あなたがみえない




主のいなくなった屋敷は、まるで時間が止まったかのように静かでがらんとしていた。冷え冷えとした縁に腰を降ろして、明るい庭を眺めるともなく眺める。日差しは温かいのに、望美の心は冷え切っていて、まるで世界との繋がりすべてが断ち切られてしまったかのようだった。
屋島で源氏は景時を犠牲にして撤退した。
『皆が無事に逃げ延びたら、オレもすぐに脱出するよ。
 知ってるでしょ、オレが痛いの嫌いで無理なんかしないってこと』
最後の最後まで嘘つきで、戻って来ることはなかった。まるで、そうなることを知っていたかのように、京の梶原邸の景時の部屋は綺麗に整理されていて、彼が居た頃に散らばっていた発明の思いつきを書き付けた反故紙も残らずすべて片づけられていた。
毎朝、望美は早くに目覚めると景時の部屋の戸を開ける。もしかして夜の間に帰ってきているんじゃないか、とか、彼が一緒に船に乗らなかったのは嘘なんじゃないかとか思ってしまい、確かめずにはいられなかったのだ。
しかし、主のいない部屋は日が経つにつれて室温が下がっていくようで、ささやかにも残っていた彼の残り香さえも薄れていくようだった。それから、初めて彼に出逢った庭に面した縁に腰掛けてぼんやりと考えて過ごす。
あの日と同じ、陽は優しく木々を照らしているのに、今日はこんなにも洗濯日和なのに、どうして景時さんがいないんだろう。そんなことをぼんやりと考えて過ごす。

 どうしてなのだろう、と問いかけても問いかけても、誰も答えてはくれない。余りに見かねて、景時の想い出の残る屋敷にいることが余計に辛いのだろうと、朔と二人、尼寺へ身を寄せてはどうかと言ったのは弁慶だった。
『望美さんは、景時に想いを寄せていたのですから……その辛さも余りあるでしょう
 しばらく落ち着くまで静かな所で世を離れて過ごしてはいかがですか』
その言葉に絶句したのは九郎で、彼は望美の景時への想いに何ら気付いてはおらず、それを知って更に自身を責めて望美に向かって深く詫びを繰り返した。
『すまん……俺のせいで景時を死なせた。本当に、すまない……』
もちろん、九郎が辛くない筈がないのだ。景時は九郎の補佐であると同時に気のおけない数少ない友人の一人でもあった。景時の常に変わらぬ飄々とした態度に時に苛立った様子を見せてはいても、自分とは異なる視点から事態を判断する力と策を持つ景時を信頼もしていた。
景時を失ったことは、九郎個人にとっても、源氏軍にとっても深い痛手だった。
『謝らないでください、九郎さん。私も、勿論他の誰だって、九郎さんのせいだなんて思ってません』
自分がこうして沈んでいることが、他の皆にも影響を与えてしまうことは良くわかっているのに、それでも望美は立ち上がることができなかった。納得できるものを、何ひとつ残さずに、景時は逝ってしまった。

時折、狂おしいほどの激情が襲い来て、屋島へ行きたいと思うことがある。
あの浜辺に彼は今も倒れているのだろうか。
戦に出るようになって戦場の荒れた様を目にした。矢が地面に刺さり折れた刀が転がり、土に血が染みてどす黒く色が変わり、かつて人であった骸が虚しく雨ざらしに放り出された戦場は、あまりに寂しく寒々しいものだった。
どんなに立派な葬儀が営まれ、どんなに仰々しくその位牌を拝まれたところで、彼はまだ屋島にいる。
生田で縋った温かな胸も、勝浦で空に花火を描いて見せた手も、屋島に打ち捨てられたままでいるのだ。
穏やかに優しい光溢れるところではなく、骸散らばり血にまみれた寂しい戦場に。
景時さんを迎えに行く。行かせて。何度心の内でそう叫んだだろう。その度に、自分がバカだったと思う。彼が死んでからではなく、彼が生きている間に彼の所へ行けば良かった。彼を迎えに行けばよかった。一緒に船に乗れば良かった。
彼が、一人残ることを決意していたなんて知らなかった。彼だけが、『誰かが残って時間を稼がなくては仲間が逃げ切ることは無理』だと見抜いていて、自分にその役を振った。誰にも、何も告げずに。
『ねえ、望美、私も大切な人を失ったからわかるの……悲しみに囚われていては駄目よ』
自分にとっても大切な兄であった景時を失い、平静でいられる筈もない朔が、望美を気遣って優しい言葉をかけてくれる。
それでも望美は考えずにはいられなかった。朔は、景時は満足だっただろう、と言う。武士であることに劣等感をずっと抱いていた、その景時が源氏の英雄として死ねた、満足だっただろう、と。
(本当に? 本当にそうなの?)
問いかける先に答えはない。こんなにも自分は、景時のことを何一つ知らなかったと思い知らされるばかりだ。
生田で、心が通じあった、と思った。危地に単身、望美を助けに来てくれた。『大切な人』だと言ってくれた。『笑顔でいて欲しいな』と少し照れながら、言ってくれた。
(私が笑顔でいられるかどうかは、景時さん次第ですよ、って言ったのに。言ったでしょう?)
思い出すごとに視界が滲む。
景時が好きで、景時も自分を好きでいてくれると思っていた。言葉にはしなかったけれど、触れあうこともなかったけれど、心は通じていると思っていた。なのに、何も残っていなかった。
景時が逝った後、望美の元には景時が残してくれたものは。言葉も約束もなかった。心が通じ合って居たと思っていたのも錯覚だったのかもしれない。
屋島に一人残された景時は、身につけていた何かを形見に遺してくれることさえもなかった。ただ最後に見た、穏やかな笑みだけが声もとどかなかった彼の最後の想いを伝えるもので、なのに望美には彼の笑みの意味がわからなかった。
朔の言うように、それは満足してのものだったのか。それは彼自身望んだ、満足した死だったのか。
望美は首を横に振る。そんなはずがない。戦場に『満足な死』なんて有るはずもない。満足などしていない、でもきっと景時は、いつもと変わらない調子で言ったのだろう。
『ま、仕方ないよね〜』
泣いたって嘆いたって仕方ない、だから自分は笑うんだよ、そう言った景時。
本当にあのとき、笑いたかったの? 泣いたって嘆いたって仕方ない、だから、笑っていたんじゃないの? オレのことなんて笑ってしまえばいいんだよ、って、皆にそう言いたくて笑ったんじゃないの?
尋ねたいことがあまりにも多く、答えてくれる人は既に無く。悲しみは癒えるときが本当に来るのかわからなかった。それでも立ち上がらなくてはならないとはわかっていて、そして忘れていたことに気付く。
「……八葉も欠けちゃったんだ……もう、龍神の神子でもないってことなのかな」
弁慶が、自分をこうして尼寺へと容易く身を寄せさせたのも、八葉である景時が欠けた今、龍神の神子としての望美の力も大きな戦力にならないと判断したことも含まれているのかもしれない。
景時さんを救うこともできなかった、神子としても八葉を亡くした、何をしても上手く行かない。
私の方が景時さんよりずっと何もできない駄目な人間だよ……
自分自身を嫌っていた景時。最後の時には自分を好きになれただろうか。でも、そんなのは哀しすぎる。もっと違うものを望美が彼に与えてあげたかった。それが出来ると想っていたのに。

梶原邸とは違う庭をそれでもぼんやりと眺めていた。穏やかな日差しの元で、鼻歌を歌いながら楽しげに洗濯を干す人。そんな何でもないような光景が何にも代え難く幸せなものだと気付くのが今では遅すぎる。
「神子……」
低い声が聞こえて、空気が一瞬揺れた。
「先生……」
八葉として望美を守るだけではなく、時に剣の師として導いてきてくれたリズヴァーンの姿が歪んだ景色の中から現れる。じっと自分を見つめる師の瞳からは今の望美の姿を叱責するのか、哀れんでいるのか、読みとることは難しかった。
「……先生、ごめんなさい……」
こんなことでは駄目だとわかっているのに。自分もまた、今までに、誰かにとって大切な人の命を奪ってきたというのに。それが戦だと判っているのに、たった一人大切な人を失った自分はこんなにも脆い。
リズヴァーンはその望美の声に対して何も答えなかった。ただ一言だけ。
「運命を変えることができるのは、お前だけだ、神子」
そう告げた。その言葉に望美は顔を上げて、問い返すようにリズヴァーンを見返した。以前も、良く似たことを言われた気がする。そう……川の流れを変えるのならその元へ向かわねばならないと……。
「……先生?」
その意図するところが、自分の思うことで合っているのかどうか自信が持てずに望美は師を仰いだ。リズヴァーンはただ頷いて
「……運命は常にお前の手の中にある」
そう言うと、再び木の陰に姿を消した。
景時を失って、一度と無く考えた。それを使うことは許されるのだろうかと。
ぎゅっと望美は白龍の逆鱗に手を伸ばし握り締めた。それを使うための言い訳ならある。景時は八葉だ。八葉が欠ければ龍神の神子の力は十分には発揮されることはない。だから、八葉を失わぬために、景時を助けるためにもう一度時を遡るのだ。そう、そうやって運命を変えることができるのは、望美だけなのだから。
けれど、それを躊躇っていたのは、自分が景時を失いたくないのは、彼が八葉だからではないと知っているから。それが赦されるのだろうかと思っていたから。しかし、本当はわかってもいた。
誰に赦されることがなくとも、本当は自分はこれを使いたかったと。そして、リズヴァーンはそんな望美の背中を押した。知ってか、知らずかはわからないが。

神子としてではない、春日望美としての願いを叶えるために、逆鱗の力を使う。それが間違っていようと許されないことであろうと、その責めは自分が背負う。
どうしても失いたくない。どうしても彼を失いたくない。八葉だからではない、景時だから、だ。
こんな自分が神子でごめんなさい、と誰にともなく心の内で呟く。でも、と思う。でも、私は自分が神子で良かった。景時を死から取り戻す力を持てて良かった、と。
強く握り締めた逆鱗が白く輝きだす。望美は強く願った。もう一度、景時に逢いたいと願った。彼の運命を変えたいと。


目を開けると、そこは摂津の港だった。屋島を目指す源氏の船団が港に集っている。
まだ、間に合う? 望美は景時の姿を探した。逆櫓の件で景時と九郎が言い合って、そして……。このときにもう、景時は何かを考えていたのだろうか? この港を出るとき既に景時は何かを心に刻んでいたのだろうか?
その姿を探して望美は港を駆けた。景時がいる船を探した。急ピッチで逆櫓を取り付ける作業を進めている一群の船。その中の一隻に景時の姿があった。
「悪いけど、急いで作業をしてくれよ〜」
その姿を見て望美はホッとする。生きている。彼はまだ、生きている。涙が出そうになって、それどころじゃないと自分を叱咤する。
「景時さん!」
その声に驚いたように景時が望美を振り返る。
「の、望美ちゃん? どうしたの? なんでいるの!?」
「私、景時さんと一緒にいるって決めたんです。だから残りました」
その言葉になおさらに景時が驚いた顔になる。その顔が困ったように苦しそうに一瞬歪んで、でもそれをすぐに押し隠して微笑みに変わる。
「わかった。じゃあ、作業を急がせないとね」
「一緒に待ってていいですか?」
答えを聞くより先に景時の傍へ駆け寄りその手を取った。暖かい、生きている人の手。
「私、景時さんの傍を離れませんから。ずっと一緒にいますから」
祈るようにそう繰り返し言う。景時の心が見えない。それでも…彼が屋島で果てることを望んでいたとしても、自分がそれを許さない。
屋島での名誉の死ではなく、もっと違うものをきっと彼に与えてみせる。そのために、自分は運命を変える力を使ったのだから。
「私、景時さんと一緒にいますから」




遙か3より、景時×望美です。
屋島で景時が亡くなった後、望美は源氏軍を離れて朔と尼寺に身を寄せたってことになるんですが
望美と景時は表向きは単なる同僚な筈なのに、何故尼寺へ? とか思ったりして
1.望美の憔悴ぶりが目も当てられない状態で景時を好きだったのだなーと周囲にわかるものだった
2.望美が自分でしばらくちょっと頭を冷やさせて、と頼んだ
3.実はその頃既に景時と望美は(周囲にもわかるほど)良い仲で、景時が亡くなった望美は未亡人扱い
いったいどうなんだろう、と考えずにはいられないわけで
まあ、どの線でもいろいろ美味しいとか妄想したり、しなかったり。


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