記憶の海

ときどき、幼いころの夢を見る。
父と母と、自分と、暖かい光の中にいる夢だ。
両親が自分を呼ぶ声がする。
夢の中の自分は、嬉しそうにそれに応える。
だが、目覚めてみると、夢に出てきたはずの両親の面影も、 はかなくぼんやりとしたものでしかなくて、 うっすらとした影としてしか残っていない。
確かに自分を呼んでいたはずの声さえも、もはや、思い出すこともできない。
あんなに好きだったはずの人々さえ、 そうして時の向こうに消えていくのだと思えば、 いったい、私には何が残されるというのだろう。
せきたてられるように、あの教会へ絵を見に行くのは、 きまって、そんな夢を見た後のことだった。
絵の中の女性が、本当に母の姿なのかどうかさえ私にはわからないほど、 もはや、記憶は遠い水面の底に沈んでしまっている。
それでも、この絵が母の絵であると言われれば、 絵を通して、母の姿を確認することしか私にはできない。
だから、私は熱心にあの絵を眺めてはいたけれど、 感動していたわけでも、見入っていたわけでもない。
絵の価値さえも、どうでもいいことでしかなかった。
ただ、ぼんやりとしか覚えていない母の影に、 絵の中の人物の顔を重ねる、無感動な作業をしていたにすぎないのだ。
だから、君があの絵を見て
「美しい絵ですね」
と言ったとき、私は驚いた。
そんなふうに思って絵を眺めたことなど、私にはなかったからだ。
君に言われて、はじめて、あの絵が美しいものなのだと気づいた。
初めて絵の中の母を離れて、あの絵を見ることができたのだ。

あの絵が、燃え落ちたとき、 思ったほどには私は落胆しなかった。
そのときには、もう、私には自分があの絵を見に行く理由がわかっていたのだ。
両親の記憶も、あのときの私の悲しみも怒りも、やがては記憶の海に沈んでゆく。
受け入れがたいことでも、それは事実だ。
だが、あの絵を、ただ一度ではあっても、 母の絵であることを離れて見ることができたことが、 絵にとらわれていた思いを、少しは穏やかなものにしてくれたと信じている。
君にだけは告白したが、私は心弱い人間だ。
愛おしいと思ったものの記憶が薄れていくことが、ただ、おそろしい。
君のことさえも、やがては、私の中から消えていくのだろうか。
君の穏やかな笑顔も、優しい声も、たおやかな姿も、 いつかは、思い出せなくなってしまうのだろうか。
もし、今の私にとって畏怖するものがあるとすれば、 それは、この世を狂わせる堕天使ではなく、 君の存在が自分の記憶から消えていくことだ。
時は、残酷にも心さえも風化させてしまうものなのだろう。
なのに、寂しさや空しさや喪失感だけは、時とともに大きくなっていく。
君が天空に帰ってしまうというのなら、 私は再び、大切なものを得ることもなく失ってしまうのだ。

旅の合間に、私はよく君を急に呼び出して迷惑をかけたな。
私は、いつも君を試していたのだ。
それは、もちろん、君の天使としての心構えをなどということではない。
ただ、君が私の元へ来てくれることを、試していたのだ。
我ながら、馬鹿げたことをと思わないでもないが、 天使などに本気になった男など、所詮は、愚かなものでしかない。
それが、ただ、天使としての務めのためのものであっても、 君の中に存在する私を確かめずにはいられなかったのだ。
あるいは、いつか天空へ帰るだろう君を少しでも長く、強く、 この目に残しておきたかったのかもしれない。

今、私は君を待っている。
それとも、もう、君は私の元へは現れてはくれないだろうか。
あのまま、天空へと帰ってしまったのだろうか。
この世界が救われたというのに、 今の時間の方が私にとっては、不安で長い。
私は、君のための勇者であり続けると約束した。
その約束は、たとえ君が空へ帰ったとしても、変わることはない。
けれど、ルーチェ、私の大切な天使。
どうか、私を深い海から、君の翼で救ってほしい。
私は、ずっと、君が訪れる翼の音をここで待っている。


しかし、彼、シーヴァス・フォルクガングが、 愛しい天使の羽音を聞くことは二度となかった。
なぜなら・・・・・
なぜなら、彼の愛する天使は、翼を捨てて彼の元へと還ってきたからである。






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