もちろん、怨霊相手の戦いにも慣れたわけではない。それでも、怨霊は怨霊で、生きているモノではないという事実があり、そしてそれらを封印することは、怨霊たちにとっても良いことなのだと思うことができた。
しかし。
望美は振り下ろした剣を通して伝わってきた感覚に戦慄した。それは、明らかに怨霊を断ったときとは異なるものだった。鈍い音とともに刃が肉を断ち骨を砕く感覚。溢れる血。刀の柄を握った手が赤く染まる。瞬間、吐き気がこみ上げる。深くめり込んだ刃を引き抜く。
−−見たくない。これは、何? 私は、今、何をしたの?
光を失っていく地に倒れ伏した兵の瞳。見開いたその瞳は、もうこの世の何も見えていないはずなのに、望美を睨んでいるように見えた。
「あああぁぁぁーー!!」
恐怖にかられたように、望美は剣を振り回す。そこには、怨霊相手に戦っているときのような緊張も心構えもなかった。かかってくる敵兵に闇雲に剣を振り回しているだけだった。それでも相手の腕を切り、なぎ倒す度に鈍い感触が伝わってきて、それが更に彼女の恐慌を進ませる。
−−怖い……嫌だ
そう思った瞬間、身体が凍り付いた。その動きが止まった一瞬に敵の刀が振り下ろされようとした。それでも呆然としたように望美は剣を握ったまま立ちつくしている。やっと気付いたように自身に振り下ろされよる刀を凝視したとき、パァン……という乾いた音とともに、その兵の胸元が赤く染まった。そのまま仰向けに兵が倒れる。
「何をやっている! 死ぬつもりか! そんな心構えなら戦場に出てくるな!」
九郎の怒号が耳に届いて、望美は我に返った。
「望美ちゃん、こっちへ……! 下がって!」
そして、景時の声とともに腕を掴まれ身体を引かれる。
「だ、大丈夫です。大丈夫……!」
ぐっと強く剣を握り直すと望美は、未だに残る吐き気を抑えて前に出ようとした。それを景時の腕が抑える。
「望美ちゃんには、怨霊の相手をお願いするよ。奴らを封印するのは、望美ちゃんにしか出来ないからね。
生身の相手はオレたちに任せて」
戦が終わって自陣に戻ったときには、望美は疲れ切っていた。今もまだ嫌な感触が腕に残っていて、剣を握る手が小刻みに震えていた。
「望美! お前、いい加減にしろ! あんな振る舞いで戦場に出られては迷惑だ、志気に関わる!」
今後の方針を話し合うために陣に戻ってきた九郎が、声を荒げて望美に怒鳴った。自分が悪いとわかっている望美は項垂れる。
「……ごめんなさい」
「景時が間に合わなかったら、お前今頃死んでいたんだぞ!」
確かにあのとき、景時の銃弾が敵兵を射抜かなければ望美は自分こそが刀に引き裂かれていただろう。
「景時さん、ごめんなさい、ありがとうございました」
力無く言う望美に、景時は大げさに手を振って、いいっていいって、と答える。
「九郎〜、そんなに怒らなくたって、ちゃんと勝てたんだしさあ。
それに、望美ちゃんは初陣みたいなものだったんだよ? 仕方ないじゃないか。
オレなんて、初めて戦場に出たときなんて、逃げることしか考えられなかったよ〜。
今だって逃げていいなら逃げたいくらいだけどねえ」
景時は、九郎を宥めるように殊更自分の情けなさを強調するように言った。
「景時! お前までいい加減にしろ!」
「だいじょぶだいじょぶ、兵には聞こえないってば」
少しも堪える様子のない景時に九郎は舌打ちし、苛々した様子を見せたが、未だに何処か呆然としている望美の様子を見て黙り込んだ。
「……神子。剣を収めなさい」
そのやりとりをずっと黙って見つめていたリズヴァーンが望美の傍らに寄ってきてそっとそう言う。言われて初めて望美は自分がまだ紅く染まった剣を強く握りしめていることに気付いた。握りしめた柄から手を離そうとするが、指が開かない。まるで関節が固まってしまったかのように動かないのだ。リズヴァーンは望美の手をとると、指を一本一本開かせた。重い音がして剣が地に落ちる。握りしめていた手は未だ望美の意思では動かない。
「先輩」
心配そうに覗き込んでくる譲に、彼だってこの世界に来て慣れないことも多いのに、自分の心配をさせてばかりだと、望美は情けない気持ちがこみ上げてくる。その様子を譲は望美が九郎に言われたことに落ち込んでいると勘違いしたのか、あるいは先ほどからの九郎の一方的な言葉に辟易していたのかやや強い調子の言葉を続けた。
「先輩がショックを受けるのだって仕方ない。
俺たちは、この世界みたいに人殺しが日常的なところからやってきたわけじゃないんだ。
怨霊はともかく生身の人間相手に殺せと言われても、それをなんとも思わないなんて無理だ」
「譲くん!!」
慌てて望美が譲の言葉を遮ろうと声を挙げるが間に合わず、九郎が譲の言葉に反応する。
「死にたいなら勝手にしろ! そうでないなら、戦場で突っ立てるしかできないなら奥へ引っ込んでろ!」
「譲くん、九郎さんの言う通りなの、私が悪かったんだから。庇ってくれてありがとう、ごめんね」
気まずい空気が辺りに流れる。
「この話はこれまでにして。九郎は次の手を考えないと。譲くんと神子はしばらく休んでいらっしゃい」
取りなすように弁慶が声をかける。プイと怒った顔をして陣の地図を広げる九郎はもう望美の方を見ようとしなかった。
「先輩……」
拙い事を口走ってしまったと思ったのだろう譲がすまなそうに声をかけてくるのに、望美はにっこり笑った。
「大丈夫、ホント、ごめんね。譲くんだって大変だったでしょ?」
しかし、自分のその笑顔が無理しているもので長続きしないと自分でもわかったので、望美は気を取り直したように、わざと明るい声を出して言う。
「ちょっと、手を洗ってくるわ」
「一緒に行きます、一人じゃ危ない……」
そう言って顔を上げる譲に、大丈夫、一人で行けるから、と望美は手を振ると陣の裏手の小川へと向かった。
ばしゃばしゃと冷たい水で手を洗う。流れていく水が朱に染まり、やがて再び透明に戻っていっても、まだ自分の手に生温かい赤い液体が残っているように思えた。手先が冷えて感覚がなくなるほどになっても、まだ気になって水に手を浸し続ける。望美の脳裏には、自らが振るった剣に倒れた平家の兵の姿があった。望美の父くらいの年に見えた。子どもはいただろうか。殺したいと思ったわけではない。今もあの場に斃れたままだろうか。死にたくなかっただろう。家族の元にあの兵の死は伝えられたのだろうか。
「……っうっく……ふぅ……っ」
こみ上げてくるものを耐え切れず、望美は嗚咽を漏らした。自分が人を殺したという現実。ごしごしと強く何度も何度も手を擦る。こんなことでは駄目だと思うのに。九郎の言うことはもっともだと思う。それでも、怖かった。慣れるのだろうか? 戦うことに。慣れることができるのだろうか、慣れてしまうのだろうか。
「望美ちゃん」
突然声をかけられて、はじけるように望美は振り向いた。少し心配顔の景時が立っている。
「か、景時さん!」
慌ててまた、顔を戻すとごしごしと涙を拭う。今更そんなことをしたところで、景時にはもう、望美が泣いていたことがばれてしまっていた。しかし、景時はそれを言葉にせずにただ
「あんまり遅いから、心配しちゃったよ〜。大丈夫かい?」
とだけ言った。望美は立ち上がると、濡れた手を振って水を飛ばし、笑いながら言った。
「ごめんなさい、なんだか、気になっちゃって……」
「……血の匂いが消えないみたいで?」
景時の言葉に望美はどきりとして黙り込む。鉛を飲み込んだように喉の奥がつかえて言葉が出てこない。見上げると、景時はまるで自分が辛いような顔をして立っていた。
「オレも、初めての時はそうだったよ」
そうして、望美の手をとり、こんなに冷たくなっちゃって……、と言う。
「九郎もね、心配していたよ。口はキツイけど、望美ちゃんのことすごく心配してるんだ、わかってやってね」
望美の心配をして、それに加えて九郎のことも思いやって。優しい人だなと望美は自分の手を温めるように包んでくれている、景時を見て思った。逃げたいくらいだよ、戦いたくなんかないよね、……軍奉行らしからぬ景時のその言葉が今更に思い出された。
「……景時さんは、何故戦うんですか?」
きっと、あの言葉は望美たちの気持ちを和らげるためだけではなくて、景時の本音も隠されているに違いないと思えて、望美はそう尋ねた。戦いたくないのに、何故戦を続けるのか、と。その問いに困ったように景時は頭をかく。
「うーん……だって、オレ、軍奉行だしねえ。頼朝様のご命令もあるし」
当たり前の答えに望美は馬鹿なことを尋ねたと落ち込む。戦うことが当たり前のこの世界で、何故戦うのかと問うことがどれほどに意味のないことか。
「……景時さんは、初陣からどれくらいして戦に慣れました? 私も、いつか慣れてしまえるかな?」
いっそ自分にとっても、戦が当たり前のものになったならこんなことを考えずにすむのだろうか。
「慣れる必要なんて、ないよ。いや、慣れちゃいけない」
ぎゅっと強い力で手を握られ、望美は驚く。真摯な景時の言葉にも。
「望美ちゃんや譲くんのいた世界は、こんな戦もなく誰かを殺す必要もない世界なんだね。
それはとても幸せな世界なんだろうなあ。
つらかったら、無理はしちゃいけないよ。さっきも言ったけど、生身の人間相手はオレたちに任せて
望美ちゃんは怨霊相手に的を絞ればいいんだから。それだけでも、オレたち十分助かっているんだからね」
それは、望美にとっては飛び込みたい逃げ道だったけれど、自分が手を汚すのは嫌で、景時や九郎たちにそれを押し付けるのは卑怯に思えた。だから、景時の言葉に頷けなかった。そんな望美の思いを読み取ったのか、笑いながら景時は言う。
「オレたちはさあ、もともと平家と戦っていたんだし。でも、望美ちゃんたちは違うでしょ?
巻き込まれちゃっただけなんだから」
気遣うような笑顔。そして、望美は景時だって『慣れて』などいないのだということに気付いて、先ほどの自分の言葉の無神経さに恥ずかしくなった。
「ごめんなさい、『慣れる』なんてこと、ないですよね」
いいんだよ、望美ちゃんたちより慣れてるのは本当だしね、と景時はなんてことなさそうに笑う。それから顔を上げて視線を空の遠くへ向かわせると呟くように言った。
「……何故戦うのか、かあ。……案外にね、とても小さな、些細なもののためかもしれないよね」
望美は、いつも軽く振舞う景時の真面目な言葉にその顔をじっと見つめる。いや、常に軽い言葉に紛らわせているけれど、彼はいつだって『いい加減』ではない。軍奉行として、為すべきことを軽い調子でそつなくこなし、漏れなく行って余裕あるように見せているけれど、戦いを楽しんですら、いない。
「戦わずに済むならね、それが一番いいよね。誰も傷つかずに済むし。
でも、平家だって必死だしね。怨霊なんか使うのは本当に趣味が悪いと思うけれどさ、そうでもしなくちゃ
自分たちが滅ぼされるって思っているんだよね。誰だって、死にたくないだろうし、そりゃ必死にもなるよねえ」
「……死にたくないから、戦うんでしょうか」
それはとても矛盾した答えのようでいて、でも、今日の自分がそうだったと望美は考える。死にたくないから、相手を殺す。それは戦場では当たり前のことで、そしてなんて悲しいことだろう。
「九郎はさ、頼朝様を尊敬していて、お役に立ちたいと願っているんだ。頼朝様のために一筋に戦っている。
頼朝様の敵は九郎にとっては倒すべき敵なんだね。
頼朝様のためなら、九郎は躊躇うことなく迷うことなく戦場に出れるだろう。
平家や源氏でも雑兵たちは、褒賞のために戦う者もいる。家族に楽をさせたいとかね。
戦う理由はきっと人それぞれだけれど、すごく身近なもののためだったりするんだよ、きっと」
崇高な理想のためでもなく、身近な小さなささやかなもののために、と景時は言い、その言葉は望美の胸に印象深く残った。では、私は何のために、誰のために戦場に出るのだろう。その答えはまだ見つけられないけれど。
「今日のこと、忘れません。自分が奪った命のこと。
でも、戦場に出ることも、もう怖がりません。怨霊を封じる以外の、人を相手の戦の意味はまだ私にはわからないけれど……
でも、仲間に護られるだけじゃなくて自分も戦わなくちゃいけないと思うから」
剣の重さと、その剣で切り伏せた人の命の重さも忘れることなく。
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「望美! どうしたの?!」
友人の声に望美ははっとする。雨の渡り廊下。
(……ここは……?)
劫火に包まれた京邸ではなく、懐かしい学校だった。
(夢? ……それとも、あれは現実で戻ってきたの?)
ぎゅっと握り締めた手のひらに堅いものがあった。白龍の逆鱗。夢ではなかった。仲間と出会ったこと、共に戦ったこと、そして、追い詰められ火を放たれ、仲間を置いて一人戻ってきたこと。
白龍が自分の存在と引き換えに望美を救ってくれた。生きてくれ、と。あの後、仲間たちはどうなっただろう? リズヴァーンは戻ってこなかった。景時と弁慶は……その最期を教えてやろうかと平家の将は嘲笑った。譲は? 朔は? 九郎は?
「ねえ、望美?」
呆然と立ち尽くす望美に、次の授業に遅れちゃうよ、と友人が声をかけるがその声も聞こえないようだった。このまま、何事もなかったように、ここで、元の生活に戻れる?
握り締めた逆鱗が指に、手のひらに食い込む。
忘れられる? 全てを。仲間たちのことを。
異世界・京で、望美は異邦人だった。けれど、戻ってきたこの世界に立ち尽くす望美は、自分が、今、この、元居た世界で異邦人だとわかっていた。捨てられない、忘れられないものが京にできていた。
逆鱗を使えば、もう一度、最初からやり直せる。望美は強く逆鱗を握り締める。
それは、もう一度戦場に身を投じるということで、もう一度剣を取って戦い、人の命を奪うということだった。
『戦う理由は人それぞれだけれど、案外に身近で小さくてささやかなもののために戦っているのかもね』
景時の言葉が甦る。そして、その言葉の意味が今の望美には十分良くわかった。
死なせたくない人がいる。その人を護るためなら、剣を手に取る。戦場で兵の命を奪うだろう。
その想いも行為も神子として正しいとはけして言えない。それでも。
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望美は振り下ろした剣を通して伝わってきた感覚に戦慄した。それは、明らかに怨霊を断ったときとは異なるものだった。鈍い音とともに刃が肉を断ち骨を砕く感覚。溢れる血。刀の柄を握った手が赤く染まる。瞬間、吐き気がこみ上げる。深くめり込んだ刃を引き抜く。
それでも、もう、迷わなかった。今度は、自ら選んだ。この場所に戻ってくることを。仲間と共に戦うことを。彼らを護ることを。慣れることはないだろう、恐ろしいと思うだろう。
地に斃れた兵の、光を映さない瞳が望美を見上げているようだった。謝ることさえ許されない気がする。
それでも、もう、迷わない。
END
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