バニラ
その日も家事をこなして家の中をばたばたと駆け回っていたあたしは、玄関先で依織くんに出会った。どこかに出かけるらしくて、靴を履こうとしていた。
「あれ、依織くん、今からどこか出かけるの?」
もう夕食もとっくに終わった出かけるにしては遅い時間だったから、ちょっと心配になってそう声をかけると、依織くんは顔を上げてにこりと笑った。
「やあ、むぎ。うん、ちょっとコンビニまでね。青インクのボールペンが切れてしまって。買い忘れていたんだ」
「そんなの言ってくれたら買いにいくのに」
それも家政婦としてのあたしの仕事のひとつではあるのだけれど。瀬伊くんなんか夜でも容赦なくアイス買いに行かせるしね。まあ、それも依織くんと付き合うようになる前のことではあるけど。
「こんな時間に君を外出させるなんて、できるわけないだろう?」
依織くんがこの調子だから、夜のお遣いはもうずっとお休みなのだ。まあ、助かるといえば助かるけれど、なんとなく仕事をさぼってる気にならなくもない。ので、今も玄関先で依織くんと向かい合って、なんとなくもじもじしていると、そんなあたしの様子に気づいたのか、依織くんがあたしに手を差し出した。
「それじゃあ、むぎも一緒にくるかい? まじめな家政婦さんは、こんな些細な買い物も自分で行かないといけないなんて思うみたいだから。僕としては、こんな時間に君とデート気分を味わえるなんて大歓迎だしね」
そう言われると、なんだかあたしがデートをねだったみたいな気がして、ちょっと照れくさくなる。
「デ、デートって…あたしはただ、おつかいはあたしの仕事だからと思って…」
もじもじしてそう言うと、依織くんは差し出した手をそっとのばしてあたしの手をとった。
「おや、デートしたいと思っているのは僕だけなのかな」
「そ、そうじゃないよ?あたしも依織くんとデートしたいよ?」
慌ててそう言うと、軽く手を引かれた。
「じゃあ、決まり。一緒に行こう。コートを取っておいで」
「うん!」
結局は、依織くんと二人で出かけるのが嬉しいあたしは、急いで部屋に戻ってコートを羽織ると依織くんの待っている玄関に取って返し、家を出た。
「あれ? 依織くん、駅前のコンビニに行くんじゃないの?」
駅前に行くのと違う道に依織くんが進んだから、あたしはおかしいと思ってそう尋ねた。あたしの手を握って歩く依織くんは、駅前に向かう道とは違う方向に曲がった。
「せっかく君と二人のデートなのに、少しくらい遠回りしてもいいんじゃないかい?その方が長く一緒にいられるだろう?」
それは確かに、家じゃほかのみんなもいるし、仕事も次々頼まれるからゆっくり二人で過ごすのってなかなか難しい。だから依織くんの意図がわかったあたしも、うん、と頷いてそのまま遠回りの道を選んだ。そして向かったのは緑地公園。夜の公園は人がいなくて、昼間とはぜんぜん違った表情になる。そして、なんだか急にあたしは隣の依織くんを意識してドキドキしだしたのだった。それは繋いだ手の温度が急に高くなったような気がしたり、依織くんとの距離が近くなったような気がしたりしたことと関係なくないと思う。無意識に早足になったあたしを、依織くんが引き留める。
「むぎ?」
依織くんが立ち止まって、あたしの手を引いて引き寄せた。
「あっ、あのね…」
依織くんの腕の中に閉じこめられた途端、あたしの心臓が跳ね出す。あたしは、まだまだ、こういうことに慣れなくて、どうすればいいのかわからないのだ。そんなあたしを見下ろして依織くんが小さく笑う。
「かわいいね、むぎ」
そう囁いて。あたしの頬を手で包んで、依織くんの整った顔が近づいてくる。うっかり見とれそうになったあたしは、キスされる、と思った瞬間、両手で自分の唇を押さえた。
「だめっ!!」
依織くんの唇は、あたしの指にキスをして止まった。顔を離した依織くんが、ちょっと驚いた顔であたしを見る。
「むぎ?」
依織くんの声は静かだったけれど、幾分ショックを漂わせていて。あたしは手で唇を隠したまま、話した。
「だ、だって、唇カサカサなんだもん! リップ塗って出てこようと思ったんだけど、学園に忘れてきちゃったみたいで、夜だし外だし、依織くんに気づかれないかなと思ってそのまま来ちゃったんだけど…」
ちょっと恥ずかしくて顔が赤くなる。せっかくのデートなのに、リップも塗ってこないなんてあきれられても仕方ない。でもでも、それでも依織くんと一緒にお出かけしたかったんだもの。すると、依織くんは、そっとあたしの手をとって口から外した。思わずあたしは顔を俯けるけれど、依織くんはそんなあたしの顎を持ち上げた。
それから、あたしの下唇を指で優しく一撫でする。
「…君の柔らかな唇が乾いてはいけないね。早く用事を済ませて帰ろう」
そうしてあたしの手を引いて歩き出す。その速度がさっきよりも早くなったみたいで、あたしはやっぱり依織くんにあきれられてしまったのかな、とちょっと悲しくなった。
コンビニにつくと、依織くんは目当てのコーナーへ向かう。あたしはちょっと離れたところで新しく出たお菓子なんかを見るともなく見ていた。依織くんがレジに向かったのを見て、ちょっとだけリップクリームを買おうかなと思ったけれど、学園においてきたのはついこの前買ったばかりでまだ新しいものだったので、ちょっともったいなくて新品を買う気がしなかった。とはいえ、あたしは依織くんと一緒に出てきたことを少し後悔していた。たかがリップ、されどリップなのだ。今日は我慢すれば良かった。
「むぎ、お待たせ」
そんなことをくよくよ考えていたら、レジをすませた依織くんが傍らにやってきてあたしを促した。コンビニを出た依織くんは、袋の中から出したものをコートのポケットにしまう。そしてまた、あたしと手をつないでくれた。それでもなんとなく気まずくて。あたしは依織くんに謝ろうかと思って、でも、なんて言っていいのかわからなくて、ただ依織君に手を引かれるままに歩いていたので、帰りもまた緑地公園を通ることになるなんて気づいてもいなかった。
「むぎ」
そう依織くんが言って立ち止まるまで。呼ばれてはっと顔をあげたあたしは、そこが緑地公園だったのにちょっとびっくりした。帰りはてっきりまっすぐ家へ帰るものだと思っていたから。
「あれ?」
あたしがキョロキョロと周りを見回していると、依織くんがそんなあたしの頬をそっと押さえて顔を上げさせた。
「え、あの、だから…」
キスはだめ。そう言おうとしたあたしに、依織くんが
「わかってるよ」
そう言ってあたしの唇をそっと押さえて黙らせる。じゃあ、なあに、と尋ねたくてでも、依織くんに見つめられるとあたしは何もいえなくなってしまって。
そんなあたしを見て、依織くんはコートのポケットに手を入れると、銀色をした小さな薄い缶のようなものを取り出した。そして蓋を回してあける。
なんなんだろう? あたしが不思議に思ってそれを見ている間に、依織くんのきれいな指先がその中に入っているものをすくう。
(クリーム?)
そう思った瞬間、依織くんの指があたしの唇を撫でた。甘い香りが漂う。バニラの香りだ。
「…いい匂い」
そして唇に広がるのは、やっぱりリップクリームだった。
「リップバームだよ。いい香りだろう?」
「なんで?」
さっきのコンビニで買ったんだ。やっぱり、リップクリームも塗らないような子に呆れたんだろうか。
「君の可愛い唇を守りたくて」
依織くんが優しくそう言う。
「バカな子だなって呆れたんでしょ」
「思わないよ。僕にキスさせてくれないなんて、意地悪だなって思ったけど」
「い、いじわるって…」
落ち込んでるのに、ヒドイって言おうとしたのに。依織くんはそんなあたしを抱きしめて囁く。
「さっきのは半分は嘘かな」
嘘ってなにが? 不意の言葉に言葉を飲み込むと、依織くんが更に言葉を続けた。
「本当は、俺がキスを我慢できそうもなかったから」
そして、そのまま唇が重なった。ぎゅっと依織くんのコートを握りしめる。リップ塗ってもらったばっかりで、唇が荒れてるってわからないかな、とか、やっぱりコンビニであたしがリップ買えば良かったかなとか、そんなことが頭の中でぐるぐるして。依織くんの唇が離れたときも、なんて言っていいかわからなくて。
「が、我慢って」
「だって、君ときたらリップクリームを塗るまで僕にキスもさせてくれないつもりだったんだろう? 僕がどれくらい君に触れたいと思っているか試したいとでも思った?」
「そんなこと思ってないし、意地悪したわけでもないよっ」
依織くんの方こそ意地悪じゃん。そんな気持ちになって上目遣いに彼を見上げると、依織くんはそんなあたしをみておかしそうに笑った。
「うん。ごめん。わかってるけど…君の可愛い気持ちもわかっているけど、僕の気持ちもわかってほしくてね。君のことになると僕はちょっと押さえがきかないみたいだから」
そうしてもう一度軽くキスをする。なんだか恥ずかしくて依織くんの胸に顔を埋めると、今度は髪に口づけられた。依織くんは本当にあたしをフワフワ夢見心地にさせるのが上手い。
「…あたしが買えば良かったね」
そう言うと、依織くんは「だめだよ」と言う。なんで?と言葉にはせずに視線で尋ねると。
「これはね、僕が君の唇に塗るために買ったんだからね?」
にこりと笑ってそう答える。あたしは依織くんの言う意味が今一つわからずに首を傾げる。
「僕のかわいいお姫様はちょっとばかりうっかりやさんだからね。用心のためだよ」
「…やっぱり、呆れてるんじゃない」
「違うよ。僕のわがままさ」
やっぱりわからないあたしに、もう一度依織くんは軽くキスをする。
「いつでも君にキスしたいときにキスできるように、僕のお守りだよ」
本当に、さらりとそんな風に言えるのが依織くんにかなわないところで。あたしは自分が真っ赤になってるだろうとわかってたけど、依織くんから目が離せなかった。


帰り道。依織くんが買ったリップを見せてもらう。銀色の小さな缶に入った其れは、バニラの甘い香りがするもので。その香りもすてきだったのだけれど、依織くんがお勧めするものなら、良いものなのかなと思って尋ねてみた。
「これはね、潤いが長く続くから確かにお勧めだよ。でも僕がこれを選んだのはもう一つ理由があってね」
そうして依織くんは、少し意味ありげな微笑みを浮かべた。
「僕の指で君の唇に触れて塗れるところがいいと思って」
もちろん、あたしは今回も、その言葉に黙らされるしかなかったけれど。たまにはリップを忘れるのもいいかな、なんて思ってしまったのも本当なのだった。






フルハウスキス
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