HAPPY NEW YEAR
「ごめんね、依織くん。わがまま言っちゃって」
あたしは、そう言いながら部屋の空気を入れ換えようと雨戸を開けた。久しぶりの家は以前と変わらない姿であたしたちを迎えてくれた。というか、それにはワケがあるわけで。
「構わないよ。そうしたいだろうと思っていたしね」
「うん。まさか、業者さんに掃除頼んでおいてくれるとは思ってもいなかった。皇くんには世話かけちゃったなあ」
「いいんだよ。そのつもりで彼に鍵を預かってもらっていたんだしね」
「…あたしはそんなつもりじゃなかったもん」
そう。あたしたちが一時帰国すると決めたとき。依織くんは皇くんに連絡して、この家を掃除して必要なものを用意しておくように電話したらしい。何かあるといけないからと皇くんと夏実にこの家の鍵を渡しておいたのはあたしだけど、こんな世話をかけるためじゃなかったのに。でも依織くんにはあたしの考えることはお見通しってことで。
「でも、やっぱり頼んでおいて良かっただろう? 長旅の後で家の大掃除に買い出しは大変だよ? 君は頑張りやさんだからね、やってしまおうとするだろうけれど」
確かに、その通りだとも思うので、あたしは依織くんの言葉にうなずいた。まあね、確かにヨーロッパからの長旅の後でこの家一軒の大掃除は大変だっただろうな、と思うから。
「うん。ありがと、依織くん。皇くんにもありがとうって明日、伝えておいてね。会えるといいんだけど。そしたらあたしからも伝えられるから」
「…それじゃあ、僕たちがこちらにいる間に一度ここへ顔を出すように言っておこう」
にっこり笑って依織くんがそう言ってくれるけど。一瞬の間をあたしは聞き逃さない。…うーん、兄弟仲はもう普通に戻ってると思うんだけど。言っとくけど、あたしが皇くんに会いたいというのは、友人としてということだし、依織くんの弟で今回お世話になったからというだけなんだからね。なんてことは、まあ、依織くんもわかりきっているだろうからあえては言わない。わかってても割り切れないこともある、らしいからね。あたしも依織くんのこと、ちょっとはわかるようになったんだから。で、思い出す。
「それは嬉しいけど、そういえば依織くん、年末年始は忙しいって言ってなかった? ほら、歌舞伎やってた頃の話を教えてくれたとき、得意先回りに正月歌舞伎の練習に、って言ってたでしょう。皇くんももしかして忙しい時期なんじゃない?」
そう言って依織くんを見上げると、なんだか嬉しそうな顔をされた。ほんとに、依織くんてばあたしが、ほんのちょっとした会話を覚えていたからってそんなに喜ばないでほしい。あたしだって、それくらいの記憶力はあります。
「君に会うのだって十分、挨拶周りと言えるよ。君は皇にとっても恩人なんだからね」
「また、そんなこと言って。じゃあ、夕食ごちそうするって皇くんに言ってね。一緒にご飯食べようって。……あ、できたら年が明けてからの方がいいかな」
あたしの言葉に依織くんは、ちょっと訝しげな顔を見せた。あたしはそれを気づかなかったふりでやりすごす。いや、あたしだって年明けにというのはちょっと賭かなとは思うんだけどさ。なんたって初めて作るんだし。依織くんは覚えてないかもしれないけど、約束したもん。んで、作るとなると二人だけで食べるには量が多くなっちゃうかなとか、年末に来てもらっても準備でわたわたしてるかなとか思うから。
「わかった、年があけたら顔を出すように言っておくよ。あと…そうだな、元日はダメだと言っておく。その日は君と二人で過ごしたいからね」
軽くウインクして依織くんがそう言う。う、元日はダメ、ってことは、やっぱりあの約束、覚えてるのかな。それはちょっと頑張らないと。
「あ、あたしだってその日は大切な日だから、依織くん以外の人と過ごす予定なんて入れたりしないもん」
初めてはやっぱり依織くんに味わってほしいから。そう言うとご褒美にキスが降ってきた。


依織くんが祥慶学園を卒業してから半年後。依織くんは役者を離れていた期間を取り戻すべく、演技の勉強のためにヨーロッパへ留学に渡った。あたしは依織くんに、付いてきて欲しいと言われて、迷うことなくその言葉に頷き。そして一緒に日本を離れた。それから約3ヶ月。クリスマスシーズンを迎えてあたしと依織くんは日本に一時帰国している。新年を日本で迎えて、また向こうに戻る予定。まだあっちでは言葉がおぼつかないあたしを思って、依織くんはまだたった3ヶ月しか経ってないないのに、帰国してきてくれたんじゃないかとあたしは思っている。そんな風に気を遣わせてしまってるかなと思うと、ちょっと自分が情けないけど、でも久しぶりに友達に会えるのは嬉しくて。大晦日の日は夜まで、自分も実家に顔出すから夏実や遊洛院さんと過ごしておいで、と言ってくれた。これはあたしにとっては都合がいい。二人には悪いけど、手伝ってもらおう。…大晦日に依織くんがいないっていうのが、ちょっとあたしはひっかかるんだけど。さっきのことと併せて、やっぱり依織くん、覚えているのかなあ。盛大に楽しみにされるとちょっと緊張しちゃうな。
まあ、その前にもうひとつ緊張するイベントがあるんだけど。



「むぎ? どうかした?」
今日の最後に行く場所でやることを考えて、あたしはちょっと緊張して上の空になっていた。依織くんにそう言われてあたしは、はっと顔を上げる。ちょっと心配そうに依織くんがあたしを見下ろしていた。
「つまらなかったかい?」
「ち、ちがうよ! そんなことない」
あたしは慌てて手を振った。1年前の今日と同じ街、同じ通りをあたしと依織くんは歩いていた。つまらないはずがない。忘れられないとても大切な日だし、とても楽しくて幸せな一日だったから。
街はクリスマスの装いで、道を行く人たちも華やかな装いだ。そして、やっぱり誰もが依織くんを振り返っていく。そして、あたしはやっぱり、ちょっとだけ妬きもちをやいて、ちょっとだけ誇らしい。誰が振り向いてもちっとも気にせず、ただあたしを優しく見下ろしてくれるこの人が、あたしの恋人なんだって。それは去年にはなかった感情で、あれから1年たって、あたしと依織くんの間の距離が縮まり、依織くんがあたしに色々なものをくれたから。モノじゃなくて、優しさや愛情や目に見えない色んなものを。
ラウンジでの食事を終えて、あたしたちは海辺の夜景が見える公園へやってきた。冬の空気は冷たく澄んでいて、遠い街の灯が目映く輝いて見える。
「きれい…」
あの日も同じことを言った気がすると思いながら、あたしは柵に手をかけて身を乗り出した。
「むぎ、危ないよ」
あたしの後ろからゆったりとした歩調でついてきていた依織くんがそう声をかける。あたしはその声に応えずにしばらく遠い街の灯を眺めていた。依織くんはそんなあたしの様子に何か感じたのか、少し離れたところで立ち止まったみたいだった。あたしは一つ、大きく息を吸って依織くんを振り返った。街灯に照らされた依織くんの表情はどこまでも静かで、ただじっとあたしを見つめている。何かを待っているみたいに。ううん、きっと、依織くんは、あたしが何か言おうとしていることを感じて、それを待っているんだ。あたしは依織くんに笑ってみせると、ずっと考えていたことを口にした。
「依織くん、去年、依織くんがここであたしに言ってくれたこと、あたし、覚えてる」
「…むぎ」
「一言一句間違いなくってわけにはいかないけど、でも、あの日、依織くんがくれた言葉はとても嬉しいものだったから…依織くん、あたしのこと尊敬してる、って言ってくれた」
「今も変わらないよ」
「あたしね、すごく驚いたんだよ。だって、依織くんこそ、すごい人で…」
「そんなことはないよ」
「大人で、優しくて、女の人に人気あって、学園のプリンスで、普通だったらあたしなんてデートに誘ってもらえないんだろうなって」
「むぎ…」
依織くんの眉が少し顰められる。大丈夫、あたし、別に自分が依織くんに釣りあわない、なんていいたいワケじゃないよ。
「あの頃はね、そんな風に、好きだけど、どこか憧れめいた気持ちがあったよ。でも、付き合うようになって…」
「俺は、君を傷つけて…」
「……依織くんの強さも弱さも知って…心の奥の柔らかいところまであたしに赦してくれて…」
依織くんはゆっくりあたしに向かって足を踏み出した。あたしは彼の目を見つめたまま、言葉を続ける。
「…ありがとう、依織くん。えへへ。去年はね、依織くんがあたしに想いを告げてくれたから今年はあたしが依織くんに気持ちを伝えたいなって思ってたんだけど……普段、照れくさくてなかなか言えないから…」
依織くんの手があたしの頬に伸びる。
「…依織くんのこと、大好き。あたしを守ってくれる強い依織くんも、ちょっぴりワガママな依織くんも、弱い依織くんも、全部好き。どんな依織くんでも、大好き。ヨーロッパに、一緒につれていってくれて、ありがとう。きっとね、離ればなれになったら、あたしの方が寂しくて我慢できなかったと思う」
そう言った途端、ぎゅって抱きしめられた。
「むぎ、全部、俺のほうこそ、だよ。君の強さに憧れる、尊敬してる。君の弱さを守りたい、誰にもその役を譲りたくない。留学だって、君と離れるなんて考えられなかった」
そっと腕が緩んで顔を上げると間近く依織くんの顔があって。目を見合わせて微笑みあう。
「去年の今日、きっとこの日はずっと忘れられない日になるって思ったけれど。今日も同じことを思うよ。君にこんな嬉しい言葉をもらうなんて…忘れられない日になるよ」
あたしも。そう小さく応えて、そして付け足す。来年も、その次の年も、きっと忘れられない日が増えていくんだと思う、って。それって、きっとすごく素敵で幸せなことで、そんな幸せな未来が依織くんとなら現実になるって確信できた。


ロマンチックなクリスマスが終わった途端、街は一気に衣替えしたみたいに様子が変わる。賑々しさは変わらないけれど、そこに師走らしい慌ただしさが加わる感じ。あたしもそんな気分をちょっぴり感じながら、それでも依織くんと一緒にいるときはそんな焦りを感じさせないように振る舞っていた。夏実と遊洛院さんにはメールで根回しをお願いするのは忘れなかったし、あとは依織くんが出かける大晦日が勝負だから。依織くんときたら、結構鋭いから、予習することも出来ない。
そして、その日はやってきた。依織くんは、なんだかちょっとどこか浮かれたような様子だったけれど、あたしは久しぶりに家族に会うのが嬉しいのかな、と単純に思っていた。
「じゃあ、行ってくるよ、むぎ。ごめんね、一人にしてしまって」
「いいの、夏実たちが来てくれるし」
「ああ、よろしく伝えておいて。夜には帰るから」
「うん、年越し蕎麦は任せてね!」
「ああ、楽しみにしているよ」
そうして依織くんは出かけていった。その姿を見送った途端、あたしはキッチンへ走っていく。戸棚から必要な道具を取り出して並べ、こっそり調べておいたレシピの切り抜きを手帳の間から出してきて読み直す。鈴原家のお正月に活躍していたお重は5段重ね。そう、今日はこれからこのお重につめるおせちを作るのだ。なんたって初めてのことなので、夏実たちに応援を頼んだのだ。今年のお正月は、あたしは喪中だったこともあっておせちを作らなくて。一哉くんが一流のお店のおせちを買ってくれた。それはとってもおいしかったのだけれど、その後、依織くんが言った言葉が今回のこの挑戦のきっかけ。依織くんは、「来年は君がつくったおせちが食べたいな」そう言ったのだ。依織くんは忘れているかもしれないけれど、秋からヨーロッパに渡って和食もなかなか作ってあげられないから。ちょっと頑張ってみようと思ったわけ。
準備を整えてキッチンを見回したところへ、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい!」
夏実と遊洛院さんに違いない。依織くんのためにおせちを作るのはきっと楽しい。そして、友だちと一緒に料理を作るのも楽しい。今日はきっと大変だけと楽しい一日になると思って、あたしはウキウキした気分で玄関へ向かった。


朝、出ていった時と同じように、上機嫌で依織くんは戻ってきた。あたしは詰めたお重を依織くんからは見えないように隠す。
「おかえりなさい! お父さんたち、元気だった?」
「ああ、相変わらずだよ」
上機嫌な割に、言葉がそっけないのが不思議なんだけど。そして、朝よりも持っている荷物が増えている。まあ、実家に帰ったんだから、何か手みやげを持たされたのかもしれない、ってあたしはそのときはあまり深く考えなかったんだけど。
その理由は明くる日……元日にわかったのだった。
大晦日、夜更かしをしたあたしたちだったけれど、あたしは頑張って朝早く起きた。なんたって、お正月の朝だし。おせちを並べて依織くんを驚かせたいし。
あたしは、依織くんを起こさないようにそっとベッドを抜けだして、身支度を整えるとキッチンへ向かう。テーブルの真ん中にお重を置いてから、お雑煮を作りにかかった。
「いい匂いがするね」
しばらくすると依織くんが降りてきて、そう言いながら顔を出した。そして、テーブルの上のお重に目を留める。
「おや、これは…」
「おせちだよ。作ってみたの」
あたしは依織くんを振り返って、そう言う。
「いつの間に……君ときたら、本当にすごいな」
心底驚いたようにそう言って、依織くんがお重の蓋を取った。いつもの依織くんからすると、ちょっとお行儀悪い行為だけど、それくらい驚いて喜んでくれたってことかな。
「お雑煮ももうすぐ出来るよ。待っててね」
「じゃあ、僕は食器を出そう」
そうして食卓が整い、向き合って座ってから気づく。
「そういえば…」
「そうだね」
顔を見合わせて笑ってどちらからともなく
「あけましておめでとうございます」
「今年もよろしくね」
言い交わす。
「ねえ、むぎ。皇を呼んだのは、このおせちを食べさせるため?」
そう依織くんが言うから。
「うん。だって二人で食べきれないかもしれないと思って」
そう言うと、依織くんはちょっと考え込むように口を閉じた。なんとなく不機嫌そうに眉が寄るのをあたしは見逃さない。付き合うようになって1年、ちょっとは彼のこと、わかるようになったのだ。
「依織くん?」
「……食べさせることなんてないよ、僕が全部ちゃんと食べきるから。……と、言いたいところなんだけれど」
「……そんな風に言ってくれるかなとも思ったけど。ちゃんと、一番最初は依織くんに食べてもらおうと思ったから。お裾分けするくらいいいかなと思ったんだけどな」
こういうところは、いつもの大人な依織くんとはかけ離れてちょっぴり子どもっぽくなる。でも、そんな依織くんも好きなあたしは救いようがないかもしれないけど。
「……わかったよ。少し癪だが皇にお裾分けの幸運を赦すことにしよう。まあ、留守中のことを頼んだこともあるしね」
ぎりぎり譲歩したとでも言うような表情でそう依織くんが言うのがおかしい。
「まあ、皇が来るまでに僕が食べきってしまっても、それは仕方がないということだよね? 君の料理はおいしいからつい、食べ過ぎてしまうかもしれないからね」
その言葉には、さすがにあたしもちょっぴり呆れて、依織くんを見つめてしまったけれど。そんなあたしに依織くんは軽くウインクすると
「食事のあとは、僕が君を驚かせる番だからね」
と言ったのだった。


そして、その言葉通り、あたしは驚いて狼狽えてその場に固まってしまっている。だって、あたしときたら、たぶんとんでもなく高い振り袖を着せられているからだ。裾から深紅のグラデーションの着物には花と蝶が染められていて、とても艶やかだ。帯も金糸銀糸の刺繍が施されている。どう考えても、あたしが着ていいようなものじゃないと思う。でも、そんな着物を簡単にあたしに着付けてしまった依織くんは、とても満足そうにあたしを眺めていた。
「うん、思った通り、よく似合うよ」
「い、依織くん……なんで、こんな…」
裾を踏んで転んでしまったらどうしようと思うと、あたしはつい動きがぎごちなくなってしまう。
「去年、約束しただろう? 来年のお正月は振り袖をプレゼントするよ、って」
どうやら、依織くんはこれもヨーロッパから注文しておいたらしい。そして昨日上機嫌だったのは、それが出来上がってきて、思った通り満足いくものだったから。
「…依織くん、でもあたし、こんな高いもの…」
「値段なんてどうでもいいよ、僕の自己満足なんだから。君に似合うかどうかが一番なんだから。僕その点でもとても満足だよ」
にっこり笑ってそう言う依織くんは、あたしに有無を言わせない。
「でも……」
「でも、は、もう無しだよ。君だって僕が何気なしに言った言葉を覚えていて、料理を作ってくれたんだろう?」
そう言われるとあたしも黙るしかないんだけど。
「君がね、僕と交わした些細な会話を覚えていてくれるってことが、それこそが僕にとってとても嬉しいことだよ」
それはあたしにとっても同じことで。だから、あたしはもう何も言わずにただ頷いた。


長いようで短い冬の休暇はあっと言う間に過ぎてしまって。あたしと依織くんは、また欧州へ向かう飛行機に乗り込んでいた。
「ねえ、依織くん」
空の上で、あたしは依織くんに向かって言う。
「去年のお正月、確かに振り袖買ってくれるって言ってたけど、あのときはあたし、あんまり現実感がなかった気がするんだ。だから、なんだかこう…夢物語みたいな感じで。次のお正月また依織くんと初詣に来るっていうのがね。でも、今年はね、来年また依織くんと一緒に過ごすって、すごく自然に思えるよ」
そう言うと、依織くんは少し驚いたような顔をあたしに向ける。それから、あたしがいつも見惚れてしまう微笑みを浮かべた。
「むぎ、君は本当に……俺をどこまで幸せにしてくれるんだろね。ここが飛行機の中でとても残念だよ。そういう殺し文句は、ベッドの中で囁いて欲しいな」






フルハウスキス
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