如月十四日


最近、景時が真面目だ。真面目、というか、随分遅くまで仕事をしている。何も言わないが、九郎は少しばかり心配しているのだった。弁慶に相談したところで、弁慶は『景時のことですからね、どうせ心配するだけ無駄なことですよ』と取り合ってくれないのだ。だがやはり、何かあったかと気にかかるので、ちらちらと九郎は景時を見やって、かえって自分の仕事が進まないのだった。
しかし、不思議に思うのは、望美と婚儀を挙げて以来、とにかく家に早く帰りたい一心で、少しでも書状が溜まって帰宅が遅くなりそうなものなら、ぎゃーぎゃーと煩かった景時が、このところの遅くまでの仕事にもニヤニヤと上機嫌なのだ。そこも九郎には不思議なところでついつい首を捻ってしまうところなのだ。そんな九郎の様子に気付いたのか、景時が顔を上げて九郎を見遣ると、唇を尖らせて言った。
「ちょっとちょっと、九郎〜〜。人に仕事させといて、自分はぼんやりってヒドイんじゃない〜?
 ほらほら、仕事仕事〜! 頑張らないとダメでしょ」
どの面下げてその台詞を言うのか、と九郎は言いそうになるのを抑えて、苦々しい顔で机の上の書類に視線を戻した。だいたい、今の言い草もどう考えても浮かれている。まあ、理由はわかっているのだ、景時の様子が良きにつけ悪しきにつけおかしいのは、望美が原因だ。
(……まあ、景時が仕事にやる気が出るのは良いことだしな。望美が景時のやる気を引き出すようなことを言ってくれたのかもしれん)
そう考えて、不審に思う気持ちをなんとか抑えたのだった。
そして、その日もまた日がとっぷりと暮れてしまったというのに、景時はまだ仕事をしていた。火急の仕事というわけでもない。別に明日でも構わないことだ。なのに、何故こうも熱心に仕事をするのか。いや、別にそれは構わないのだが。いや、しかし、いくら望美が景時のやる気を引き出したとはいえ、こうも毎日帰りが遅いのでは、望美は今ごろ後悔しているのではないか、とまた心配になってくる。
「景時」
九郎は咳払いをして呼びかけた。景時は気付かない。少し大きな声でもう一度、九郎は呼びかけた。「景時!」
「へ? あー、なに、九郎。何かあった?」
「何かじゃない、もう随分と遅い時間だぞ、望美が待っているんじゃないのか。
 このところ、ずっと遅いではないか。そろそろ帰ってはどうだ」
苦々しい顔でそう言うと、意外や景時は随分と緩んだ顔で笑った。
「や〜、そりゃあね〜〜。でもさあ、オレだって苦労してんのよ〜、早く帰りたいのは山々だけどさあ、
 それじゃ望美ちゃんの時間が足りなくなっちゃうじゃない。だから、オレは仕方なく仕事して時間潰してるわけじゃん」
仕方なく、という言葉に九郎のこめかみがぴくりと震える。仕事を時間潰しというその口を捻ってやりたくもなるが、そこは自分を抑えて九郎は更に尋ねた。
「……ナニが足りなくなるというのだ? お前が居ると望美の邪魔になるというのか?」
まだ婚儀を挙げて2年になるかならずかというのに、もう邪魔者扱いされているというのか、と思うと多少は哀れみを感じなくもない。が、景時の様子はとてもそんな悲哀に溢れたものでもないのが不思議だ。
「やだなあ、もう、九郎ってばさあ、忘れちゃったのー? 今って何月だと思ってるの」
「何を言う。俺を耄碌扱いするな。如月に決まっているだろう、忘れるもなにもあるか。
 お前の話は全く俺の問いとの繋がりが見えん!」
さすがに九郎の声も大きくなる。
「九郎、夜も遅いというのに随分と声が大きいですよ」
常に変わらぬ悠然とした声とともに、弁慶が戸を開けて入ってくる。
「弁慶。こんな時間になんだ」
「ご挨拶ですねえ、珍しくこのところ景時が仕事を遅くまで頑張っていると噂を聞いたので
 酒でもと差し入れに来たというのに」
「やったー、弁慶、気が利くねえ」
うきうきとした声で景時が言い、九郎は憮然とした顔で二人を見遣った。だいたい、弁慶はどうも景時が『仕方なく』『時間つぶしに』仕事をしている理由を知っているようなのも、気に入らない。
「九郎、今が如月というのがわかっているなら、昨年の如月に何があったか思い出してはどうですか」
「昨年の如月だと?」
むっとした顔で九郎は自分の記憶を辿った。
「……何か、望美さんから貰いませんでしたか」にこりと笑って弁慶が言うと、九郎は、ああ、と思い当たった。
「そういえば、望美から菓子をもらったな。手作りだと言っていたが。……景時、少しは望美の料理の腕は上がったのか」
「……ええと、九郎? 望美ちゃんから貰ったお菓子に何か不都合でもあったのかなあ?」
多少不穏な空気を織り交ぜて景時が答えるのに、九郎は咳払いをして誤魔化した。望美の料理の腕が壊滅的であるということは、戦の最中から良く知られていたことだし、望美自身も気にしていたところで、それを思えば昨年の菓子は随分と進歩したものだろう、確かに。
「いや、何もない。だが、昨年の如月に菓子をもらったことと何の関係があるというのだ」
そう言うと、景時は大げさに溜息をついてみせた。
「はあああ、九郎ってば〜。なんで望美ちゃんが如月にお菓子くれたと思ってんの。もう忘れたの〜?
 望美ちゃんの世界では、ばれんたいんという行事があって、主に女性が、仲間や友だちや家族に、お菓子を渡すんだって言ったでしょ」
「……そんなことだったかもしれんな」
「そして、もうひとつ、意味があったんでしたよね」
弁慶がにっこり笑って景時を見ながら言った。途端に景時の頬が赤くなってますます頬が緩んだ。
「そうだよ〜〜〜。恋人とか、夫とか、大切な人に愛を告白する日なんだって〜〜! だからオレは特別なものを貰ったんだよ」
おそらく、昨年もらったものとか、もらったときの望美の様子とか、その後のこととかいろいろ思い出しているのだろう緩みきった景時の後頭部を弁慶が軽く叩いた。すると少しだけ景時の顔が戻る。
「ええと、だからね、今年も望美ちゃんは頑張ってるわけ。ま、君たちに渡すだろうお菓子も頑張ってるみたいだけど
 それはオレはどうでもいいから、別にそのために家に帰るのを我慢してるわけじゃない。
 ただね、望美ちゃん、今年はオレに着物を縫ってくれてるみたいでさ、それで、それを当日まで内緒にしようとしててさ。
 あんまりオレが早く邸に帰ると、望美ちゃん、時間が足りなくなるでしょ。だから〜、オレも望美ちゃんが縫ってくれた着物を
 早く着たいしね、家に帰るのを我慢してるってわけさ」
「……景時、お前……!」
そんなくだらないこと、と言いそうになって、九郎はその言葉だけは飲み込んだ。望美に関することについては、少しでも悪く言おうものなら景時の周りの空気が真冬の平泉以上に凍てつくことは、さすがにこの2年の間に学んだのだ。
「……お前、そんなことのために邸に帰る時間を遅くしていたのか。そんなもの、邸に帰ってから望美と違う部屋に居れば良いではないか」
「そんなこと、できるわけないでしょー! 邸にいるのに望美ちゃんと別々に居るなんてさあ」
知ったことかというように九郎は頭を抱えた。
「それにさ、望美ちゃんが、オレが帰ったのに挨拶もせずに平気で部屋に閉じこもってると思う〜?」
「……まあ、望美さんのことですから、そんなことはないでしょうね。
優しい人ですから、君をねぎらうために、その手を止めて君の傍に来ることでしょう」
「でしょ〜」
「待て。そもそも景時、お前、何故望美がお前の着物を縫っていると知ったのだ? 望美がそう言ったのか?
 いや、望美は内緒にしようとしているんだな? 何故それをお前が知っている」
九郎は納得いかない様子でそう言った。すると景時はいや、それがさ〜、と嬉しげに答えた。
「……ほら、すっごく忙しくて遅くなった日があったでしょ、睦月の終わりごろ。あの日にねえ、邸に帰ったらさあ、望美ちゃんが迎えに出てくれなかったの。随分遅かったし、さすがにもう寝ちゃったのかなあ、と思って部屋の戸をそっと開けたら、灯りが燈っててさ。
 望美ちゃんが縫い物の途中で転寝しちゃってたんだよ。それが男物の着物で、オレのだーってわかったわけ。
 望美ちゃん、何も言ってなかったから、きっとオレに内緒で仕上げるつもりだって思ってさあ、慌てたよ〜〜 
 起こさないようにそっとそっとまた部屋を出てさあ、それで、オレが帰ってきたって望美ちゃんに分かるように
 うるさく足音立ててさ、朔に怒られたけど、それで望美ちゃんが慌てて着物隠してオレを迎えに部屋の外に出てきてさ。
 もう、それから気付いてないフリしたり、仕事忙しくなったフリしたり、大変なんだから、オレも〜」
何がどう大変なのかといいたいのを我慢して、九郎は肩を落とした。やはり、どうせ、こんなものだ、心配するだけ損をした。そう思いながらも、何処かほっとしたのも事実だった。そんな九郎の気持ちを見透かしたように弁慶が微笑みながら言う。
「九郎は本当に、心配性ですね。だからいつも僕が言ってるでしょう、景時のことなんて心配することないんですよ」
「えーちょっと弁慶、それはヒドイんじゃないかなあ」
「当たり前でしょう、君に何か心配しなくてはならないことがあるなんて思えないですよ、望美さんが傍についているというのに」
「……なるほど、そうだな。あの望美が景時に今更愛想をつかすはずもない、となれば何も景時のことなど心配することなどない、確かにそうだ」
九郎も半ば自棄になったようにそう言って頷いた。褒められたのかけなされたのか微妙な辺りに景時は少し複雑そうな顔をしたが、とりあえず褒められたと思うことにしたようだった。
「ま、確かにねえ、望美ちゃんさえ居てくれたらオレはなんだってやっちゃうよ」
「まあ良い。とにかく、理由はわかった。そういうことなら、俺も気にせず存分に、景時に仕事をしてもらうとしよう。
 それで、いつなのだ、そのばれんたいん、とやらは」
「如月の十四日だよ〜あと少しだね。そういうことで、もちょっと九郎も協力よろしくね」
仕方ない、というように溜息をついた九郎だったが、その後に続いた景時の言葉には最早言葉を失うのみだった。
「ねー、それでさあ、九郎。弥生にはさあ、ばれんたいんのお返しのほわいとでえ、っていうのがあるんだよ。
 それでさあ、オレ、今月いっぱい仕事頑張ったんだし、ほわいとでえのために、弥生にはお休みが欲しいかなあって。
 望美ちゃんもいっぱい頑張ってくれたんだしさあ、お返しいっぱいしたいじゃない?」
好きにしてくれ、と呟きながら、九郎はもう金輪際、景時夫婦のことに関して首を突っ込むまい、と何度目かの決意をしたのだった。



ということで、遅刻しましたがバレンタインSSです。
その割に、望美が出てこなくて源氏3人組の話になっちゃいましたが
弁慶さんが今回活躍しなかったのが残念。


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