こちらの世界に来てから、驚くことはいろいろあった。景時の知らない行事もたくさんあって、驚かされたものだ。こちらの世界に来て間もないころ、勇気を出して望美を誘ったクリスマスは忘れられない思い出だ。その後、紆余曲折あってこの世界に留まることを決め、いろいろとこの世界について知ったのだが、バレンタインにもまた驚かされた。チョコレートは甘くて美味しくて、それ以上に望美の気持ちが嬉しくてしばらくふわふわとした気が静まらなかった。将臣からは「ホワイトデー」という日のことを教えてもらい、その日にむけて今も何を望美に送ろうか悩み中だったりもする。
そんな楽しい記念日や行事が多いこちらの世界で、景時の知らなかった日がほかにもあった。それが「誕生日」だ。京に居たころに、そんな話になったことがあった。あれは、多分、譲と望美が会話の中で「今年は誕生日にケーキも食べられない」といったようなことを話していたときだと思う。誕生日とは何か、という話から、八葉の皆も何時生まれか、なんて話にもなったのだ。そのときは、誰が春生まれだとか夏生まれだとか、そんな話をしたっきりだったのだが。こちらの世界に来てから、誕生日というのはお祝いをしたり贈り物を贈ったり、大切な人に気持ちを送る日のひとつなのだと知った。とはいえ、京のあの日以来、誕生日の話を望美としたことはないのだけれど。けれど、譲は『そういえば、景時さん。もうじき誕生日でしたよね。せっかくだから生活必需品とかプレゼントしましょうか』と言っていた。彼が覚えていてくれたことに多少感動したのではあるけれど、それなら望美だって覚えていてくれてるのではないか。そんな風に思っているのである。
それで、今日は景時は携帯が手放せない。今はまだ3月4日ではあるけれども、それもあと1時間ほどで日付が変わる。大晦日、日付が変わると同時に「あけましておめでとうございます!」と電話をくれた望美だ。「一番に景時さんにそう言いたかったの」などと嬉しいことを言ってくれた。『望美らしいな。誕生日だってきっとその調子で夜中に電話してくるに違いないぜ』その話を聞いた将臣はそう言っていて、景時もそうだな、と思ったのだった。そんなわけで、携帯を今日は手放せない。
そわそわと時計と見比べながら携帯をポケットから取り出したり、机の上にちょいと置き去りにしてみたり。しばらく気づかないふりをして別の部屋に行って戻ってきては着信を確かめたり。その割に、今日は景時の携帯はうんともすんとも言わなかった。いつものように景時も望美にメールを送ったりしても良いのだが、それもわざとらしい気がして、なんとなく躊躇う。第一、今の自分はかなり舞い上がっていて、誕生日について自分から何か言ってしまいそうだ。さすがにそんなみっともないことは避けたい。そんなわけで、携帯を見つめたままじっと待っていたのだが、相変わらず、携帯には何の着信もなかった。
首を傾げつつ、景時は時計を見上げる。普通ならば何もない日であってもこれくらいの時間に望美からメールがくるのだ。『おやすみなさい』という言葉とともに。なのに、今日はそのメールすらない。いや、それはやっぱり日付が変わると同時に電話をかけるつもりだからではないか。そう思い直してしばらく待つことにする。ちらちらと時計を気にしつつテレビをつけて日付が変わるのを待った。変にどきどきしているのが我ながら情けない。正月のときは、まったく予想もしていなかったので驚きと喜びでいっぱいだったのだが、今回は予想しているので待ちきれない気分だ。
時計の針が12時をさすのを秒読みのように数えていた景時だったが、時計がその時刻を過ぎても携帯は何の変化もなかった。時計が進んでいるのだろうかと思ってしばらく待つが、明らかに日付が変わったにも関わらず、何もない。いつものメールすら、ない。
(……あれ?)
そうなると、今度は急に不安になってくる。望美に何かあったのだろうか? あわてて望美の携帯に電話をかけてみるが、電源が入っていないという機械的なメッセージが流れてくるばかりだ。
(……もう寝たのかな)
何かあったというのなら、景時にだって連絡がくるはずだ。それがないということは何もなかったということだろう。だが、いつもあるはずの望美からの連絡はない。
(疲れて眠っちゃったのかな)
それにしたって望美なら眠る前に何か景時に言ってきてくれそうなものだ。心配なのと同時に、どこか寂しい気持ちになっているのは、勝手なことに自分がかなり期待していたからだろう。それでも未練を捨てきれず、携帯を握り締めたまま景時はその夜を過ごしたのだった。
(……眠い……)
結局、夜の間中、気になってあまり眠れなかった。はっと気づいて朝一番に携帯のメッセージを確認したが何も入っていなかった。誕生日の朝というのに、思っていたのとは違う、爽やかさとは縁遠い目覚めになってしまった景時だった。考えてみれば景時が勝手に、日付が変わると同時に電話が来る! と思い込んでいただけで、そんな決まりがあったわけでもない。それなのに一喜一憂、自分で自分に振り回されて寝不足とはまったく情けない限りだ。
(……ほんとオレってダメだよなあ)
そう思いつつ、さて、朝から望美にメールを送ったものかどうかと携帯を眺めて、また悩む。昨日はどうしたの? なんてことを送ってはまるでメールするのが決まりのようではないか。おはよう、と送ってみようか。朝のあわただしい時間に迷惑かもしれない。結局、そんな風に悩んでいる間に、家を出る時間が近づいてくる。溜息をひとつついて、景時は家を出る準備をすることにした。そこへ、玄関のチャイムが鳴る。
「はーい、はいっと…」
朝早くからいったいなんだろうと、景時はネクタイを結びながら玄関の扉を開けて、そして、声を失った。
「の、望美ちゃん……?」
そこには、望美が立っていた。学校の制服を着ており、どう見てもこれから登校するのに間違いない。それに今日は平日だ。しかし、望美の学校は景時の住む町とは降りる駅が違う。やっぱり、昨日、何かあったのだろうかと景時は望美に手を差し延べようとした。
「景時さん、お誕生日おめでとうございます!」
しかし、それは望美のこの言葉と差し出されたものによって中断された。
「え…?」
手提げの保温バッグに入れられた少し重いもの。受け取って中を見てみると、お弁当だった。相変わらず、驚いた顔の景時に向かって、望美はいたずらっぽい表情になって言う。
「やだなあ、景時さん、自分の誕生日忘れてたんですか? 今日は3月5日、景時さんのお誕生日でしょ?
ちゃんとしたプレゼントもありますけど、とにかく朝一番にこれを届けなくちゃって思って。
お誕生日スペシャル第1弾です」
「あ……の、ありがとう……」
じわじわと嬉しさが実感となって広がっていく。ああ、こういう経験を望美と出会ってから何度させてもらっただろう、と景時は考えた。チェックのナフキンに包まれた大きめな弁当箱はどう考えても景時のためのもので。
「あの、お弁当箱とか、も、買ってくれたの?」
「えーと、はい。だって、これから何度か機会があったらチャレンジしよっかな、って思って」
照れた顔でそう言う望美に景時は顔を綻ばせた。
「景時さん、いつもお昼は外食だって言ってたから、ちょっと頑張ってみました」
景時の表情につられるように望美も嬉しそうな顔になる。その目がいつもより赤いのに景時は気づいた。
「……望美ちゃん、もしかして、眠ってないの?」
考えてみれば、料理は望美が苦手とする最たるものだ。これだけのお弁当を創るとなるといったいどれほどの時間を費やしたのか。今日の本番までに至る練習を想像すれば更にどれほど時間がかかったかと思ってしまう。望美はしかし、景時の言葉に、しまった、というような表情になって慌てて顔を横に向けた。
「あのっ、ちょっと早起きしたくらいですっ。だってまだ要領悪くって時間がかかるし、失敗するかもしれなかったから。
あっ、でも、大丈夫ですよ? 昨日は随分早くに仮眠を取って、それで早く起きたんですからっ」
ああ、それで、と景時は納得した。昨日はこのために早く眠りについたから日付が変わって一番のコールもなかったし、あまりに早くにお休みなさいメールを送れば、景時が何か気づくかもと思ってサプライズのためにメールを送ってこなかったのだろう。
「……何時に起きたの?」
「………ええと……あの、はい、3時……」
「3時! そんなに早くから起きて頑張ってくれたの? もう、望美ちゃん……オレ、もったいなくってこのお弁当食べられるかなあ」
ほとんど本気で景時はそう嘆息し、望美はそんな景時に向かって「もうっ! 食べない方がもったいないですっ」と唇を尖らせた。
「うん、そうだね、そうだなあ、むしろ、お昼まで中を見るのを我慢できるかって感じかも」
景時は嬉しそうにそう言って笑った。それからはたと気づく。
「っと、いけない、望美ちゃんもそろそろ行かないとだよね? 待って、すぐにオレも準備するから、駅まで一緒に行こう」
「はい」
嬉しそうに望美がそう言う。朝から望美に会えて、手料理を貰えて、さらに駅までの距離とはいえ、一緒に歩いて、同じ時間を過ごせるなんて、なんて贅沢だろう。さっきまで誕生日なのになんて朝だ、と思っていたのを忘れたかのように、景時の気持ちは浮き立っていた。
「望美ちゃん、ありがとね」
駅までの道を一緒に歩きながら、景時はそう言った。大切そうにお弁当を抱えている景時を、少し恥ずかしそうに望美は見上げて、それから首を横に振った。
「ほんとに美味しくできてるか、自信ないんですから、あんまりそんな言わないでください」
「うん、でも、ほんとにすごく嬉しかったから」
そして、これだけではなくて毎日、どれほどの思いを望美から受け取っているかを実感したから。毎日のメールも、特別な日の電話も、決まりごとでもなく当たり前のことでもなく、望美が景時を大切に思ってくれているということの表れで、それを受け取れるということはとてもとても幸せで感謝することなのだ。そして、自分はいったい彼女にどんな風に思いを表し、伝えていることか。
そうして景時は望美の手に自分の手を滑り込ませてそっと手をつないだ。
「……次は、もっと、上手に作りますからね」
景時の思いに応えるように望美もその手を握り返しながらそう言ってくれたのだった。
さて、景時は普通に聞き逃していたのだが、望美は「お誕生日スペシャル第1弾」と言ったのであった。第1弾ということは、第2弾もあるわけで、その日の夜、お弁当パワーで残業もらくらくこなして家に帰った景時を迎えたのは、出来上がった夕食(多少焦げあり)とラッピングされたネクタイのプレゼントだった。そして「お誕生日スペシャル第3弾」もあったのだが、それは二人の間の秘密の話となる。
「景時さーん。お弁当箱、普通に洗うだけで返してくれたらよいんですよう」
「んー、だってさあ、中身詰まっていたものを空っぽのまま返すって寂しいじゃない」
「だからって、お弁当箱いっぱいにプリン作らなくっても」
「んー、だって望美ちゃん、プリン好きでしょ」
「好きですけど……もう。食べきれないから、景時さんも一緒に食べましょう!」
「御意〜ってね。……あれ、それじゃやっぱりお弁当空っぽにして返すってことかな」
「だから、空っぽで返してくれていいんです!」