに・・・・」 「君は天に祝福された天使だ。なぜ、君を愛さずにいられると思うんだ?」 「シーヴァス・・・こんなこと、間違っています・・・これは間違いなんです・・・」 シーヴァスは何度も彼女に口づけを繰り返した。これは過ちだとそう繰り返す愛しい天使に。 それは確かに罪なのかもしれなかった。あまりに甘くあまりに苦く。罪の味とはこういうものなのかもしれない。だが、それでもいいと、そう思った。彼女を手に入れることができるというなら。どれほどの罪でも背負ってみせよう。どれほどの罪でも。 |