緑の大地<2>

フローラがやってきて、ひと月ちかくが過ぎようとしていた。
もう、村の者たち皆にとって、彼女は生まれたときからこの村にいるかのように存在が自然なものとなっていた。
レイヴの暮らしの中にも、彼女が居ることが普通になっていた。
朝、彼が訓練に出掛ける前に彼女はいつも彼の元を訪れる。
彼が帰ってくるころには、一度は自分の家へと戻っているが、夕方再び彼の元へやってくる。そして、夕食を作って帰るのだ。
彼女は、彼が自分の作った食事を食べるのをうれしそうに見つめる。
レイヴはめったにその食事についての感想を述べることはなかったが、それでも彼女はいつもうれしそうだった。レイヴは、そんな彼女にどう応えていいのか、よく分からなかったが、彼女が自分の側に居場所を見つけていることにほっとしている自分に気づいてもいた。
ただ、記憶をなくし、自分を頼る彼女につけこむような気がして、彼女を支えたいという自分の気持ちに自信が持てないのだった。そう、そして、時々レイヴを襲う頭痛。何かを思いだしそうで思い出せないもどかしさ。それが、彼女とともにいると頻繁に訪れるのだった。
「レイヴ。お帰りなさい」
その日も、家に帰るとにこやかな顔のフローラが彼を迎えてくれた。
[ああ、いつもすまない。だが、毎日、俺の帰りを待っていなくてもいいんだぞ」
「あの、迷惑ですか?」
「いや、そうじゃない。いつも君には感謝している」
「そうですか! よかった。あなたに迷惑に思われていたらどうしようかと思いました」
彼女は心の底からほっとしたような笑顔で彼に微笑みかける。
迷惑だなどと思うはずがない。レイヴは困った顔をして彼女を見つめた。
「あの、なにか・・・・? どうかしましたか、レイヴ」
少し首を傾けてフローラがレイヴに問う。
『どうかしましたか? レイヴ』
ぼんやりとした記憶の向こうで、誰かもそう尋ねていた。優しい声。思い出せはしないが。
「・・・まだ、何も思い出せないか?」
レイヴはフローラに尋ねた。彼女が何か思い出すことができれば、自分のこの不思議な既視感の正体もわかるような気がして。
「・・すみません。ときどき、何か思い出しそうな気がするんですが・・・。」
そうフローラは言って首を振る。
「・・そうか」
レイヴが少し残念そうにそう言うと、フローラは申し訳なさそうにあやまった。
「すみません、レイヴ・・・。私、私・・・」
「いや、違う、フローラ、すまん、俺は・・・」
レイヴは自分の言葉を後悔した。何よりも不安で記憶を取り戻したいのはフローラ自身のはずなのに。
「あまり、思い詰めるな。記憶が戻らなくてもこの村で暮らしていけばいい。
 村の皆が、君を大切に思っている。」
「・・・ありがとうございます、レイヴ」
フローラの瞳に少し涙がにじんでいた。それから、彼女はにっこりと笑うとレイヴに言った。
「レイヴ、今日は、サラダを作ってみたんですよ、ほら」
それは特に変わった料理にはレイヴには見えなかったが、フローラは続けた。
「この家の裏に、少し空いた場所がありましたでしょう。
 そこに、種をまいたんです。今日、初めて摘んでサラダにしたんですよ」
レイヴは、そんなことになっていると今の今まで気づいていなかった自分に驚いた。
自分のいない昼間、彼女はそうやってその細い腕で土を耕し、種を撒き、水をやっていたのだろうか。
「・・俺は、君にずいぶんと頼っているんだな。
 君になにもかも、まかせっきりで、そんな事にも気づいていなかった。」
「そんな、ただ、私は楽しくてやっているんですから、いいんですよ」
「いや、そうではなくて・・」
レイヴは、彼女にどう言っていいのかわからなかった。
記憶のない彼女が彼を慕ってくるのを知って、それが彼女のためだと思いずっと彼女がしたいようにさせているつもりだった。だが、本当は違うのだ。毎日、彼女の笑顔を見るのが日課のようになっていた。彼女を支えてやりたいと思っていたが、それは自分の思い上がりだ。むしろ、自分の方が彼女に支えられていたのではないのか。
「今度の休みの日は、俺も一緒に手伝おう」
「え、そんなレイヴ、いいんですよ。私は、好きでやってるんです」
「だが、畑仕事というのは力仕事だろう」
「いえ、こう見えても私、力持ちなんですから、大丈夫ですよ」
そう言って笑うフローラに、レイヴは言った。
「手伝わせてくれ。フローラ」
真剣な彼の表情に、フローラは言葉なく頬を染めてうなづいた。
「・・ええ、レイヴ。じゃあ、お願いしますね。
 私、今度はトマトを植えようと思うんです。夏になったら、きっときれいで美味しいトマトができますよね」
「・・・そうだな、今度は君と一緒に食べよう」
フローラは、その言葉を聞いて一瞬驚いたような顔をし、それから嬉しそうに笑った。


レイヴは、家族ができるということはこういうことかもしれない、と考えていた。
彼女が誰で、過去に何があったのか、それももうどうでもいいことのように思えた。
自分が何を忘れているのかということさえも。
だから・・・自分がフローラにそんな大声を出すことがあるとは思いもしなかったのだ。
レイヴが昼間、訓練から帰ってきたとき、珍しくフローラの出迎える声がしなかった。
「フローラ?」
声をかけるが返事はない。裏の畑にいる様子もない。レイヴは不思議に思って家の中に入った。居間のソファにフローラは座り込んでいた。ただ、じっと。
レイヴは彼女に声をかけようとして、彼女が手にもっているものに気づいた。
それは、羽だった。
どくん、とレイヴの心臓が激しく脈打った。
「あ・・・レイヴ・・」
フローラが入り口に立つレイヴに気づいて、ソファから立ち上がる。
「レイヴ・・この羽・・・」
フローラが何かを言いかけたそのとき、レイヴが叫んだ。
「それに触るな!!」
おびえたようにフローラは立ちすくみ、レイヴは自分が何故、そんな事に激しく彼女を責めたのか自分でも驚いていた。
「す、すみません、レイヴ、私、そんな大切なものとは思わなくて・・・
 ただ、なんだか懐かしいような・・」
「違う、すまない、フローラ、俺はどうかしていた・・・」
「いいえ、ごめんなさい、勝手にあなたのものに触れたんです、
 怒られて当然です。すみません・・・」
フローラはレイヴに羽を渡すと彼の横を擦り抜けて部屋を出ていこうとした。
「フローラ!」
レイヴは彼女を引き留めようとしたが、そのとき、例の頭痛が彼を襲った。
「フローラ!」
それでも彼女を追いかけようとしたが、頭が割れるような痛みにそれは適わなかった。
手の中の羽。なぜ、何がそんなに大切だったのか。
彼女の手の中にあるのを見つけなければ、こんな羽を自分が持っていることさえ忘れていたのに。
『君の羽を1枚くれないか』
羽? 誰の? この世に羽を持った人間などいるものか。
だが、そう言ったのは自分だ。誰に。いつ?
「フローラ・・・」
レイヴは悲しげだった彼女の瞳を思い出す。傷つけてしまった。彼女はいつも自分のことを考えていてくれたのに。彼女は何も悪くなかった。
君を支えて生きていきたいと。そう思っていたのに。
『ええ、レイヴ、私の気持ちもあなたと同じですから』
そう言ってほほ笑んだ、フローラ。いつも変わらない笑顔で、自分を支えてくれた。
だが、そこでふいにレイヴは気づく。違う、フローラではない。
『ええ、レイヴ、私の気持ちもあなたと同じですから』
そう言ったのは。
『レイヴ、しっかりしてください、レイヴ!』
そう言って彼を捕らわれの身から救ったのは。
『君の羽を、1枚くれないか』
そうだ。君との思い出に。君が空へ帰った後も、大切に残そう。
「ティエラ・・・・」
白い翼、柔らかな黒髪、黒曜石の瞳。優しい・・・・・天使。
その名を口にしたとき、レイヴは手の中の羽が誰のものであったかをはっきりと思い出した。
「・・・なぜ、忘れていたんだ・・・ティエラ」
彼女は、ティエラだ。フローラ・・そう彼が呼んでいた彼女は。なぜ、彼女がここにいるのか。なぜ、彼女が記憶を失っているのか。考えるよりレイヴは、目眩を堪えて立ち上がり、彼女を追った。
曇った空は今にも泣き出しそうで、レイヴは彼女の姿を探す。
「フローラ!」
ぽつぽつと、レイヴの頬を雨が濡らし始めた。彼女の家へ続く路を辿ろうとしたレイヴの目に、彼の声が聞こえたのだろう、家の陰に隠れていた彼女が顔を出すのが見えた。レイヴはほっとして、彼女に近づく。
「フローラ・・」
「すみません・・・、レイヴ。
 もう、あなたは私のことなんて呆れてしまわれたかもしれませんけど・・・
 でも、まだ、私、夕食のサラダつくっていなくて、畑のチシャがちょうどいい育ち具合で、だから、あの、私・・・」
彼女の手は土に汚れ、その手には彼女が大切に育てた緑の野菜があった。
レイヴはそんな彼女を見て、今にも泣きそうな顔で笑った。
彼女は、いつもそうだった。天使のときも、今も。いつも、彼のことを考えて。
彼女は天空に帰ったはずだった。だが、今、こうして再び彼の元へ戻ってきた。
記憶をなくしていても、まぎれもなくフローラはレイヴが愛した天使、ティエラだった。
「・・・あの羽は、君のものだったんだ、フローラ」
「えっ?」
いぶかしげな顔の彼女に、レイヴは言う。
「・・・俺は、君を支えて生きて行きたい。
 俺と共に生きてくれないか」
彼女の瞳に涙が盛り上がる。そんな彼女を抱きしめるなど、レイヴという人間には思いもよらなかった。ただ、彼女の手からチシャをそっと受け取ると、こう言った。
「とりあえず一緒に、サラダでも作るか」
彼女は記憶を失っている。自分は天使の彼女と記憶をなくした人間のフローラとどちらを愛しているのだろう。だが、その答えは簡単だ。どちらも。どちらも彼女であり、記憶をなくしても彼女は何一つ変わってなどいない。彼女を支えて生きていきたいという自分の気持ちも。レイヴは、彼女とともに家に入りながら考えていた。
たとえ、天使の記憶が戻らなくても、新しい思い出をこれから作っていけばいい。
「レイヴ、ありがとうございます。
 私に、ここにいてもいいと言ってくださって・・・ありがとうございます」
そういう彼女と共にレイヴは家へ入り、その後ろで扉が静かに閉まった。






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