梅花-2-




「雨乞いの儀っていつなんですか?」
今日も晴れた空を見上げて望美は景時に尋ねた。
「何日かかけて行うからね。いろいろの儀式はもう始まっているのだけれど、九郎や法皇様が出られる奉納舞は明後日だったかな。待たせちゃってごめんねー。九郎も早くお師匠さんに会いたいみたいなんだけどね」
「景時さんは行かなくていいんですか」
望美が尋ねると、景時は肩を竦めて答える。
「鎌倉の名代として九郎が出るからね。それに法皇さまは九郎がお気に入りでさ。京の鞍馬で幼少時過ごしていたということが興味深いみたいだよ」
いささかため息めいた息を吐いた景時に、望美は少し訝し気に小首をかしげる。源氏と平家だけではなく、朝廷との関係も複雑なものだということは、望美にはまだわからない。法皇と九郎があまりに近づきすぎるのは、景時にはいささか危険に思えているのだが、そのあたりの政治的なことは九郎にも説明が難しい。鎌倉の思惑は真っ直ぐな気性の九郎には理解しがたいものだろう。それに、兄である頼朝を崇拝する九郎に、それを打ち消すようなことを言うのは、なんとなく気が引けた。
「そうなんですね。じゃあ、景時さんも明後日まではお休みですか?」
「まあ、そうかな。一応、都のあちこちに守備隊を出しているから、何かあればオレが対応しないといけないけどね」
まあ、今のところは何もないかな、と答えると、望美は何か嬉しそうな顔をした。

望美はいつも、きらきらした笑顔で景時を見つめる。初めて会った時から不思議だった。景時が彼女を助けたのだ、と望美は言う。それは夢見の力なのか、何なのか、もちろん景時にはそんな覚えはないのだけれど、いつかそんな日が来るのかもしれない、信じられないことではあるが。とりあえず、彼女の夢の中の景時は、どうやら素晴らしくできた男だったらしい。それと思うと、いつか望美に幻滅されそうな気がした。
彼女が慕っているのは、景時ではなく、彼女の夢の中の景時だ。
そう思うと、少し胸が痛んだ。彼女が慕う、夢の中の自分のように、彼女を守れるような男になれたら良いのに。そう考えて、自分に嫉妬しているようで思わず苦笑した。


待機させている兵たちの滞在する屋敷に関する書簡を遣いの者に渡し、門から屋敷に戻った景時は、源氏の都での小競り合いに規律を強めるべきかとため息をついていたのだが、奥から聞こえるさざめきに顔をあげた。朔の楽しげな声が聞こえるようになったのは、望美がやってきてからのことで。黒龍を失くした後、朔のそんな声を聞いたことがなかったので本当にホッとした。それだけでも望美には感謝してもしきれないくらいだ。
今も、朔と望美の楽し気な声が漏れ聞こえてきて、景時は二人のいる室を覗きに行ったのだった。ひょいと覗き見してみると、朔と望美が香合わせをしようとしている。
「二人して香合わせかい?」
「景時さん!」
望美がパッと顔を上げる。朔も景時を見て「良いところへ、兄上!」と言った。なかなかにここまで待ちわびたように言ってもらえることは、実の妹ながら(妹だから?)ないことで、景時は首を傾げた。
「あの、梅花の香を合わせたいんですけど、私はもちろんですけど、朔も良くわからないって。景時さんは自分で香合わせしたりするから詳しいそうなんですけど、教えてもらえませんか?」
「へえ! 望美ちゃん、香に興味あるのかい? やっぱり女の子だね〜。自分で好きな香りを作れるから楽しいよ。梅花か〜、いいよね、オレも好きな香りだよ」
「ホントですか?」
嬉しそうに望美が言う。朔が少し体をずらして、景時の座る場所を空けた。
「兄上、じゃあ、私の代わりに望美に教えてあげて。私はちょっと夕餉の買い物に出かけますから」
「うん、わかったよ、…って朔、伴の者を必ず連れていくんだよ!」
「わかってます! 兄上ったら」 先ほどは随分と景時を歓迎してくれていたと思ったのに、過保護な景時の言葉に少しばかり怒ったように返して朔は室を出ていった。望美がそんな二人を見て微笑むのを見て、景時は困ったように頭をかいた。
「景時さんって本当に、優しいお兄さんですね」
「ついつい…ね、自分のことは自分で考えます、って言われるんだけどさ、やっぱり心配になっちゃって」
香木を手に取りながらそう言う。少しずつそれを削る景時の手元を望美は熱心に見つめている。
「大丈夫ですよ、朔だってわかってますもん。景時さんのこと、大好きなんですよ、照れてるだけです」
「だと嬉しいんだけどね〜」
「そうですよ、大好きですって」
ちらりと望美を見遣ると、目が合った。思わず目を逸らしてしまう。朔のことを言っているようで、望美が自分のことを言っているような気がしてしまったのだ。自意識過剰かと思って恥ずかしくなってしまった。
「じ、じゃあ、これを、はい、この鉢で細かく砕いて。…ああ、あんまり力を入れ過ぎたりすると熱を持ってしまって香りが飛ぶから、ゆっくり…うん、そう、上手だよ」
望美は熱心な様子で、教える景時も嬉しくなってあれこれと香についての話をしたり、丁寧に教えた。望美はけして器用ではなかったので、時折景時が手を貸したりしたものの、根気よく作業をする様子はとても好ましかった。何に対しても真っ直ぐ取り組むのが彼女らしくて。
香合わせが終わったときには、随分と時間が経ってしまっていたようだ。
「うん、どうかな、良い香りだと思うけれど、望美ちゃんの好きな香りかな」
景時が合わさった香の入った鉢を望美に差し出すと、望美もそれを嗅いで顔をほころばせる。
「はい! とっても良い香りですね! ありがとうございます、景時さん!」
「いやあ、こんなことならお安い御用だよ、いつでもまた言ってよね」


それだけでも景時にとっては微笑ましくも心が温まる出来事ではあったのだが、それ以上の驚きがその日の夜に待っていた。夕餉も終わった後、望美がひょっこりと景時の室に顔を出す。
「どうしたの、望美ちゃん」
こんな時間にやってくるなんて何かあったかと景時は驚いて文机から立ち上がって望美のいる縁へ出る。さすがにこの時間に室内に望美を入れるわけにはいかない。
「ごめんなさい! もう遅いし、明日でもいいかなと思ったけど、やっぱり、どうしてもすぐに渡したくなっちゃって」
望美が上気した頬でそう言う。それを早春の夜の寒さのせいかとぼんやり景時が思っていると、望美が何かを景時に差し出した。
「え、これは…」
「えび香です! 景時さん、梅の香りが好きって言っていたでしょう? どこへでも香りを連れていけたらいいな、梅の季節が終わっても香りを楽しめたらいいな、って思って」
望美が熱心に作っていたあの梅花の香が自分のためのものだったと知って、景時の胸が熱くなる。こんな風に、真っすぐに好意を寄せられることなど今までなくて。源氏の軍奉行といえば、京でも声を掛けてくる女性がいなかったわけではない。鎌倉に居た頃も頼朝に重用されるようになってからは、縁談の声がいくつかあった。ただ、そこには少なからず政治の匂いが必ずあって、景時はこれ以上身動きが取れなくなることが嫌で最初から応えるつもりは一切なかった。平家との戦は丁度良い言い訳にもなった。曰く、今はそんな時期ではない、と。だから望美のように真っ直ぐに自分を見つめる目は初めてで。戸惑いもあったけれど、間違いなく景時は望美に惹かれていた。
受け取ったえび香は、縫い目がたどたどしく、それがまた愛しかった。
「ありがとう、望美ちゃん。大切にするよ」
それは心からの言葉で。
「景時さんに喜んでもらえて良かった!」
きらきらした笑顔で望美がそう言う。そのきらきらした笑顔が、自分のためのものだと思うと、何故か泣きたいような気持になった。こんな風に、真っ直ぐに自分を想ってくれているということが、ひどく胸を締め付けた。彼女は夢の中の景時と自分を重ねているのかもしれないけれど。それでも…それなら、もしかしたら、自分も彼女の思う景時のようになれるかもしれない。…いや、彼女が想う、彼女に想われるに相応しく、在りたい。
ああ、どうかこの笑顔が曇ることのないように。
ああ、どうか、彼女の夢の中のように、自分が彼女を守ることができるように。
そう強く思う。

「そうだ、景時さん、えび香の香りが飛んでしまったら、言ってくださいね! また、一緒に香合わせしましょう!」
「そうだね、うん」
「約束ですよ!」
景時が頷くと望美は嬉しそうに笑い、満足げにぱたぱたと戻っていった。その背を見送って、景時は自分が彼女と同様に嬉し気に微笑んでいることに気付く。胸が仄かに温かくなって、まるで泣きたいような気持になっていることに気付く。
手にしたえび香からは、ほのかに梅花の香りが匂う。嬉しくて嬉しくて、それを肌身から離すことなどできそうもなかった。
もし今度、一緒に香合わせをするのなら、今度は二人分作って望美にも渡そう。さすがに縫物をするのは景時には無理なのでえび香を渡すことはできないけれど、品の良い香炉を望美に一緒に贈ればいい。同じ香りを身に纏うというのは、しかしちょっと艶めかしくて、望美に似合う香を別に合わせて贈っても良いかもしれない。そんなことを考えている自分がどこか可笑しかった。


その時は本当に、そんな日が来るのが楽しみだった。また二人で一緒に香合わせをするような日が来る気がしていた。他愛もない一日で、でも穏やかで楽しくて、幸せな一日。そんな日が来る気がしていたのだ。






梅花その2。すみません、何年ぶりかという更新ですね。
今年はvitaでUltimate版が出ることもあって(vitaの景時バージョン注文してしまった)
このシリーズも終わりまで書ければよいのですが(^^;)


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