エンドロール
何で、こんなことになっちゃったんだろう。 恋人とは違う人の腕に抱かれて、いっぱいいっぱい泣きながら、あたしはそんなことばかり考えていた。
こんな風になるなんて、一週間前まで考えてもいなかった。ううん、今日の朝だって思ってもいなかった。ほんの数時間前だって。
「自分を責めなくていい、君を惑わせた俺が悪い…」
耳元で依織くんが低く囁く。身体の痛みのせいだけじゃなく、涙がちっとも止まらない。それを依織くんの唇がそっと辿っていく。それが優しくて、あたしはもっと泣きたくなる。「…俺が悪い」依織くんは、そう言うけれど彼を拒めなかったのはあたしだった。逃げることだって拒むことだってできたはずなのに、そうできなかったのはあたしで、無理やりじゃなく、あたしが依織くんを受け入れたのだ。麻生くんに悪い。そう思うのに。麻生くんを嫌いになったわけじゃない。そう思うのに。あたしは何も考えられなくなって、明日からどうしたらいいのか、どうなってしまうのか怖くて、目の前の暖かい身体にしがみついた。



朝、あたしが目を覚ましたとき、依織くんはもうとっくに起きて服も着替えていた。身体も頭も重くって、泣き過ぎたのか目もはれぼったいあたしに、ちょっと微笑みながら冷たいタオルを渡してくれた。その顔を見ることができなくて、俯いたままそれを受け取り、目に押し当てる。ぎしっ、と依織くんがベッドの端に腰掛けた音がした。思わず、びくっと身体が強張る。
「…大丈夫かい?」
その声は優しくて、あたしはただ頷く。
「……ごめんね」
そう囁いてそっとあたしの髪に触れる。あたしは首を横に振る。依織くんだけのせいじゃない。……こんな風に振舞うのは、依織くんに対して卑怯な気がして、あたしは顔を上げた。途端に間近く覗き込む依織くんの顔。
「……君は、ただ自分が思うとおりにすればいい。麻生とでも俺とでも、そのときに会いたい方と会えばいい。……俺は、それで構わないから」
ほんとうに?
そう言いかけて喉の奥にその言葉を飲み込む。昨日の夜。疲れて動くこともできなくて、でも深く眠ることもできず、浅い眠りを繰り返していたあたしは、依織くんがひどく悲しげに、愛していると呟いた声を聴いていた。
「今日はどうするんだい? 家まで送ろうか」
今日……。講演会だ。昨日、トラブルがあったって言ってたけど。大丈夫だったのかな。……今さら、こんな心配したって仕方ないけど。でも、せめて当日くらいは行かなくちゃ。
「……今日、イベントがあるから。学園に行かなくちゃ」
麻生くんと顔を合わすのは怖いけど。依織くんは、そう、と短く言って立ち上がった。
「じゃあ駅まで送ろう。俺が学園まで送っていってもいいけれど。君の都合が悪いだろう?
 コーヒーを入れてきてあげるから、その間に準備をしなさい」
そうして依織くんは寝室を出ていった。あたしは、散らばった服を集めて身につけようとして。自分の身体に残った痕に気付く。
『俺のあとを残してあげる』
それを拒まなかったあたしは、依織くんのあとを自分に残して欲しいと思ったんだろうか。




最悪の気分というより、もう何か考えることすら億劫な気分で、あたしは学園へ向かった。トラブルは上手く片付いたみたいで、ポスターも展示もきれいに出来上がってた。講演会が始るまでに学園長に謝っておこうと思って学園長室へ行くと、怒られるどころか、変に心配されてしまった。よっぽど酷い顔色や表情をしていたみたい。本当は、他の皆にもあんまり顔を合わせたくなかったけど、頑張ってチャペルまで行くと、遊洛院さんがすごく心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「大丈夫ですの? 急に体調を崩してしまったと聞きましたわよ? 本当に、まだ酷い顔色ですわ」
「え?」
「昨日、来れなかったのは、そうなのでしょう?」
麻生くんだ、とあたしはすぐに思った。依織くんと会ってて行けなかったあたしのことを、病気だからって皆には言ったんだ。
「……ごめんね、皆、大変だったでしょ、ホントにごめん」
「あら、そんな、気にしなくても良いのですわ。それより、本当にもう大丈夫ですの? お休みになった方が良いのではなくて?」
自分がとても卑怯者に思えて、心配してくれる遊洛院さんの声も耳を通り過ぎていくばかりだった。結局、講演会の間、あたしは保健室に放り込まれていた。でも、それでほっとしていたのも本当だった。あの場所にいたら、麻生くんと必ず顔を合わすことになっただろうから。まだ、講演会は終ってない時間だったけど、あたしはもう家に帰ることにした。講演会はもう、あたしが居なくても大丈夫だろうし。考えすぎてなんかもう本当に頭痛くなってきそうだったし。
明日からゴールデンウィークで学園が休みで良かった。ホントにそう思った。……本当だったらデートして、遊びに行って、って楽しい計画立てるはずだったかもしれないのにな。でも、今は全然、そんな気分になれない。 『今日は俺と。明日は麻生と。気ままに過ごせばいい』
依織くんの声が耳に蘇る。……そんなこと、できないよ。
ぼんやりしたまま、気がついたら家に帰ってきてた。もう、何も考えたくない。寝てしまいたい。そう思って、ベッドに倒れこむ。ポケットに携帯が入ったままになっていて、倒れこんだ拍子に床に落ちた。案外派手な音をたてたことに少し驚いて、手を伸ばして携帯を取る。メールも着信も来ていなかった。先に帰るって言っておけばよかったかな。そうとだけ思いなおして、遊洛院さんに簡単なメールだけを送った。
そういえば、麻生くん、何も言ってこなかったな、と考える。あたしが病気なんかじゃないことも知ってるし、今日、学園に来てたことも、もう聞いてるだろうに。昨日、電話でも怒ってたもんね、まだ怒ってるのかな。まあ、当然かもしれないけど。それでも、あたしのこと、皆には病気だからってかばってくれたんだな。それが最後の情けってやつで。実は、麻生くんと依織くんと、どっちか選べない、なんて言ってる場合じゃなくて、とっくに麻生くんからは呆れられてもう別れてやったって思われてるかもしれない。このまま、メールも電話もなくて、学園で出会っても目を逸らされて、無視されて。
……でも、それって、今までと同じじゃない?
そう考えると、なんかちょっと可笑しくなった。麻生くんはあたしのメールに返事くれなかったし、学園では目も合わせてもくれなかった。まるでその場にあたしなんていないみたいに振舞われた。付き合ってるってこと、みんなに内緒にして、付き合ってるのか、って尋ねられても
『俺がこいつと?! そんなことあるわけねーじゃん! ありえねえよ!』
なんて力いっぱい否定してた。そこまで否定されるあたしって、いったい何なの?! ずっとそう思ってた。寂しかったし、悲しかった。
依織くんは優しくて――あたしを好きだって言ってくれて――慰めてくれて、欲しい言葉をくれて―――あたしは、自分の寂しさを埋めるために、依織くんを、利用したのかな。
あたしは、きっと、二人ともに対してとても酷いことをしている。
携帯電話を手の中で弄んでいると、突然手の中の携帯が鳴った。びっくりして思わず、手から落としそうになる。麻生くんだったら、どうしよう。咄嗟にそう思った自分がいた。
電話は、依織くんからだった。
『やあ、むぎ』
受話器から聞こえる声は、まるでいつもと同じ。
『麻生とは、話しは出来たかい?』
なんてこともないかのように、そんなことを言う。依織くんには見えるはずもないのに、声が出せずにあたしは首を横に振った。でも、それだけでも依織くんはどうだったかわかったみたいだった。
『昨日は行けなくてごめん、俺とは別になにもなかった、そう言えばいい』
「……そんな嘘、つけないよ」
小さい声でそう言うと、その声が震えていたのに気付いた依織くんが答える。
『じゃあ、麻生に正直に言うのかい? ……昨晩、君が、俺と寝たって』
「……言えないよ、そんなこと」
思わず大きな声でそう答える。どっちも言えない。だから、どうしていいのかわからないのに。
『なら、何も言わずに黙っていなさい。君が何もなかったように普通に振舞えば、麻生だって深追いはしない』
「……なんでわかるの」
『わかるさ』
そうとだけ、依織くんは短く言った。しばらく沈黙が続いて。それから、いつもより少し低い声で依織くんが言った。 『俺を受け入れたこと、後悔してる?』
「……したくない」
自分で選んだことだから、後悔しない。いつだって、あたしはそう思って生きてきた。今だって考えて考えて、でもやっぱり、あのとき、依織くんを残して麻生くんのところへ行くなんて出来なかったと思うんだもの。
『……傍に行った方がいいかい?』
あたしは、相変わらずどうしていいかわからなくて、自分で考えることをしたくなかった。きっとここで「家に来て、傍に居て」と言えば依織くんが来てくれて、もうあたしは何も考えなくていいとそう言ってくれることはわかっていた。それはとても心地いいことだとわかってて、そうしたかった。でも、それはしちゃいけないって思って。息を大きく吸って、溢れそうになる何かの感情を我慢して。
「……ううん、いい。……ありがとう」
そう言った。
『…………そう』
短く、依織くんはそう答えて。『何かあったら、いつでも電話しなさい』そう言って電話を切った。




休みの間中、家でずーっとぼーっとして過ごしていたあたしは、さすがに最終日になってこれではいかんと思いなおしたのだった。考えることができないなら、いっそ何も考えなくていいくらい何かに没頭すべし! というわけで家の大掃除にかかる。二階から一階から、今は年末かってくらい徹底的に磨きまくる。
日が沈むころには、リビングもキッチンも水回りもぴっかぴかになっていた。ワックスもかけてつるつるぴかぴかのリビングの床にぺたりと座り込んで、ほっと息を吐く。家一軒って大変だけど、でも、一哉くんたちがいたあの家に比べればうちの家はまだ狭いから楽かもしれない。まあ、比べる対象が違うかな。
……あの家に居た頃は、楽しかった。事件続きでハラハラドキドキの連続だったけど、でも楽しかった。もう、あんな風になれないのかな。戻れないのかな。麻生くんとだって、ケンカばかりなんてこと、なかったのに。麻生くんのことが、いつからわかんなくなっちゃったんだろう。
また、なんだか気分が暗くなりそうになったとき、玄関のチャイムが鳴った。
「え、誰だろ。夏実かな…」
よいしょと起き上がって玄関に駆けていくと、「はーい」と言いながら鍵を開けた。
「……無用心な子だね。ちゃんと相手を確かめてから開けないとダメじゃないか」
「い、依織くん……」
「……思ったより、元気そうで良かった」
依織くんは、あたしを見下ろしてそう言った。心配してくれてたんだ、と思った。ゴールデンウィークとか関係なく忙しいんだろうにな、とちょっと申し訳なく思ったり。
「麻生と仲直りはできたかい?」
「……会っても話してもいないよ」
「どうして」
「…………」
どうして、なんて、わかってるくせに、と思う。
「麻生からも、何も?」
こくりと頷くと依織くんは、ふうん、と呟いた。
「麻生がそのつもりなら、遠慮はいらないかな」
「え、遠慮って何」
今まで遠慮してたとでも? と言いたくなったけど不意に顔を近づけられて思わずぎゅっと目を閉じた。キスでもされるかと思ったけどそうじゃなくて、耳元で囁かれる。
「……じゃあ、海にでも行こうか」
「……もう夜になるよ?」
「夜になるから、だよ」
「…………。」
思うんだけど、どうしてあたしは、依織くんのこと、拒めないんだろう。夜だから行かないよ、とか。なんで言えないんだろう。二人して無言のまま車で飛ばしてたどり着いた海。着いた頃にはすっかり夜で、波の音は聞こえても海は黒々とした空間にしか見えなかった。まるでぽっかり空いた何もないからっぽの大きな穴が広がってるみたい。
「君は、後悔したくないと言ったけれど、本当に今も後悔していないと言えるかい?」
依織くんは砂浜を歩きながらそう言った。ぼんやりとした月明かりに浮かぶ、すらりとした長身は後姿だってすごくかっこいい。指先まで綺麗な手をしていて、その手はつい何日か前の夜、あたしに触れていたのだ………なんてことまで考えてしまって、ぶんぶんと頭を横に振った。辺りが暗くて良かった。
「……それとも、実は、後悔してる?」
あたしが黙ったままなので依織くんが立ち止まって振り向いてそう言葉を続けた。
「……わかんない」
あたしは、そう答えた。でも、それは依織くんを好きかわからないからとか、麻生くんに悪いからとか、そんなことじゃなくて。
「……依織くんは、後悔しないの」
「しないさ」
少しも迷わずに依織くんはそう答えた。
「だって。依織くん、麻生くんとあんなに仲良くなれたのに」
あの家を皆出ることになったとき。全員で集合写真を撮った。皆、笑顔だった。最初は4人して仲が悪くてケンカばかりしてたけど、わかりあえて、仲間になれたのに。きらきらと楽しかった思い出。そんな大切な思い出まで失ってしまうことになるのに。
「君を手に入れるためなら、何を失ったって後悔しない。後悔するくらいなら、最初から奪おうなんて考えたりしない」
いつも物静かな語り方をする依織くんが、強い言い方をして、あたしは黙った。前も同じようなことを尋ねた。なんで、あたしなの、あたしのこと、真剣なの、って。
「……でも、あたしは、寂しいよ……」
もう、皆で一緒に笑ったりできなくなるのかなって思ったらすごく寂しくて、悲しい。
「……俺を責めるかい?」
そうじゃないよ。あたしは首を横に振る。
「……麻生の元へ戻れば、俺を除いた3人と君と、一緒に笑える日が来るかもしれないよ?」
「そんなんじゃ意味ないよ! それに、麻生くんのところに戻ったって、今までと同じにはなれない」
依織くんとの間にあったことを、なかったことにはできないもの。麻生くんに黙って、嘘ついて、戻るなんて、できない。
そして、あたしは気付いた。もう、あの頃みたいには戻れない。どんな方法を探したって、戻ることなんて出来ないんだ、って。それに、もうひとつ、気付いた。依織くんは、ずっとずっとあたしを好きだった、って言ってくれた。自分の思いを押さえていただけだ、って。あたしが、楽しくてきらきらしていたと思っていたあの家での日々、依織くんは、どうだったのかな。辛かったんじゃ、ないのかな。無理をして、笑っていたときもあったのかな。
依織くんは、なんだか不思議な笑みを浮かべて、あたしを見ていた。
「君は、いつだって、どうなったって、変わらないね」
真っ直ぐで、勇敢で、人の気持ちに聡くて、頑張りやさんだ。そんな風に、言った。そして近づいてきて、そっとあたしを抱きしめた。あたしは、依織くんの腕の中から、逃げ出そうと、しなかった。そこは、温かくて、あたしはそれで、実は随分と身体が冷えていたんだって初めて気付いた。
「君に出会うまではね。俺はずっとまるで夜の海に漂っているみたいだったよ。光も射さないただただ暗い、闇の世界にぼんやりと漂っているみたいだった。生きてることさえどうでもよくて、このままいつ死んでも構わないって思っていた。むしろ、死の方が俺にとっては優しいように思えたよ。君は、そんな夜の海に射した一筋の月の光のようだった。俺が沈む海底までまっすぐに強く差し込んできた光だった」
「……むぎ。俺はね、麻生に悪いと思う心さえ、捨てたよ。誰に憎まれても、それでも、君が俺を選んでくれるなら」
その声がとても切なくて、あたしは思わずぎゅっと依織くんの背中を抱きしめた。そうでもしないと、本当に夜の海に依織くんが沈んでいってしまいそうな気がしたから。
帰り道、まるで何もなかったみたいに依織くんは普通だった。ゴールデンウィークの間、仕事で何をしたとか何処へ行っていたとか、そんな話しをしてた。
「今日はね、雑誌の取材だったんだよ」
「へえ。どの雑誌? いつ出るの? 何を話したの?」
「フフ……内緒。ちょっと、君には読まれたくないかな」
「なんで。そんなら言わなければいいのにさ」
ぷんと膨れてみせると、ごめんごめん、と笑って答える。この人を、傷つけたくないな、ってあたしは思った。ちゃんと、考えよう。麻生くんとのことも、依織くんのことも。




そうは言っても、いざ学園に行くとなると随分と勇気が必要だった。麻生くんとちゃんと話さなくちゃ。そう思うんだけど、どんな顔をして何を言えばいいのか、わからない。すごく怒っているんだろうなと思って、またケンカになるんだったら嫌だな、と思う。なんだか少しコソコソして教室へ向かっていると、後ろから突然抱きつかれた。
「いやっ!! ちょ、ちょっと、誰っ!! ぎゃー!!」
「僕で〜す。なんだ、つれないなあ、むぎちゃん」
「せ、瀬伊くんっ」
人の悪い笑顔で瀬伊くんが立っている。大声出したことが恥ずかしくてあたしは、思わず周りを見回した。幸い、誰もさほど気にしていないみたいで良かった……。けど、瀬伊くんが居るということは、と気付いてあたしはもう一度辺りを見回す。
「麻生なら、いないよ」
にっこり笑って、瀬伊くんがそう言い、あたしはほっとした。けど、すぐにびっくりして瀬伊くんを見る。
「なっ、なんで、麻生くんを探してたってわかるのっ」
「え〜、わかるよ。だって、講演会の前の日から二人しておかしいもん。トラブル発生のとき、むぎちゃん、こなかったでしょ。麻生ときたら、機嫌悪いのなんのってさ〜。八つ当たりだよ。ま、それでもなんとかちゃんとやったから褒めてつかわすけど。休みの間に仲直りでもしてるかなって思ってたけど、今日もやたら機嫌悪くてね〜。で、何かあった?」
楽しげですらある瀬伊くんの口調に、あたしはちょっとため息をついた。やっぱ、麻生くん、怒っているんだ。そうだよね…。ちゃんと話しをしなくちゃ、と思う反面、麻生くんと二人で話しをするのが怖いなと思った。また、あんな風に押さえ込まれたり、腕を掴まれたり、したら、怖い。そんなことを思っては否定する。怖いなんて言ってちゃだめだ、あたしだって悪いんだから。でも……、と。
「……僕は、何があっても、どんなことがあっても、どうしても、むぎちゃんの味方だからね♪」
瀬伊くんが突然、そう言って、あたしは驚いて顔を上げた。瀬伊くんは、まるで何でもわかってる、っていうような顔をしていて、あたしは変にどぎまぎする。
「ねえ、むぎちゃん、君は、とっても真面目で、とってもいい子だけど。人生で一度や二度や三度や四度や五度くらい、悪い子になったって、いいんじゃないかな〜。いいじゃん、別に、悪いことだってさ〜。たまには羽目を外してみようよ〜楽しいよ?」
どこまで本気なんだか嘘なんだか、相変わらずわからないけど、でも瀬伊くんなりにあたしのこと気遣ってくれてるんだな、って思った。
「君と羽倉のケンカなんてね、羽倉が100万%悪いに決まってるんだからね♪」
にっこり天使のような笑顔で、悪魔のような台詞を言う瀬伊くんに思わず噴出す。ちょっとだけ、気持ちが、軽くなった。
「ありがと。ちゃんと、話し、してみるよ」
そして、自分の心をちゃんと確かめよう。麻生くんへの気持ちと、依織くんへの気持ち。
瀬伊くんのおかげで、なんとか落ち着いてその日一日、ちゃんと授業も受けられた。さて、麻生くん、は。この時間だったら図書室かな。それとも生徒会室? 先に図書室を覗いて見ることにした。いつもなら、パソコン関係かビリヤード関係の本がある辺りにいるんだけど……。姿はない。入り口を離れて廊下の先を見やると、階段のあたりに麻生くんの姿を見つけた。
「あ、麻生くん……」
目が合った。途端に、麻生くんはぷいと顔を背けて、来た道を戻っていく。あたしは一瞬だけ迷って、でも、その後を追いかけた。
「麻生くん、待って!」
いつの間にか、二人して走ってて、すれ違う人が皆驚いていたけど、そんなの知ったことじゃない。それにしたって麻生くんってば足が速い。芸美棟から外に出て駐輪場の方まで走ったけど見失ってしまった。急に走りすぎてちょっと気分悪くなりそうになりながら、かなりムカついて叫ぶ。
「何よ…! 麻生くんの馬鹿っ!!」
「うるせえ、自分のこと棚に上げて何言ってんだ!」
はき捨てるように言い返されて身体を起こすと麻生くんが立っていた。
「お前、自分が何やったかわかってんだろうな? それで今更、俺に何か用でもあんのかよ!」
怒っていて、そして、麻生くんは傷ついてた。……あたし、あのとき、依織くんを傷つけたくなくて麻生くんを傷つけたんだ。そんなことに今になって気付く。
「あたし……あたしは…………ゴメン…」
何を話そうと思っていたのか、そんなことも思い出せなくなって、あたしはただ、そう言った。
「お前、俺のことが好きだったんじゃねえのかよ。それがちょっと松川さんに声かけられただけでフラフラしやがって。何なんだよ、お前」
「……ただ声かけられたからじゃないよ! あたしが麻生くんのこと好きでも、麻生くんの気持ちがわかんなかったんだもの! いつもいつも、ほったらかしにされるか、関係ない顔されるか、ケンカするかしかなかったじゃない!」
「……それは…仕方ないだろっ! 途中でほったらかしにしたときだってちゃんと謝ったし、学園じゃ噂になるのがめんどくさいって言ったじゃねえか。それでも付き合ってるってわかってんだし、何が悪いんだよ」
「わかんないの? ほんとーにわかんないワケ?! あたしが何が不満なのかわかんないって言うの?!」
ちゃんと話そうと思ってたのに、またケンカになってる。そんな風に思って、もうあたしは情けなくなっちゃった。
「……もうやだ。ちゃんと話そうと思ってたのに、またケンカで。もう、ケンカばっかり、疲れちゃったよ」
「俺が悪いっていうのかよ! お前が俺の言うこと聞いてりゃケンカにもならなかったんじゃないのかよ!」
いろいろ悔しくなってきて、情けなくなってきて、泣きそうになった。もう、ホントにだめだって思った。
「……そうだね。あたしが悪かったんだね。ゴメンね。麻生くんが思うとーりの彼女になれなくて。麻生くんが言うこと、なんでも「はいはい」って聞いて、なんでも許して、なんでも言うことを聞いていればよかったんだよね」
「……! 俺は別にそこまで……」
「そう言ってるのと同じだよっ! もういい。あたし、麻生くんが思うような彼女にはなれない。だから、もうゴメン」
「……むぎっ」
麻生くんが呼ぶ声が聞こえたけど、振り向かなかった。
『君と麻生は似すぎているんだね。だからケンカになってしまう』
似すぎてるから、惹かれあって、似すぎてるから、今度は反発してしまうの? そうなのかな。ケンカするたびに、小さい棘が心に刺さって、抜けないままで。なんでわかってくれないのかな、麻生くんが考えてることがわかんない。そんな風に思ってばかりで。好きだって思っていたはずなのに、なんでって思う不満や怒りばかり顔を合わすとぶつけ合って。ホントにね。疲れちゃうだけなんて。
麻生くんに美術準備室で無理やり押さえ込まれようとしたとき。『お前は黙って俺の言うこと信じてりゃいいんだよ』
そう言われたとき、すごく冷たい棘が心の一番奥に刺さった。あたしの気持ちはどうでもいいのかな、って。
大好きだったのにな。胸が痛い。でも、どこかでほっとしている自分もいて。『疲れちゃったよ』何気なく言った言葉だったけど、本当に、そうだったのかもしれないな。そんな風に思った。
あたしの初恋は、終っちゃったんだ――




麻生くんと別れたんだってことは、学園の友達には話した。瀬伊くんも多分、知ってると思う。でも、付き合ってることを隠していたあたしたちは、その後、特に表面上何が変わったってこともなかった。まるで、最初から付き合ってなんかいなかったみたい。
そして、あたしは――あたしは、何故かわからないけど、依織くんにはまだそのことを話せずにいた。依織くんもあれから麻生くんのことを何も尋ねようとはしなかった。依織くんは、あたしが麻生くんとも付き合ってるって、そう、思っているのかな。伺うように顔を見ても、依織くんの表情はいつも何も変わらず、優しい顔のままで。忙しいのに会いに来てくれたり、メールをくれたり。あたしは、依織くんが好きなのかな。それとも寂しいだけなのかな。そんな問いを繰り返しながら、彼に甘えているばかりだった。でも、もっと不思議なことには、依織くんは、あの最初の夜以来、あたしに触れてこようとしなかった。何故、と尋ねてみたかったけど――ただ話しをして、一緒に出掛けて、そんな優しい時間を崩してしまうのが怖くて、聞けずにいた。そんな風に、一ヶ月、二ヶ月近く時が経って。
あたしは、いつの間にか、依織くんからのメールや電話を待ってる自分に気がついた。町の中に貼られている依織くんのポスターに目を奪われている自分にも。いつの間にか、探してる。今頃、何してるかな、って考えてる。いつの間にか、あたしの中は依織くんでいっぱいになってた。
少しずつ、少しずつ、水が注がれてコップがいっぱいになるみたいに。それに気付かずにいたみたいに。
『むぎ? 夏休みに入ったら君の誕生日だろう? どこか連れていってあげよう、何処がいい?』
去年は一人で寂しい思いをさせたからね。依織くんの優しい声が電話越しに聞こえる。
『それとも、誰かと先約があるかな』
少し押さえた声で続けられたその言葉に、あたしは依織くんが麻生くんのことをあたしにあれから尋ねようとしなかったのは、それが彼なりのルールだったんじゃないかって思った。気にしないわけじゃないけれど、それでも自分が両方と付き合えばいい、そう言い出したのだから――あたしの行動には何も言わない、ただ自分と会っている時間だけを大切にすると、そういうことだったんじゃないかって。もし、あたしが自分から麻生くんとのことを話せば、きっと彼はそれを聞いてくれただろうけれど――
「先約なんて、ないよ。どこか連れてってくれるなんて、嬉しいな」
あたしは、ことさら明るい声を出してそう言う。そして――
「ね、ほら、前、ダイビングを教えてくれるって言ったでしょう。海に行きたいなあ」
あのときは、麻生くんがいるからダメだよ、そう言ったけれど。伝わったかなと思ったけれど、依織くんがちょっとだけ息を呑む気配がした。それから――
『もちろんだよ、むぎ。――そして――俺を選んでくれて、ありがとう』
――きっと、本当はもっとずっと前に、選んでいたのかも。自分があんな風に簡単に心が揺れてしまって変わってしまうことを認めるのが怖くて。だから気付かないふりをしていたのかもしれないけど――依織くんを受け入れた夜、本当はとっくに、あたしは、彼を選んでいたのかもしれない。





まさか、誕生日を沖縄で過ごすことになるとはあたしも思ってもいなかった。
「沖縄まで連れてきてくれなくっても良かったんだけど!」
南国ビーチを目の前に、あたしはちょっと口をあんぐりさせて隣に立つ人を見上げた。日差しも夏なこのビーチで、いつもと変わらず涼しげな表情の依織くんは、小首を傾げてあたしを見下ろす。
「どうして? 君にいつか見せてあげたい、と言ったじゃないか」
いや、確かにそうだけど。
「……でも、ほら、空港で何枚か写真も撮られちゃったよ?」
なんか、芸能レポーターっぽい人とかが張り込んでた。別に依織くんを張ってたわけじゃないっぽいけど、ほら、良くある芸能人の夏休み、みたいなやつ?? でも、今頃、テレビで映像流されてるのかなと思うとちょっと頭が痛い。『松川依織に恋人発覚!?』……なんてなってたら、どうしよう。
「僕は別に構わないけどね。君には少し申し訳ないかな。夏休みの二ヶ月の間で飽きられるんじゃないかとは思うけど」
確かに、夏休みだったのは良かったかも。あたしはそれでもきょろきょろとビーチであたりを見回した。もしかして、誰かついてきてたりしないかと思ったからだ。
「大丈夫だよ、このあたりはプライベートビーチだからね、さすがに僕も君と二人の時間を邪魔されるのは勘弁してもらいたいからね」
笑いながら依織くんがそう言う。あたしは、こんな明るくて楽しそうな依織くんの笑顔は久しぶりだって思った。そして――
「……依織くん、いつの間にか、『僕』に戻ってる」
そうだ、そういえばこのところずっと『俺』って言ってたのに。いつの間にか、前のように『僕』って言うようになってる。
「……そうだね、ずっと、余裕がなかったから」
本当は必死だったんだよ、と依織くんが言った。君をどうしても手に入れたくて傍に居て欲しくて必死だったんだ、と。不意に、今までずっと依織くんが言ってくれたことや伝えてくれたことを思い出した。
……君にもこの風景を見せたくて……とてもガッツのある魚でね、君を思い出したよ……君の強さや弱さ、すべてをいとおしいと思ってる……君の好みだと思って買っておいたんだ、飲んでもらえる機会があるなんて思ってなかったけど……
鼻の奥がツンとした。誰かを思うこと、求めること。誰かのためにと願うこと。あたしは、依織くんがあたしを思ってくれるほどに、真剣に麻生くんを思っていたかな。きっと、思っていなかった。あたしは、麻生くんに優しくなかった。麻生くんの気持ちを考えてなかったのは、あたしも同じだった。ケンカばかりになったのも二人ともの責任だったんだ。あたしは、今になってやっと、どうしてあの恋が終ってしまったのかわかった。麻生くん、ごめん。そう、思った。そして、依織くんにも。あたしは、やっぱり自分の寂しさを埋めてくれる依織くんの優しさに惹かれた。でも、それだけじゃ駄目なんだ。きっと、甘えるだけじゃ今度の恋だって上手くいかなくなっちゃうに違いない。依織くんがあたしを、こんなあたしを大切に思ってくれるんだから……あたしも今度のこの恋こそは大切にしたい、しなくちゃいけない。あたしも成長しなくちゃ。
「むぎ。……どうしたの?」
依織くんが心配そうにあたしの肩を抱いて顔を覗き込む。あたしはなんでもないって首を横に振った。
「……ずっと、あたしのことを思っててくれて、ありがとう」
そういうと、依織くんはちょっと驚いた顔をして、それから嬉しそうな顔になって、あたしを強く抱きしめた。
依織くんがあたしを思ってくれるほどに強く深く、あたしも思いを返していけるかな。いきたいな。
「……依織くんのこと、大切にするからね」
「…………雄雄しい子だね、君は。本当に――そういうところも愛しいよ」
可笑しそうに笑う依織くんの声が耳元でして。あたしは幸せだなって思った。




フルハウスキス
銀月館
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