部屋の戸を開けると、褥の横で望美が座して待っていた。白い単の夜着を纏っただけの望美は、まだ湯浴みの後の火照りが収まらないのか、ほんのりと桜色に染まった頬をして景時を見上げた。思わず、どきりと景時の鼓動が跳ね上がる。
龍神の神子として現れた望美と心通わせ、本来であれば異なる世界に戻るはずの彼女をこの世界へ引き止めた。残ってくれと口にするのに景時はなけなしの勇気をふりしぼったが、それよりもきっと、生まれ育った世界を捨てて、こちらへ残ると決めた望美の方がずっと勇気がいったであろうと思うと愛しさがこみあげる。
「望美……ちゃん」
褥を挟んで向かい合って座し、そっと名前を呼ぶと、望美は恥ずかしげに一瞬目を伏せ、それから顔を上げた。初めて床を同じくするのだから、望美が緊張しているのも仕方がない。頬が紅潮しているのも恥ずかしさの為せるものなのだろう。そっと手を伸ばして、望美の手を取る。そのまま、くっと力を込めて引き寄せると、そのまま抵抗せずに景時にしなだれかかるように景時の胸の中に倒れこんでくる。ふわり、と鼻腔を甘い香りがくすぐった。大きくその香りを吸い込むと、きゅっと胸が締め付けられるような気がした。そのままそのほっそりとした背を強く抱きしめると、望美の手も景時の背に廻された。
暖かい。柔らかい。いとおしい。
――いとおしい。
そして、景時は不意に泣きたい気持ちになった。
こんなにもいとおしい人を抱く術を自分は知らない。
女を抱くのは初めてではない。けれど、こんなにもいとおしい、自分の全てを投げ打っても良いと思うほどに愛しい女性を抱くのは初めてで、そして、そんな人を抱く術を自分は知らない。
何人もの人を殺した。自分を信じてくれていた仲間も、抗えない命令の下に手にかけた。命が失われていく瞬間が恐ろしかった。それを行ったのが自分だということも。さっきまで光を宿していた瞳が虚ろになり、人であったものが、ただの肉塊となってしまう。それが恐ろしかった。怖くて怖くて、温もりが欲しかった。生きている命を感じたくて、誰でもいいからたった一夜の温もりを求めた。貪るように温もりを求めながら、汚い自分の姿を見たくなくて相手に目を開けさせなかった。一度だってその行為に愛しさを感じたことなどなかった。ただただ自分のためだけの行為だった。
こんなにも愛しい人を抱く術を自分は知らない。そのことが景時には哀しく情けなかった。腕の中のこの人を傷つけるような自分本位の抱き方しか知らない。やはり、自分などが触れることは間違っているのではないかという思いが胸の中に広がる。
「……大丈夫、だよ」
景時の胸に顔を埋めていた望美が小さく、そう呟いた。まるで自分の心を読まれたかのようなその言葉に景時は驚いて望美を抱きしめる腕に力を込める。望美は景時の胸に頬を擦り付けるように顔を埋めるともう一度囁いた。
「大丈夫だよ、景時さん」
私は、大丈夫。
望美は景時の鼓動を聞いているのだろう。そして心の声を聞いているのかもしれない。
「あなたが思うように、抱いて」
甘い眩暈がした。腕の中の望美が小さく震えているのを感じた。もしかしたら、自分も震えていたかもしれない、怖くて。望美を傷つけるかもしれないことが、怖くて。ゆっくりとその身体を横たえながら、触れることにさえ戸惑った。
思うままに、触れて、抱いて。そう言う彼女の言葉に、景時は自分に問うてみる。愛しい人を抱く術を知らない自分に、彼女にどのように触れたいのかと問うてみる。
――優しく。
――傷つけないように。
――確かめるように。
――彼女が歓びを感じるように。
――彼女が、オレを感じるように。
愛しい人に、この今にも溢れそうな愛しいという思いが伝わるように。触れる唇も指先も、ほんの少しも疎かにならないように。
いつだって、ひと時恐怖から逃れる術のようにしか、誰かと触れ合わなかった。
いつも、後に残るのは自己嫌悪と深い後悔だけだった。
肌を合わせ、誰かと繋がるということは、こんなにも癒され幸せな気持ちになれるものなのだと初めて知った気がした。
「大丈夫だよ、景時さん」
赦しを与えるように、そう望美が囁く。景時の頬にそっと手を伸ばして。景時はその手を取り、手のひらに口付けた。身体を重ね合わせ、間近く顔を寄せその顔を覗き込む。ほんのりと汗ばんだ額に髪がかかっていて、眦に涙の残る目をしながら、それでも望美は真っ直ぐに景時を見上げた。薄く染まった頬と、微笑みを讃えた唇は声なくただその動きで景時の名を紡いだ。
潤んだその瞳の中に自分の姿を見つけて、景時は切なく微笑んだ。
いつだって、誰かの瞳に映る自分を見るのは嫌だった。薄汚い、嘘つきの、情けない、卑怯者の自分がそこにはいたからだ。
なのに、望美の瞳には自分が映っていればいいと想う。彼女の瞳に映る自分は、少しはマシな人間でありたいと思い、それを確かめたいと想う。――彼女の瞳に映る自分なら、好きになれそうな気がする。
「望美ちゃん、オレを見ていて。目を閉じないで」
囁いて口付けて。その間もずっとその瞳を見つめていた。はにかんだように薄く目を伏せて、それでも望美は言われるままに景時を見つめていた。唇を離せば離れていくその顔を追うように伏せられた目が開いて、濡れた唇が強請るように言葉を紡ぐ。請われるままに再び唇を重ねて。
こんなにも愛する人を抱く術を知らなかった。それさえも望美が教えてくれた。どんなに人の温もりを求めても、ほんのひと時苦しみから目を逸らすことはできても、澱みはけしてなくならなかった。むしろ深まるばかりだった。けれど、今は違う。腕の中の温もりは、自分を確かに抱き返してくれる柔らかな温もりは、切なくなるほどの幸せと癒しを自分に与えてくれる。強くなること、後悔しないことを選ばせてくれる。
「……景時さん……」
疲れを少し滲ませた顔で眠る望美が、景時の温もりを求めるように擦り寄りながら小さくその名を呟いた。そっとその肩を抱いて髪に口付ける。
「……愛しているよ、望美ちゃん」
初めて口にしたその言葉が、彼女の夢の中に届くように祈りながら、景時もまた、瞳を閉じた。