久しぶりの舞踏会は、シーヴァスにとってさして楽しいものではなかった。 退屈そうにベランダに出た彼は、眼下の庭に目をやる。幾人かの貴婦人が、彼を追ってベランダへやってきたが、生返事ばかりの彼に肩をすくめると、また屋敷の中へと戻っていく。 「参ったな・・・」 それは、確かに本音ともいえる。舞踏会が楽しめなくなるなんて、そんな事があるとは思いもしなかった。女性に対して優しい言葉をかけることも、恋をささやくことも、やろうと思えば今でもできることだろう。しかし、かつてほどそれが楽しいことでも面白いことでもなくなっている。自分の言葉が嘘だとわかってしまっているからだ。それもこれも、彼女のせいだった。 どんな貴婦人に『美しい人』『かわいい人』と囁きかけようとも、それは「彼女を別にすれば」という言葉がつくだろう。いや、彼女の前では美しさなんてなんの意味もないものかもしれない。こうも心を一人の女性に奪われていながら、どうして他の女性に恋を囁くことなどできようか。 どんな甘い言葉も、上っ面だけの嘘だと誰より自分がわかってしまっている。これでは、楽しめるはずもない。 「・・・まったく・・・罪作りだな、彼女ときたら」 自嘲気味に笑ってみる。そんな彼女はいったい、今どこにいるのだろう。他の勇者の元へ出向いているのか、それとも天界とやらで仕事に励んでいるのか。望む時に会えないというもどかしさもまた、彼女という存在にシーヴァスが飢える理由のひとつかもしれなかった。 我ながら、いったいどうしたものか、と溜息ともつかぬ笑いがこみあげた。 「珍しいですね、今日はどうしたんですか?」 ふいに、聞き慣れた声が聞こえた。シーヴァスは驚いて傍らを振り返る。 何時の間にか天使が彼の元へとやってきていたのだ。シーヴァスは先ほどからの自分の情けないつぶやきを彼女が聞いてはいなかったか、と少し狼狽する。 「なんだ、君か。突然どうしたんだ。いったい、いつからそこにいた?」 彼の問いと常からは考えられないような動揺した様子に、天使は不思議そうな顔をして答える。 「つい、今ですけれど? 声をかけようかと思ったら大きな溜息をついたりしているものですから・・・。 何か、悩みごとでもあるんですか?」 無邪気な顔でそう言う天使にシーヴァスは苦笑を禁じ得ない。悩み? 確かにあるだろう。それを解決してくれるのも君しかいまい。 「まあ、ないこともないけれど。 だがまあ、君に相談するのは今はやめておこう。時期がきたら君にも話そう」 「そうなんですか? 私にできることでしたら、なんでも言ってくださいね。 私はシーヴァスのためでしたら、喜んで何でもしますから」 そう言って、天使は微笑む。その申し出は有り難いが、シーヴァスの悩みを知ってなおそう言ってもらえるかはかなりの疑問だった。 「今日は、踊らないんですか? 中の貴婦人方は、あなたが来るのを待っているんじゃありませんか?」 天使がそう言う。 「私が中へ戻った方が、君はいいのかね?」 せっかく彼女と会えて話をしているというのに、中へ戻るつもりなどシーヴァスにはさらさらなかった。 「そうじゃありませんけど・・・。ダンスって楽しそうじゃないですか。 私、あなたが踊っているところを見るの、好きなんです。 とても、優雅で軽やかで、まるで翼があるみたい」 いつだったかも舞踏会を見にきていたことがある彼女はそのとき、彼と貴婦人のダンスをみていたのだろう。それにしても、それほどまでの褒め言葉を言われたことなど今だかつてなかった。 「君も、踊ってみるか?」 シーヴァスはそう言うと天使の手をとった。天使は少し驚いたような顔をして彼の瞳を見つめ返す。 「私と、ですか? でも、私、ワルツなんて踊ったことないんですけれど」 「大丈夫、私がリードするから」 「こ、ここで、ですか?」 「・・・確かに、ベランダは少し狭いな」 シーヴァスは苦笑すると、彼女の手をとって階段へ進み、庭へと降り立った。 「ここなら、いいんじゃないか?」 天使はそれでもまだ、そわそわとしていたが、けしていやがっている様子ではなかった。 「あの、本当に、私、下手ですよ?」 天使はもう一度、確かめるようにシーヴァスに言う。シーヴァスは笑ってそれに答えた。 「かまわないさ。もしなんなら、足を踏まれても文句を言わない、と今ここで誓ってもいい。 それとも、踊りたくはない? 見ているだけがいいのか?」 天使は首を横に振った。そして、嬉しそうに笑う。 「いえ、シーヴァスがそれでもいいと言ってくれるなら、一度踊ってみたかったんです。 とても嬉しいです、ありがとうございます、シーヴァス」 シーヴァスは、彼女の柔らかな手をとり、細い腰にもう一方の手をあてた。間近に抱き寄せると彼女は花のような優しい香りがした。ワルツを踊るにはつい力がこもりすぎてしまう腕をなんとかゆるめて、シーヴァスは彼女に合わせてゆっくりとステップを踏む。 ゆっくりと、彼女が楽しめるように。 「楽しいです、シーヴァス。とっても」 彼の肩に寄り添いながら、天使が微笑む。彼女の翼によってもしかして今、二人ともが空を飛んでいるのではないのか、空中でステップを踏んでいるのではないのか、とシーヴァスがふと思うほどに、彼女は軽やかに、踊った。 「・・・十分に君は社交界でやっていけるほどに上手だよ」 「本当ですか? でも、きっとシーヴァスがリードしてくださるのが上手だからですよ」 屋敷のダンスホールの豪華なシャンデリアの代わりに青白く冴えざえとした月光が二人を照らしていた。数々の楽器が奏でる優雅な音楽のかわりに、木々をなでる風の音が二人の耳に届いていた。 それは何よりも美しい光と音楽だった。 「・・・このまま、君を離したくないな」 そう呟いてからシーヴァスは、しまったというように顔をあからめ、踊るのをやめてしまう。 天使はいぶかしげな顔をして、彼の顔を覗き込んだ。 「どうしましたか? 疲れてしまいました? すみません、私ったら気がつかないで・・」 どうやら先ほどの言葉は彼女には聞こえていなかったらしいと、シーヴァスはほっとするが、これ以上自分の思いを吐露せずにいられる自信がなくて、彼女の手を離した。 「そうだな、少し疲れたのかもしれない。 しかし、私も楽しませてもらったよ。今までにお相手したどんな貴婦人よりも、君は軽やかな踊り手だ」 天使はその言葉ににっこりと笑った。 「ありがとうございます、そんな風に誉めてもらえるなんて、嬉しいですよ。 それじゃあ、そろそろ帰りますね、私」 「・・・ああ。それではな」 来るときも突然なら、帰るときもあっさりとした天使に、シーヴァスは自分の思いが彼女に通じるときがくるのだろうか、と内心溜息をつく。が、もちろん、簡単に諦めるつもりなどないけれど。 「あの、シーヴァス・・・」 翼をはばたかせ、中空に浮かんだ天使が、彼に声をかける。 「? どうかしたのか?」 「シーヴァス、今はまだ、堕天使を倒す任務の途中ですから 私はあなたの願いに応えられませんけれど・・・・ でも、私の思いはいつもあなたの側にありますから・・・」 頬を染めてそう言うだけ言うと消えてしまった天使にシーヴァスは舌打ちをする。 『聞こえていたんじゃないか、まったく!』 しかも、言いたいことだけ言って、自分はさっさと消えてしまうなんて。 だが、シーヴァスはやがて面白そうに笑い出した。 彼女は、言ってしまったのだから。それならこちらも今後は遠慮することはない。 任務の途中といえども気にするものか。 次に会ったときには、とりあえず挨拶がわりに口付けを送ろう。 そう、今日踊ったワルツのように、軽やかに、優しい口付けを。 |