幸せな朝
 むぎの寝顔を眺めている間に、いつの間にか眠っていたらしい。久しぶりに訪れた深い眠りは、とても穏やかで幸せな気分のものだった。それは目が覚めてからも続いていて、俺は胸を満たす想いにただ浸っていた。
 目が覚めて一番に飛び込んでくるのが、可愛いむぎの寝顔で。無防備でまだどこかあどけない様子が残るその顔が、とても愛しい。ずっと眺めていたい。けれど、働き者な彼女は(人使いの荒いご主人様のせいともいうけれど)いつも早起きで、めったなことでは寝坊なんてしなかった。今日も、そろそろ目を覚ますかな? それとも今日は寝坊するだろうか、昨夜はかなり疲れたみたいだし。とりとめもなく考えながら、むぎの顔をずっと見ている。それだけでとても幸せな気持ちだ。けれど、かすかにその睫毛が揺れて、彼女の目覚めが近いことを教える。俺は、息を詰めて、その瞳が開く瞬間を待っている。
「………依織…くん?」
まだ半分夢の中のむぎは、俺の顔を見て、少し不思議そうな顔をした。
「……おはよう、僕のお姫さま」
そっとその頬に触れてそう言うと、目を細めて嬉しそうに微笑んだ。普段の彼女なら、この状況でこんな風に無邪気に笑うとは思えないから、きっとまだ目が覚めきっていないのだろう。けれど彼女のその幸せそうな笑顔がとても嬉しいから、俺はそのまま彼女の頬をなで続ける。
くすぐったそうだったむぎは、だんだん頭がはっきりしてきたのだろう、俺を見返す瞳に力がこもってくると同時に、俺が触れている頬に朱が差してきた。
「……目が覚めたかい?」
俺がことさら優しく囁くと、むぎは口をぱくぱくさせながらぶんぶんと頭を縦に振り、それからシーツの中に顔を埋めてしまった。
「どうして顔を見せてくれないんだい、むぎ?」
俺のその問いかけに、むぎはじたじたと顔を埋めて体を動かす。恥ずかしがっているのはわかるけれど、そんなむぎも可愛いけれど、俺はやっぱり彼女の顔をちゃんと見たいから。
「……俺のこと、嫌いになった? 昨夜のこと、怒ってるのかい?」
ちょっと悲しげな声を作ってそう言うと、むぎは途端に慌てて顔を上げた。
「いっ、依織くん、そんなことないからっ! 嫌いになんてなるはずないでしょ!?」
真っ直ぐに俺を見つめる瞳は俺がむぎの中で最も好きな部分のひとつ。俺はやっと、俺を見つめてくれたむぎを抱きしめる。
「うん、わかってる」
「いっ……! 依織くんっ!! ひどっ、からかったのねっ!」
「そんなことない、少しは不安だったよ。君が俺のこと見てくれないから。昨晩、あんまり優しくできなかったし、ね」
起きぬけの素肌は昨夜の熱も汗も嘘のようにさらりと滑らかで少し冷たい。もう一度、この肌に熱を灯したいとふと思って、けれどそんなことをしたら今度こそ本当に怒られてしまうかなと考える。腕の中のむぎは、少しの間じたばたと俺に抗議をしていたけれど、やがて諦めたのか力を抜いて俺に身体を預けてきた。
「……もう。昨晩のことは、もう言わないでっ、恥ずかしいからっ」
肩に落ちた髪の間から覗く細い項までほんのり紅く染まっていて、俺はその可愛い首筋に唇を落とした。俺の腕を掴んでいるむぎの手に力がこもる。抱きしめる俺の身体に、むぎの柔らかな胸が押し付けられている。気付いているのかい?
「……ね、むぎ…」
優しく、彼女の髪をかきあげたとき。

……ぐぅぅぅぅ〜〜〜〜

可愛らしい音が、むぎから聞こえた。思わず笑ってしまった俺に、むぎが抗議の視線を投げかける。
「だっ! だって、昨日、夕飯、食べられなかったし……!」
そうだ、むぎを学校からそのまま、ここへ拉致してきたのは俺だ。そして、そのまま彼女をこのベッドに閉じ込めた。 「……そうだね、ごめん」
そういいながら、でも俺はとても安心していた。むぎは、変わらない。俺は、天使のような彼女の羽を奪ってしまったと思ったけれど。そんなことはない、彼女はきっと、どうなったってその美しい羽を失うことなんてない。軽やかに羽ばたいて、そして、俺の腕の中に戻ってくる。
「……依織くん、おなかすいた」
息をついてむぎは俺から身体を離し、俺もそれに素直に従った。
「服、着るから向こう向いてて」
唇を尖らせて言うむぎに、少しだけ意地悪を言う。あんまり可愛いから困らせてみたくなるのだ。
「どうして。もう、君の身体の隅々まで、俺は知ってるよ」
「そっ、そういう問題じゃないのっ! だめ!」
「わかったよ、仰せのままに、お姫さま」
背中で衣擦れの音を聞く。少し残念だなんて不埒なことを考えていると
「はいっ、もう、いいよっ」
むぎは、そんな声をかけてからぱたぱたと部屋を出ていった。俺の着替えも見ていられないといったところか。むぎがいなくなったベッドルームは少しだけ温度が下がったようだった。温もりの残滓が少し切なく、けれどその切なさも含めて、幸せだなどと俺は思った。
さて、腹ペコのお姫さまを何とかしてあげなくては、と俺も服を着替える。それを伺っていたのか、むぎがひょこりと顔を出した。
「依織くん? えーと、ね。冷蔵庫、何も入ってないよ?」
どうやら、彼女は朝食を作ってくれるつもりだったらしい。残念ながら、今のところ、うちの冷蔵庫はアルコール専門だ。外食するか、むぎの家で食べるかが主だったから。そう俺が言おうとすると、むぎがちょっとばかり眉間に皺を寄せて、懸命に怖い顔をしようとしているのがわかった。
「……ね、依織くんのお仕事は身体が資本なんだから。ちゃんと食べないと駄目だよ?」
「そうだね、むぎに簡単な料理を教えてもらおうかな」
「うん! 教えてあげる! 依織くん器用だから、きっとすぐ覚えられると思うよ」
「それは楽しみだ。けど、目下の問題は朝食だね。何処かへ食べに行こうか」
モーニングの美味しいホテルのレストランをいくつか頭の中で候補にあげる。
「えっ、でもでも〜」
むぎの視線が迷うように彷徨う。
「うちまで送ってくれたら、朝ごはん、作るよ」
彼女は俺が彼女に対して金を使うことを、遠慮する。欲しいものを言って欲しいというと、大抵は金では買えないものを言い出す。こんな日の朝食くらい奢らせてくれてもいいと思うのだけれど、そういうむぎだから、好ましいと思うのも本当で。そして、俺自身、ホテルの豪華なモーニングよりも、むぎの手作りの食事の方が好きなのだ。
「俺もね。そうしたいところだけど。そうすると、君の家もばれてしまうかもしれないから」
「え。誰に。どうして」
「……昨日。たくさん、写真、撮られただろう? まだきっと、頑張って表で待ってると思うよ」
昨日、テレビなんて見てはいないけれど。とっくに、俺とむぎがこの部屋に入る映像が流されているだろう。今朝の芸能ニュースなんかでもやってるかもしれない。
そっか、とむぎは難しい顔をした。彼女をこれから守っていくのが俺の役割だ。
「でも、安心して。俺が君を守るから。学園にも送り迎えさせてもらうよ」
ところが、むぎときたら俺とは全く違うところを考えていたらしく。
「……大変だね、記者の人も。つまり、昨日の夜ずーっと寝てないってことだよねえ」
真面目な顔で何を考えているかと思ったら。
「同情することなんてないよ。何も、僕らが頼んでここに張り込んでもらってるわけじゃない。
 むしろ、そっとしておいて欲しいのに、無理やりに彼らが土足で踏み込もうとしているのだからね」
俺が随分とぞんざいな言い方をしたのに気付いたのだろう、むぎは俺を見てちょっと可笑しそうに笑った。
「そだね。確かに、依織くんのこと追い回して。嫌な人たちだなって思うよ。でもね。
 あたしと依織くんが、とっても幸せな時間を過ごしていた間も、あの人たちって外で仮眠くらいしか取れなくて  お気の毒ってね」
本当に、君は強いね。俺は彼女を抱きしめる。
「本当にね。ああ、彼らときたらお気の毒だ! でも、面白がるのはいいけど、同情する必要はないよ?」
「わかってるよ! だって、あたしもホントに追いかけられたら、殴っちゃうかも」
「君が勇ましいのはよく知ってるけど。そういうのは、俺に任せて」
本当に。むぎのことだから、何に対しても怯むことなく、きっと彼らの前だって仁王立ちで俺を守ろうとばかりに立ちはだかったりするだろうと想像ができる。
「さあ、じゃあ、そんな可哀そうな彼らに見せ付けるように、美味しい朝ごはんを食べに行こうか」
「うん!」
彼女をエスコートするように手を差し出すと、しっかりとその手を握られた。
「えへへ、手つなぎ早朝デート、なんていわれちゃうかな〜」
笑って言うむぎに、俺は本当に何度目かもわからないけれど驚かされる。彼女のいつだって前向きなパワーは本当に俺の心を軽くしてくれる。昨日、むぎのところへ行く前に、両親にはもう心に決めている人がいると話をした。彼女が俺をもう一度、生き返らせてくれたこと、俺に歌舞伎を取り戻してくれたこと、皇とやり直すきっかけをくれたこと。彼女がいなければ、俺は生きる意味さえ見失っていただろうこと。そして、彼女を、一生をかけて守りたいと思っていること。今はまだ俺はそんな力もないけれど、でも。
「ねえ、むぎ。本当に。しばらくは君の周りも騒がしいかもしれないけれど、俺が君を守るから」
「うん。大丈夫だよ。あたしも、依織くんを守るから。二人なら、乗り越えられるでしょ」
むぎは、高らかに朗らかにそう言う。いつか、俺が君を傷つけた日。あの日も同じことを言ってくれた。二人なら、と。俺を救ってくれたその言葉。
愛する心、信じる思い、踏み出す勇気、すべて、むぎが俺に与えてくれた。
玄関のドアを出るとき、むぎが俺を見上げて言った。
「でもね、依織くん、今度からはちゃんと冷蔵庫に食材を入れておいてね。
 ちゃんと、あたしが作ってあげるから」
お外で食べるのもいいけどさ。そう呟く君。俺はといえば違うことを考えている。次からは、ということは、これからは俺の家の中に君の姿が存在するようになるのだと。幸せな想像に俺はしらず微笑を浮かべた。


そして、それは想像ではなく――幸せな現実になると、俺はわかっていた。




フルハウスキス
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