インターバル1  依織編
パタパタと廊下を走る音がする。耳に馴染んだ軽やかな足音。彼女だ。その足の向かう先が俺の部屋ならいいのに。そんな風に夢想するけれど、彼女が目指す先はいつも同じ。階段を駆け下りて、地下にある麻生の部屋。遠ざかる足音を聞きながら、ほろ苦い笑みを浮かべるのがせいぜいだ。彼女の気持ちが俺に向いていないなんてこと、わかっているのに、それでも彼女を喜ばせるために何かをせずにはいられない。甘いお菓子、美味しい紅茶。疲れているなら安らぎを、悲しいというなら泣く場所を。それでも彼女が求めているのは俺ではない男の手だというのに。恋するその瞳の先に立っているのが、俺なら良かったのに。俺がどんなに君を好きか、君は知らない。俺はただ、君の傍にいたくて、「優しいお兄さん」の仮面を君の前では被り続ける。
二階を掃除しまわっていたのか、あちこちへパタパタ駆けていた足音がしばらく静まり。それからまた彼女の部屋から出てくる音がした。時計を見れば、彼女の仕事も一段落する時間。今日も、階下へ向かう足音を寂しく聞くことになるかと思っていたら、思いがけず部屋の扉をノックされて驚いた。
「依織くん、いる?」
「……ああ、いるよ、どうぞ」
平静を装って、俺は答える。扉が開いて、彼女が顔を覗かせる。ほんのり上気した頬をしているのは、ついさっきまで掃除だ洗濯だと家の中を走り回っていたからに違いない。何か言い難いように目をくるくる動かして。唇が少しとんがっているのは言いたいことがあるからだ。あどけない様子が可愛らしくて、俺はずっとそんな彼女の様子を見ていたいと思ったりもするけれど、彼女に助け舟を出す。
「……何か、お願い事かな? 僕に出来ることなら言ってごらん?」
少しもじもじと俯いた彼女は、意を決したように顔を上げて、まるで俺に挑戦するかのような決死の表情で言う。
「あのね……あの、メイク、教えて欲しいの!」
「……メイク?」
「うん……あのね、今度、麻生くんがデートにつれてってくれるっていうから……ちょっとおめかししたいなって思って」
残酷な君。俺は苦い思いを押し殺して、微笑みかける。
「むぎちゃん。君くらいの年なら、無理してメイクなんてしなくたって十分、可愛いんだよ?」
「うん……でも、せっかくだし……」
恋する少女の表情で、彼女はそう俯いて言う。君が、他の誰かのために装うのを、俺が手伝わなくてはならないなんてね。だめ? と上目遣いで彼女は俺に問いかける。彼女が望むなら、俺はなんだってしてあげたいと思ってしまうのだ、それが他の男のためのものだとしても――それで、彼女が笑顔になるというのなら。
ため息をひとつついて。
「わかったよ。それじゃあ、君のメイク道具を持っておいで」
瞬間、ぱっとまるで花が咲いたような笑顔になって、彼女はメイク道具を取りに駆け出す。背中に羽が生えているかのようだ。俺のために装う君を見てみたかったな。
俺は彼女の自然な美しさを損なわないよう、うっすらとしたナチュラルなメイクを教える。
「……なんだか、あんまり変わらないことないかなあ?」
「これくらいで十分だよ、あまり濃い目に乗せないほうが、ずっと君らしくていい」
さなぎが蝶に変わるように美しく装った君なんて、麻生のためにはもったいない。俺は心の中でそっと呟く。
君が欲しいよ、君が俺に笑いかけてくれるのなら良かったのに。
「そっか。うん、でも確かに、いい感じかも! ありがとう、依織くん!」
「どういたしまして」
ふざけた振りで、彼女の手をとりその甲に口付けた。途端に真っ赤になって俺の部屋を飛び出していく彼女。そして、俺は後悔をする。触れた手の柔らかさに、俺の中の熱が高まった気がした。




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