やくそく


 景時と共に時間を分け合いたくて、京に残ってはや半年。祝言を終えてからでも三月。京邸での暮らしにも、望美はすっかり慣れていた。鎌倉からやってきた景時の母は、家刀自として家を取り仕切っており、望美は新妻として家のことをあれこれ教えてもらう日々を送っている。西国統治を任されて、九郎を始め、弁慶や景時も忙しい日々を過ごしており、また、相変わらず弁慶や九郎は京邸へ食事を取りに来るので退屈もせず賑やかな毎日だった。京邸の和やかで人が集まる雰囲気は、主である景時の人柄そのものだろうと望美は思う。穏やかな日々の中、休みの日に一緒に洗濯をしたり、六波羅からの仕事帰りに市でお土産を買ってきてくれたり、ささやかな、そして何より大切な幸せが彼といるといつも感じられた。
 景時はいつも望美に優しくて、それは出会った頃からそうだった。弁慶や九郎に仕事の愚痴を漏らすことはあっても、それは軽い調子のもので本気で言っているとは誰も思っていない。頼み事についても「オレで大丈夫かな〜」と不安な顔はたまに見せても基本的には「大丈夫、任せて〜」と嫌な顔ひとつせずに引き受けてくれる。困った顔はしても嫌な顔は見せない、そういう気配りを自然にこなすのが景時だった。なので、望美も夫婦になって以来、(それ以前もだが)景時とケンカをしたことなど一度としてない。(望美が一方的に怒って景時が謝り倒すということはあったとしても)――だから、望美は油断していたのだと思う。



「どうしてですか! だって、私だって無関係とは言えないんじゃないですか?」
「だから、望美ちゃん、危ないし、馬で行くことになるし」
望美の声が部屋に響く。景時はなんとか望美を説得しようと試みているのだが、望美は納得しそうもなかった。平家の残党が夜盗となって村を襲っているらしい、と報せがあって景時は兵をつれて西国へ行くことになったのだ。さすがに九郎が京を離れるわけにはいかず、かといって軽く扱ってしまうわけにもいかず、景時が視察も兼ねて様子を見に行くこととなったのだである。道程を考えて往復少なくとも一月はかかろうという具合だった。これまで確かに忙しい日々を送っていた景時だが、京を離れたことはなく、たとえ一月であれ望美と長く離れるのは初めてのことだった。申し訳ないと想いながらも、そのことを望美に告げたとき、望美からかえってきたのは「私も一緒に行ってはいけませんか?」というものだったのだ。かくして、先ほどのような会話がずっと繰り返されているわけで。
 望美としては、もちろん、一月以上もの間、景時と離れて暮らすことへの寂しさや不安もあるのだが、何よりも今回の旅が悠長なものではないことを察しての言葉だった。かつて神子として戦の中にあった身である、今も偶に鞍馬へ剣技の練習に赴いたりもしているし、少なくとも足手まといになるつもりはない。平和な世であるからこそ、それを保つべく書類の山と評定とにまみれて勤めを果たしている景時を支えようと家を護っているわけであって、剣をもって戦うことが必要であれば、自分も共にありたいと常に思っているのだ。
 一方の景時といえば、もちろん、望美の気持ちはわからないではない。景時自身だって望美と長く離れていたいわけではない。むしろ、なんだってこんな時期にそんな騒動を起こしてくれるかなあ、と文句たらたらなのではあるが、だからといって望美を連れて行こうなどとはさらさら思わない。一つにはこれは公務であり、望美はもはや源氏軍の人間ではないこと、また、景時の妻となった望美を伴うことは公私混同と取られかねないこと、馬が苦手な望美には今回の馬での旅程は厳しいであろうこと……など、望美の申し出を受けかねる理由は枚挙に暇がないからだ。もちろん、そうした公の理由としてとは別に、私的な理由もある。自分の妻となった望美に危ないことはさせたくないとか、八葉の仲間たちはともかく、できれば他の男の目にあまり多く触れさせたくないとか、一緒に旅をしたところでどうせ部下が一緒なら寝所を共にしたところで我慢を強いられるばかりになるからそれはそれで切ないとか。
 そんなわけで、望美にむかって景時がごめんね、と謝りながらも今回の仕事ばかりは我慢して欲しいとお願いをしているのだった。望美は、いつも優しく何でも言うことを聞いてくれる景時が、相変わらず優しく、それでも頑なに駄目だというのに多少意地になってしまっていた。もちろん、自分の言うことが我が儘だという自覚はある。景時の立場も仕事も良くわかる。ただ、一月あまりも離ればなれになってしまうことに、拗ねてしまっただけなのだ。なので、自分の申し出を引っ込めるつもりで、けれどただ引っ込めるだけでは気が収まらず、少し意地悪を言っただけのことだった。それは本当に軽い気持ちのもので。
「わかりました。じゃあ、景時さん一人で行ってきてください。
 その間に私、元の世界に戻っちゃうかもしれませんけど」
望美のつもりでは、そんな風に言えば景時は即座に『そんなの駄目!』と言ってくれるだろうと思っていたのだ。そんなの駄目、絶対待っててくれなくちゃだめだよ、そう言ってくれる筈だったのだ。ところが、その望美の言葉を聞いた途端、景時の顔色が変わった。彼の顔から表情が消えて、望美は瞬間的に自分の血の気が引くのを感じた。自分は間違った、と即座にわかったものの、言葉が出てこない。心臓がどくどくと早鐘を打っていて、どうしよう……! と内心おろおろしているというのに、声も出せなくて、また、景時の顔を見るのも怖くて俯いてしまった。それまでとは打って変わった沈黙が二人の間には降りて、やがて小さい溜息が景時の口から漏れた。
「……わかったよ、望美ちゃん」
何がわかったのか景時は言わず、そう言って立ち上がった。慌てて望美は顔をあげて景時を見上げたが、その時にはもう景時は望美に背を向けていて、部屋を出ていこうとしていた。
「……っ!」
声をかけようと思って怖くてかけられず、望美は景時をそのまま見送ってしまった。
(……どうしようっ……!!)
きっと怒っていた。望美はおろおろして何も考えられず、その場で踞ってしまった。言わなければ良かった、ちゃんと大人しく言うことをきいて、早く帰ってきてね、とだけ言えば良かった、と後悔したところで今更遅い。あんな景時を初めて見た。いつだって優しくて、困った顔はしても嫌な顔はしない人だった。それに甘えて間違ってしまったのだ……。嫌われてしまったらどうしよう、本当に帰れと言われたらどうしよう、望美の思考はぐるぐると悪い方へ向かうばかりで、膝の上で握りしめた手に、ぽたりと雫が落ちた。
「望美……? 先ほど何か言い合いでもしていた?」
声が漏れていたのだろう、静かになったのを見計らって朔がやってきた。中からの応えがないのに、そっと戸を心配げにあける。そして、座り込んでぽろぽろと泣いている望美を見つけると、慌てて中へ入ってきた。
「望美……どうしたの」
滅多なことで泣いたことのない望美が声も出さずに涙を零す様に、朔は駆け寄って肩を抱く。
「兄上ね! 望美を泣かせるなんて……!」
今にも立ち上がって景時を怒鳴りつけに行きそうな勢いの朔を望美は強く引き留めてしゃくりあげながらとぎれとぎれの言葉で言った。
「ちっ……ちがっ……違うっ……の……わ、私がっ……私が悪いの〜〜」
そんな様子の望美に朔は景時の所へ向かうのを止め、望美の傍らに腰を降ろすと、その肩に手をやって静かに落ち着くのを待った。そして、なんとか事の経緯を聞き出したのだった。


朔に話を聞いてもらううちに少し落ち着いたのか、望美の涙も止まった。泣きすぎたせいで鼻の頭まで赤くなってしまった望美の手を朔は優しく取ると語りかける。
「慰めにはならないかもしれないけれど、あの兄上を怒らせるなんて望美くらいのものよ」
「……本当に慰めになってない……」
鼻をすすって望美が言うのに、朔は小さく笑って言った。
「でもね、いつだって自分の気持ちを誤魔化すのが兄上で……本当を見せるのは望美だけなのよ。
 それはきっと『怒る』ことでも同じなんじゃないかしら。
 今頃、兄上も困っているかもしれないわね。怒ることに慣れていないから」
 そうは言われても、やはり望美にしてみれば気休めにはならない。謝らないといけないとはわかっているのだが、あんな景時を見たのが初めてで、なんだか怖いのだ。思わず朔の着物の袖を掴んですがるように朔を見上げるが、さすがに困ったように首を横に振られてしまった。
「大丈夫よ、兄上だってちゃんとわかっているわ。
 望美が謝っても許してくれないような大人気ない態度だったら、そのときは私が兄上を叱ってあげるわ」
 そう言われてやっと望美の顔に少しだけ笑顔が戻った。ぎゅっと手を握り締めて、景時に謝りに行こうと決心を固めた。思い切って立ち上がった望美だが、景時の居場所も、どうやって話を切り出せばいいかもわからない。立ち上がったものの、すぐにも挫けそうで傍らに座ったままの朔が心配げにそんな望美を見上げた。
「望美さん」
そこへ盆に白湯の入った湯呑と甘菓子を載せて、景時と朔の母がやってきた。
「景時が南の庭の縁で考え事をしているようなの。これを持っていってやってくれるかしら」
きっと、何もかもわかっての気遣いだと思って望美は赤面した。
「あの子は、なんでも自分の内に溜めてしまうから、あなたがそれを引き出してくれるのは嬉しいのよ。
 好きだからわかって欲しくて、わかってくれないと八つ当たりしたくて怒るのよね。
 だから、怒るっていうのは景時があなたに甘えているところもあると思うの。
 許してやってね」
 望美は頭を勢いよく横に振る。義母にこんな優しい言葉をかけてもらって、自分の方が景時に甘えていたというのに申し訳ないことこの上ない。朔も、義母も本当の姉妹であり、母であるかのように望美に気を遣ってくれていて、いつでも望美の味方をしてくれる。それがありがたくて嬉しい。そして、それをちゃんとわかっていて、自分が悪者にいつもなってくれる景時のことにも思いを馳せた。優しい人たちに自分は守られて、大切にしてもらっていて。自分も景時を大切にしたいと思っていたのに。
 望美は義母から盆を受け取ると、最後にもう一度だけ、すん、と鼻をすすって、それから二人に向かってにっこりと笑ってみせると景時の元へ向かった。
 残された母娘は、お互い顔を見合わせて、手のかかる二人について仕方がないわね、と微笑みを交わした。



 景時は庭に面した縁で柱を背にぼんやりと空を眺めていた。気を紛らわせるためにか、何か書付をしていたらしく、傍らには文箱と筆が置いてあり、紙が散らばっていた。望美は、少し手前で足を止めてどう声をかけようか逡巡した。声をかけて返事をしてもらえなかったらどうしよう、とか、怒られたらどうしようとか。嫌な考えばかりがぐるぐると頭をよぎる。
それでも、なんとか勇気を振り絞って望美は声を出した。
「……かげ、ときさん」
自分の声かと思うくらい、弱弱しくて細い声だった。聞こえないかと思ったけれど、ぴくり、と景時の肩が震えたので彼には自分の声が届いたのだと望美にはわかった。けれど、景時からの返事がなかったので望美の勇気が挫けそうになる。それでも盆を持っているのでそのまま引き返すこともできずに、望美はその場に立ち尽くしてしまった。戦で怨霊と戦うよりずっとずっと勇気がいると思うと、おかしな気もしたけれど、本当にまだ戦場に向かうほうがずっとマシだと思うような重い気持ちだった。
「……望美ちゃん」
空を見上げたままだった景時がそう言って、望美ははっと顔を上げた。彼の口から名前を呼ばれたのに勇気を貰ってそのまま近づく。それでも、返事をした方がいいか、それとも景時から何か話があるのかわからずに何も言えずにいた。そして、隣に座っていいのかどうかもわからず相変わらず立ったままだ。ゆっくりと景時の顔が動いて、望美の顔を見上げ、目があった。さっきと同じ、表情の薄い、厳しい顔。望美はそれでも懸命に視線をそらすまいと景時の顔を見つめた。
「……オレを試したの? それとも、本当に帰りたい?」
ぶんぶんと望美は首を横に振った。
「君がどんなに望んでも、オレには出来ないこともあって。
 それが叶えられないなら、元の世界に帰るって言われたら、オレは止めることはできないよ。
 君がその気なら、オレが止めたって無駄なことだしね」
ぶんぶん、と望美は尚更強く首を横に降った。ぺたん、と景時の隣に座り込み、盆を置いてぎゅっと膝の上で手を握り締める。声を出そうと思うのに声が出なかった。景時は傷ついているのだ。自分がずるいことを言ったから。彼がどんなに自分を好きでいてくれるか良くわかっていたのに。困らせてみたいからといって、言っていいことといけないことがあったのに。優しすぎるこの人は、望美が元の世界へ戻りたいと本気で言えば、自分の気持ちを殺して帰っていいと言うだろう。そういう人だと良くわかっていたのに。
「でも、君がいない世界で生きて行くのはとても辛いな、って思ってさ」
ぶんぶん、と望美は何度も何度も首を横に振って、そしてたまらずに景時の首にだきついた。ごめんなさい、と口にするより先に嗚咽が洩れる。
「君が本当に帰りたいなら、オレは引き止められない。
 でも、君のいない世界で生きていくのは辛すぎるから、君が帰るというなら――
 オレは君を追いかけるよ。どれだけ時間がかかるかわからないけど、君を追いかける方法を考えるよ」
「そんなこと……考えなくてもいいからっ――!!」
ぎゅっと強く景時に縋りついて、望美はやっとそう言った。
「ごめんなさい……帰りたいなんて嘘。景時さんを困らせたかったの。ごめんなさい――」
うん、と小さく息を吐いて景時が頷いて、そっと望美の背中に腕を回した。変わらない優しい温もりに、望美はやっと安心して、ほっとして、ぽろぽろと涙が零れる。
 景時のいない世界に戻りたいとは思わない。その世界は望美にとっても、生きていくのには辛すぎる世界だ。だから――そう告げると、景時はやはり、うん、と小さく頷いた。そして涙に濡れた望美の頬をそっと親指で拭う。
「……オレを困らせてもいいよ。でも、そのために元の世界に帰る、なんてことは言わないで。
 どんな我侭を言ってくれてもいい。でも、本気じゃないのに元の世界に帰りたい、とだけは言わないで。
 お願いだ」
 望美は何度も頷いた。そして、何度もごめんなさい、と繰り返す。また、赤くなってしまったその鼻先に、景時が口付けた。その表情は、いつもと同じ、柔らかな顔だった。
「……一月は長いよね。オレもそんなに長く望美ちゃんと離れていたくないよ。
 すごく頑張って、ちょっとでも早く帰ってくるから。文も書くよ。式神だって飛ばすよ。
 だから、オレが帰ってくるの、待ってて」
うん、と望美は頷いた。そしてもう一度ぎゅうっと景時にしがみつく。
「待ってます。だから、ひと月離れても寂しくないくらい、景時さんのこと、覚えさせてください」
 かあっと望美の頬に朱が昇る。言葉の意味をちゃんと理解した景時は、強く望美の細い身体を抱き返すと、涙の跡を唇でなぞり、それから深く口付けた。
 やがて望美を抱き上げた景時が御簾の内へと姿を消し、縁には冷めた白湯と甘菓子の載った盆が残された。思い出した望美に促され、景時がそれを取りに戻り、夕餉を取り損ねた二人がその菓子を分け合って食べることとなったのは、夜も更けてからのことだった。




141414のキリバンで申告がなかったので、141415のニアピンで
おもちゃ箱」のきいこさんへお送りしました。
リクは、望美に本気で怒る景時さん、だったのですが難しかったです。
だって景時さんが望美を本気で怒るって、なんだか想像できないというか。
そこで、京へ残った望美が言ってはいけないこと、を考えてみました。
景時に甘えてつい、するっと言っちゃいそうではありますが
元の世界へ帰る、というのはルール違反かなーと思うのです。
景時にはどうしようもない、ジョーカーですから。
そんなわけで、こんな話になりました。
きいこさん、もらってくださってありがとうございます〜!



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