梅花-1-




(九郎には悪いけど、おかげでちょっとのんびりできるよなあ)
濡れ縁に腰掛けて目を閉じ、顔を上げて景時は大きく息を吸った。このところ雨が少ないとはいうものの、日差しは温く心地よい。雨乞いの儀に出なくてはならないという九郎を待つために、今のところ軍を動かす予定もない。さらに堅苦しくも気を遣う雨乞いの儀に、景時は出席しなくても良い。九郎や望美の剣の師である人物を探しに行くのも、一時お預けだ。鞍馬山まで出かけて結界もといてみたものの、結局会えずじまいだった。望美が言うには、神泉苑にいるかもというのだが、あいにく、そこでは今、雨乞いの儀が行われて人でごった返している。人嫌いだというその人物が現れるには少し適さないだろう。そんなわけで、とにもかくにも雨乞いが終わるまでは、暇があるというわけだ。戦が始まってから、こんな時間が取れるのはめったとないことだし、戦がないにしても、鎌倉にいたら気が休まることなどない。
鎌倉――
思い出して景時は少し顔を顰めた。今となっては故郷は、景時の胸に重石となってのしかかる存在だ。今となっては、なのか、案外昔から、なのかもしれないが。少なくとも、物心ついたころから鎌倉の家はさほど心休まる場所ではなかった。父の顔色を伺い、望むような振る舞いのできない自分が嫌で、それでもどうすることもできず、どうなることもできず、思えば諦めが身についたのも自然なことだったかもしれない。それでも、武芸の苦手な自分のために、京へ遣ってくれた父は、自分の身を案じてくれていたのだろうと今はわかる。景時も、父を苦手ではあったけれども嫌いだったことなどない。華やかな京は景時には見るものすべて珍しく、安倍家で学ぶことも面白かった。それが成果に繋がらないのは武芸と良くにたものだったけれど、それも気にならないくらい、安倍家にあった異国の珍しいものは景時を夢中にさせたものだ。坂東武者の子、田舎者、と揶揄されることもあったけれど、京は景時には優しい場所だった。
(まあ、鎌倉じゃあ『武家の子なのに、なぜこれができないのか、情けない』って言われるけどさあ
 京じゃあ『坂東武者の子で田舎者なんだから、できなくても仕方ないか』って、ある意味甘かったからなあ)
それに、陰陽術の知識だけではなく、京の雅やかな習慣は景時にはとても興味深かった。書や歌や香合わせ、細かなことは嫌いじゃなかった。むしろ楽しかった。そういえば、花を見て楽しむことを知ったのも京だったかもしれない。陰陽道は五行をつかさどり、自然の営みと深く繋がる。花や月を見ることは修行の一環でもあった。
京邸はもともと貴族が住んでいただけあって、庭もかつては丹精されていたのだろうと思わせるものがあった。さすがにまだそこまで手を入れる余裕はなかったのだが、譲が手を入れてくれて随分ときれいになった。そのうちもっと暖かくなれば色とりどりに鮮やかな花が咲くだろう。それをこの邸で楽しむことができればよいのだが。
(春になる前に出陣、なんてことになるかもしれないなあ)
少し残念なことだが。しかし、今はまだ花を楽しむ時間がある。限られた時間を憂いを忘れて楽しむのは悪いことじゃない。
(……こういうところがオレの意気地なしなところなんだろうな)
また自己嫌悪の海に沈みかける自身の意識を振り払い、景時は今この春の時をどう過ごそうかと考えた。歌に詠むのも良いし、そういえば少し良い紙を手に入れたから古歌を書にしたためるのも良いかもしれない。目を閉じて風の音に耳を澄ましそんなことを考えていると、ぱたぱたと軽やかな足音がした。
「……景時さん?」
軽やかな鈴のような声。景時は目を開けてその声の主を見上げた。
「望美ちゃん」
その姿を見るとつい破顔してしまう。少し胸が痛くなるのは何故かわからないけれど。彼女の視線を受けるだけの資格が自分にあるかどうか試されているような気がする。そして、彼女が望むような人間であろうと自分を装ってしまう。
「日向ぼっこですか? すっかり春めいてきましたね!」
花が零れるような笑顔で望美が軽やかに景時の傍までやってくる。ふわりと風に乗って梅の花の香りが漂ってくるのと合わせて彼女こそ佐保姫であるかのようだった。
「野草芳菲たり 紅錦の地 遊糸繚乱たり 碧羅の天…ってね」
「えっ?」
景時が漏らした言葉に望美がきょとんとした顔を返す。何気なく口にした漢詩の一節ではあったけれど、その実、望美に良いところを見せたくて格好をつけたかった気持ちがなかったとも言い切れず、それを無邪気に返されて景時はなんとなく恥じ入った気持ちになった。
「……ええと……花がいっぱい咲いて、晴れた空はかげろうが乱れて青い薄絹を張ったみたいで、とっても綺麗だな〜って」
「ああ! 本当ですね〜! お天気も良くって…それに……」
それから望美は眼を閉じて大きく息を吸う。それを景時は見つめていた。「なんだか、空気も春の匂いが混ざってるみたいな…さわやかな気がしますよね」
知らず、顔が綻んでしまう。春の風景になんて似合う娘なんだろう、そう思った。だから却って、彼女の言葉に驚いたのかもしれない。
「景時さんって春みたいな人だから、やっぱり春が好きなんですね。」
「ええっ?!」
驚きすぎて動きが不審だったのか、望美が景時を見て眼を丸くして、そして…やっぱり花みたいに笑った。
「……そんな…オレなんかが春みたいって……それは、望美ちゃんの方だよ」
終わりの方は気恥ずかしくて声が小さくなってしまった。この年になってまるで少年のようだ。ばつが悪くて鼻の頭を掻く。そして望美から視線を外して、庭に目を遣った。自分が春を好きなのは自分と似ているからではない、自分と正反対だからだ。明るい庭を眺めていてそう考える。ぎゅっと強く景時は目をつぶった。瞼の裏に真っ赤な色が広がってすぐに景時は目を開けた。
「景時さん?」
訝しげに望美が声をかけてきて、慌てて景時は取り繕う。
「あ、ああ、なんでもないよ。それより、なんだかオレ望美ちゃんに良く見つかるような気がするんだけど。日向ぼっこなんて、見つかったのが朔だったらまた怒られるところだったかも」
情けない様子を見せてそう肩を落としてみせると、望美が笑いながら答えた。
「実はちょっと前から思ってたんですよ〜。この場所がお気に入りなんじゃないですか? なんだか良くここで庭を見てたでしょう?」
そして、ちょっと赤くなって少し慌てて付け加える。
「あっ、でも、その、別に景時さんの後をつけてたとか、追いかけてたとか、観察してたとかそういうわけじゃなくて、ただそのう…勝手に目が追いかけちゃってただけで…」
その様子が微笑ましくて景時はくすぐったい気持ちになった。
「あはは、オレがサボってるの、目に付いてたんだねえ。実は、オレが邸の中でもここの庭が一番好きな理由はね…」
景時はそう言って立ち上がり、望美を促した。きょとんとした顔で望美も景時に続いて立ち上がる。景時はそのまま少し濡れ縁を進んで、自室の前あたりまで望美を連れていく。そして息を大きく吸ってみせた。その様子を見た望美は、一瞬小首を傾げたが、すぐに景時の真似をして息を深く吸い込む。そして、すぐに、あっ、という顔をして景時を見上げた。
「…すごく良い匂い!」
「うん、ほら、梅の花が盛りなんだよ〜。いくつかある庭の中で、ここだけなんだよね。梅の木があるのって。でもね、ほら、ここは紅梅、白梅どっちもあるでしょ。だから目にも美しいし、届く香りも複雑だ」
景時はそう言って梅の花咲く枝を指差す。望美も景時に隣り合って身を乗り出して梅の花を見上げた。
「景時さん、梅が好きなんですね」
「…うん。そうだね。まだ雪が残っていて春が来るなんて誰も思ってもないようなときからつぼみをつけて花を咲かせて、春が来るって教えてくれるからかな。朝起きて、ああ、まだ寒いなあ、なんて思っていて、でもふと息をした瞬間に梅の花の香りが混じっていると、ああ、春がまた来るんだ、ってすごく安心するような気持ちになるんだ」
「……安心するような?」
「あっ……うーん、変かな、変かもしれないけど。ほら、なんだかあんまり寒い日が続くとさあ、もしかしてずっと冬のまんまなんじゃないかとか、思っちゃうっていうか……はははっ、オレってそんなとこも小心者だね」
「いえっ、いえ、なんだかわかるような気がします。梅の花って景時さんにとっては春を一番に伝えてくれる花なんですね、そして希望を教えてくれる」
「……そ、そんな大層なものに言われると恥ずかしいなあ」
けれど、それは確かにそうなのかもしれなかった。重く暗い日々に微かに希望を与えられる。梅の花の香りは、暗い日々がいつかは終わることを教えてくれる。
「春らしい花って、私、桜とかチューリップとか、そういう豪華な花しか思い浮かべなかったけど、梅の花ってすてきですね」
望美はそう言ってまた息を深く吸った。
「ね、ここでちょっとお花見しましょう! 梅の花でお花見っていうのもいいかも!」
「え? の、望美ちゃん?」
「待っててくださいね、今、何かお菓子と飲むもの持ってきます。お酒はちょっと無理だけど!」
そのまま、ぱたぱたと望美が駆けていく。その背を見送って、景時は濡れ縁に腰掛けた。そして梅の花を見上げる。
「…冬の後には春が来る、か……」
季節はそうだ。季節は巡ってどんなに寒さ厳しい冬が続こうと、その先には必ず春が来る。では戦は? そして人生は? 景時は希望をずっと見失っていた。戦はいつか終わるだろうか。平家との戦はいつか終わり、源氏が覇権を握る日が来て、そうすれば、そうすれば平穏な日々は来るのだろうか。九郎はそう信じている。源氏の兵たちの多くはそう信じている。けれど景時にはわからない。その平穏な日々は景時にとってもそうなのか、わからない。平家という外の敵がいなくなったとき、今度は源氏の中に血を求めるのではないのか、あのひとは……。そう思うとどんなに芳しい梅の香りも、明るい春の陽も、色と香りを失うような気がした。何も感じず何も考えず、ただ一日一日をすり減らすように生きていくだけ。梅の花は憧れだ、手の届かない憧れ。
「景時さんっ!」
暗い考えを打ち破るように明るい声が響いて、景時ははっと顔を上げた。盆を手に望美が早足で、けれど盆の上の湯のみから何かが零れないように気をつけながらやってくる。
「奮発してお茶入れてもらっちゃいました! それからほら、譲くんが試作品だけどってお団子くれました」
そして、景時の隣にぺたん、と座り込む。さっきまで、色も香りも失せてしまいそうだと思っていた世界に、色も香りも戻ってきた。望美を中心に世界に体温が戻ってきた。
ほっとしたような気分になって景時は思わず破顔する。
「どうしたんですか?」
「いや……うん、そうだね、春が来たなあ、って思ってさ」
「ええ? ええ、そうですね。春ですね〜って……さっきからその話をしてたんじゃなかったでしたっけ?」
目をぱちくりして望美が景時を見る。そして湯飲みを差し出した。
それを受け取って景時はすぐには口をつけずに手の中でその温もりを堪能する。
「あったかいね」
「やっぱり和菓子にはあったかいお茶ですもん」
そう言いながら、望美はといえば団子を頬張る。時折望美の言う言葉の中には景時にはよくわからないこともある。けれど、屈託なく笑う望美は景時にとっては梅の花と同じように思えた。
春の兆し、希望の象徴。暗い日々が終わるかもしれないという希望……そして、手が届かない憧れ。
本当に、梅の花のようだ、と景時は心の中で思った。






梅花その1。梅が好きっていうのが景時らしいといえばらしい。
桜じゃなくて梅なんすね。いや桜も好きなんだろうけど。
梅の花にはちょっと特別な思い入れとかありそうじゃないですか


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