大きくて暖かい手-1-



なくしてみて初めて、自分にとってどんなにそれが大切なものだったのかわかることがある。そんなことは、とっくに思い知ったことだというのに、それでも自分は何も見えていなかったと何度も繰り返し思い知らされる。繰り返す時空の中で、それでも少しずつ歴史を変えていくとともに自分の心も変わっていたことに気づいてもいなかった。与えられる優しさが、何度繰り返しても変わらないものだから、当たり前のように感じていた。それは無くなるはずもなく、当然のように自分に向けられるものだと思っていた。何度も何度も、私の涙を拭ってくれたあの大きくて優しい手は、今はもうない。なんて自分は傲慢だっただろう、なんて自分は身勝手だっただろう、なんて自分は浅はかだっただろう。泣いて泣いて、どんなに泣いても、もうこの涙を拭ってくれる人はいない。

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初めてこの異世界に来たとき。不思議に怖いという気持ちがなかったことを思い出す。次々現れる怨霊武者と無我夢中に闘い、白龍と朔を助けた。どうして自分にそんなことができるのか、ということを訝しく思っても、恐ろしくて足が竦むこともなく、ただ淡々とこの世界のことを受け入れている自分が何処か不思議だった。でも、それはただ、現実に起こっていることに対して心が着いていってなかっただけだとわかったのはすぐだった。
一緒にこの世界へやってきたはずの幼なじみ。譲くんはすぐに見つかったけれど、もう一人、将臣くんの行方はわからなかった。一生懸命、彼の特徴を説明して、辺りを探してもらったけれど、私たちが京邸に引き取られた後、何日しても手がかりさえ見つからなかった。小さい頃からずっと一緒だった幼なじみが姿を消したことが、私は心配でならなかった。譲くんは「兄さんのことだから、何処かで上手くやっているんじゃないかと思うけど」と内心を押し隠してわざと明るくそう言ってくれた。私も、そう思った。いつだって将臣くんは人を引っ張っていくリーダーで、そのくせマイペースなところもあって、要領よく物事をこなしてしまうタイプだった。思えば、私も将臣くんに引っ張られてあちこち出掛けたり、遊んだり。結構、頼りにしていたんだと思う。だから、このとき感じていた心配……不安、は、きっと将臣くんの身を案じてというよりも、私と譲くんの2人になってしまったことへの不安だったんじゃないかと思う。
京邸に落ち着いて、やっと一息ついた頃になって、改めて落ち着かない気持ちを感じるようになって。それはどんどん大きくなっていった。なんだか眠れない日が続いて、その日も寝付けなくて。まだ肌寒い季節だというのに、夜に部屋の外に出て、濡れ縁に腰掛け月を見上げていた。全く違う世界だというのに、月の姿は同じなんだなあ、ということがかえって不思議で。譲くんが言っていた、私たちの世界の随分と過去とよく似ている、ということを思い出していた。九郎さんは、源義経で、私たちの世界でも歴史上の人物として良く知られている人だ。弁慶さんも同じく。私たちが身を寄せたのは「源氏軍」の方で、怨霊はその敵である「平家軍」のもの。この源平の戦いというのも、歴史で習った出来事だ。けれど、もちろん、教科書で習った歴史では、平家は怨霊を使ったりしなかったし、譲くんの言うところによれば、これまでの戦いの流れも微妙に私たちの世界で伝えられているものとは違うらしくて、タイムスリップした、というのとは違うらしいということだった。あえて言うなら、私たちが知っている過去と良く似た別の世界、という感じだとか。それは現状を把握するにはともかくとして、あまり安心できる材料にはならなかったけれど、結局、私たちにはどうすることもできないのだから、ありのままを受け入れるしかないということになった。私はさっぱりわからないのだけれど、譲くんはこの時代の歴史を習った範囲ならわかると言っていたから、それが私たちにとって上手く利用できればいいのだけれどと思う程度のことだった。
「良く似たお月様だな」
そんなことを呟いて夜空を見上げていたら。
「望美ちゃん?」
声をかけてきたのは、京邸の主である景時さんだった。朔のお兄さんで、源氏の軍奉行でもある景時さんは、とても気さくで優しい人だ。ちょっとおちゃらけたところもあって朔は良くぼやいているけれど、私としては堅苦しい九郎さんやちょっと近寄りがたい弁慶さんともまた違って、ほっとできるというか、肩の力を抜ける優しいお兄さんという感じで有り難かった。けれど、まさかこんな真夜中にこんなところで、見つかってしまうというのは思ってもいなかったことでもあって。もちろん、ここは景時さんのお屋敷なのだから、景時さんが悪いわけではなくて私の方が悪いのだけれど。
「どうしたの、眠れないの」
そう景時さんは遠慮がちに言って、その場にたたずんでいた。多分、私に気を遣って傍に来なかったんだろうと思う。私もなんだか、ばつが悪くて恥ずかしい気がしたから、そのままただ頷いただけだった。それで、なんだか間の悪い空気が流れて、多分それに困ったんだろう景時さんが、頭を掻きながら話し出した。
「もうちょっとしたら、この庭も梅が盛りになって、多分このあたりまで香りが漂ってくると思うんだ。
 花の良い香りを嗅ぐと、なんだか心が落ち着くっていうか……すんなり眠れるようになるんじゃないかな?
 そうだ、眠るときに香を焚くと良いよ。
 あまり香りが強いものは向かないけれど……今度、調合して朔に渡しておいてあげようか……」
それはなんだかとりとめもない話で、景時さんが私を気遣って何とか話をしようとしてくれているのが良くわかった。それで、微妙な距離を置いていることが、なんだか申し訳なくなって私は笑って「ありがとうございます」と答えた。そこでやっと、景時さんと私の間の微妙な緊張が解けたみたいだった。
「何、見てたの?」
相変わらず、傍に寄ってくることもせずに景時さんは遠慮がちにそう尋ねてきて(多分それは私のせいなのだと思うけれど)、そこで私は空を指さした。
「お月様。見てたんです」
景時さんの居る場所は屋根が張り出していて空が仰げないらしくて、私が指さした空を見るために、やっと景時さんは私の横まで歩いてきた。
「ああ、満月というわけにはいかないけれど。雲がないから良く見えるね」
景時さんは立ったままそう言って空を見上げた。
私は濡れ縁に座ったまま、月と景時さんを見上げる。
「不思議だな〜って思っていたんです」
そう言うと、景時さんは小首を傾げて私を見下ろした。言ってしまってから、私はなんだかバカなことを口走ってしまったような気がしたのだけれど、景時さんが促すようにじっと私を見つめているから、何でもないような振りをして肩をすくめて言葉を続けた。
「私たちの居た世界とは別の世界だっていうのに、月は同じに見えるって不思議だな〜って」
そう言うと、景時さんが少しだけ目を細めてちょっと微妙な表情で笑った。
「なよたけのかぐやひめ」
「?」
景時さんが言った言葉がよくわからなくて黙っていると、景時さんは私の隣にしゃがんで言った。
「かぐや姫は、月を見上げて望郷の涙をこぼしたというけれど。望美ちゃんも同じだったらどうしよう、って。
 何も力になれないけれど、元の世界に帰れるように協力できることはするから。
 オレって頼りないかもしれないけれどさ、ほら、朔だっているし、寂しかったら何でも言ってよ」
ああ、さっきのちょっと哀しげにも見える笑顔は、私のためだったんだとわかった。そんなつもりは全然なかったのに、と私の方が慌ててしまって、首を思い切り横に振る。
「いえっ、いえ、違うんです。元の世界に帰りたいとか、そういうのじゃなくて。
 ただ、本当に同じ月に見えて不思議だなってそれだけ……ただ……」
ただ、あともう一つ。
「ただ?」
やっぱり心配そうな顔のまま景時さんはそう言って。だから私は言うつもりはなかったことをつい言ってしまっていた。
「ただ、将臣くんも同じ月をどこかで見ているのかなって……」
言ってから、こんなこと景時さんに言っても仕方ないのに、とすごく後悔した。だからつい、それまで上げていた顔を俯けてしまって、自分の握りしめた指先ばかり見ていた。こんなことを言っても、景時さんは困るだけだろうにと思って。
「…ああ、譲くんのお兄さんだね。幼なじみだったんだってね。
 心配だよね。」
そう言った景時さんがしゃがんだ格好から縁に腰を下ろして足を投げ出したのがわかった。
「でもね、安心してよ。
 望美ちゃんたちが居た辺りを中心に、手空きの者に探させてるから、何かあったらすぐにわかると思うよ。
 平家の怨霊たちも今はもうあの辺りを離れてしまっているから、大丈夫だと思うし。
 きっと、見つかるよ。ほんと、源氏の軍の者たちには、ちゃんと言い含めてあるから
 心配しなくても大丈夫だよ。
 そうだ、軍の者だけじゃなくて、町の者たちにも言っておいた方がいいよね」
親身にそんな風に言ってもらって、嬉しいよりも申し訳ない気持ちになって。そんなに気にしないで、と言いたくて首を横に振った。本当はそんなにのんびり人捜しできるような余裕がないことは、なんとなく感じていた。だから。
「……いいんです、大丈夫。将臣くんのことだから、きっと何処かで元気に無事でいると思うし……」
まるで自分に言い聞かせるようにそう言った。なのに、じっと見ていた自分の手がヘンに滲んで。そこにぽたぽたと水滴が落ちているのがわかった。きっと無事だという思いと、こんなに探してもらっても見つからないなんて、という不安が交互に頭をぐるぐるまわって。景時さんに泣いてるってわからないようにしなくちゃ、って息を止めた。満月じゃなくて良かった、って思った。なのに。
 ぽんぽん、と大きくてあったかい手が私の頭を撫でていた。何を言うでもなく、ただ優しく。それが本当に優しくて、止めなくちゃと思った涙が止まらなくなってしまって。ああ、やっぱり景時さんはお兄ちゃんなんだな、と思った。きっと朔が泣いたりしたときも、こうやって慰めたりしたんだろうな、って。
もう泣いてるってバレてるのはわかったけれど、やっぱり恥ずかしくて小さく聞こえないように鼻をすすった。もちろん、でもそんなことは景時さんにはわかっていて。そっと差し出されたのは薄布だった。ああ、これってこっちの世界のハンカチみたいなものかな、なんて泣きながら妙に冷静に考える自分が可笑しくて。私は、景時さんのくれた薄布に顔を埋めて存分に泣いて、そんな私の頭を景時さんの優しくて大きな手はずっと撫でていてくれた。

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 それが、私が初めて景時さんの手に触れたときで。そして、その優しい手は何度時間を繰り返しても、変わらず私を慰めてくれた。
 だから、私はそれがどれほど大切なもので、当たり前のように存在するものではないのだということに気付かなかったのだ。





志度浦の後、尼寺にいる時の回想です。
タイトルの割になんだか暗い始まりで。
5回くらい続く予定です。以前にブログで妄想綴ってたのを
こんな感じでまとめてみました。




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