大きくて暖かい手-3-



何度繰り返しても、宇治川からしか新しい運命を私は始められなかった。なぜ、将臣くんだけが私達と異なる時間へ飛ばされてしまったのか。何故、私は何度試みても同じ時へ飛ぶことができないのか。それが出来ない限りは、私達と将臣くんは、絶対に敵となってしまうのだ。何度繰り返しても、かえることのできない歴史があるように、将臣くんが還内府であるということは変えることができないことなのだろうか。私はその事実に絶望して、どうすることもできずに夜の庭を見つめて階に座り込んでいた。
「あれ、望美ちゃん」
もう、その声は随分と私の耳に馴染んでいた。当然だ、もう3度も時を繰り返しているのだから。
「景時さん」
でも、私は景時さんに会いたくはなかった。景時さんだけではなくて、誰とも会いたくなんてなかった。誰にも話せない秘密を抱えてどうしようもなくて、仲間を助けたいと思って戻ってきたはずのこの世界で、もうどうして良いかわからなくて逃げ出したくて、涙が止まらなかったから。ごしごしと目を擦って誤魔化そうとしたけれど、どうしたって誤魔化せるものではなくて、夜だったけれど景時さんは私がもうどうしようもなく泣いていることにすぐに気付いたんだと思う。だって声もいつもと変わってしまっていたから。私はすぐに顔を背けてしまって、そのまま黙り込んでしまったけれど、景時さんはまるで気付かなかったみたいなふりをして、そのままそっと歩いてきて私の横に腰を下ろした。
そして、わざと私の方を見ずに庭に目をやって、いつものように明るい調子で言った。
「梅の香がしてくると、春だな〜って気分になるんだよね。
 まだちょ〜っと寒いけれどもさ、ああ、これからだんだんあったかくなって、きっと良いことが増えてくるんだろうな〜なんてさ。
 単純だけど、ちょっとうきうきしてくるっていうか」
何度もその香を体験しているはずなのに、前のときには言われる前に気付いていたのに、私はそのときになってやっと、微かに薫る花の香に気付いた。詰まった鼻を何度かすすりあげて、確かめるように私が息を吸い込んでいるのを見て、景時さんが少し小首を傾げる。『薫ってきているの、わかった?』と尋ねたげに見えるその表情に、小さく私は頷いた。そうすると景時さんは小さく微笑んだ。
「どんなに寒くても、梅は春を一番に感じ取って咲くんだな〜と思うとね、いじらしいと思ったり、なんて強い花だろうと思ったりね。
 元々の薫りも好きなんだけど、オレはなんだか、ほっとして、それでいて、元気になれるっていうか、そういう花なんだよね」
そこで少し困ったみたいに景時さんはちょっと黙り込んで、頭をかいた。私はなんだか、また涙が止まらなくて、また、梅の薫りがわかりづらくなってしまって。そしたら、いつものように……それは変な表現だけれど、でも、前のときも、その前のときも同じだったから、本当に、いつものように、と私は感じていた……景時さんは薄絹を渡しにそっと差し出した。私はそれを素直にそれを受け取って……そう、それを受け取ることが当たり前のように……そしてごしごしと涙を拭った。
「そんなに乱暴に擦っちゃ、だめだよ」
そう言って景時さんが私の手から薄絹を取ってそっと私の顔を拭う。いつもと変わらない優しさで、それが却ってそのときの私には痛かった。景時さんはそっと私の手に薄絹を返しながら言った。
「……譲くんや朔に心配をかけたくないんだろうし、泣き顔なんか見せたら九郎にナニ言われるかわかったもんじゃないし
 だから、望美ちゃんは頑張っているんだろうと思うけど。でもね、オレは望美ちゃんに秘密を見られてるからさ、
 君の秘密を知っても、誰にも言ったりしないから。オレの前ではそんなに無理しないで」
私の秘密……景時さんに、私の秘密を言ったら、どんな顔をするだろう。本当に誰にも言ったりしない? そんなのきっと無理だ。平家の還内府を知ってるって言ったら、景時さんは源氏の人だもの、黙っているはずがない。私が黙り込んでぎゅっと薄絹を握りしめたのを見て、景時さんは、その場で思いついたように、話を変えた。
「そうそう、望美ちゃんが言っていた、譲くんのお兄さんね、今、皆に探させているから。
 大丈夫、すぐに見つかるよ。あの辺りはもう怨霊も封じてしまったから、怨霊に襲われるってこともないと思うし……」
それは景時さんの優しさから出てきた言葉だというのは、私は良くわかっていた。私が、ただ一人はぐれてしまった幼馴染を心配しているのだと景時さんは察してくれたのだということも良くわかっていた。私が安心できるように、少しでも元気になれるように、良いことを探して言ってくれたんだと、わかった。でも、それは触れて欲しくないことだった。そのときの私には、将臣くんはいくら探したところで、絶対に見つかるはずがないことが良くわかっていたから。なのに『大丈夫、すぐに見つかるよ』そんな風に言う景時さんが、そのときは、とても憎らしかった。だから、だから、まるで景時さんの言葉を遮るように強く私は声を荒げてしまった。
「…そんなこと! そんなこと、出来るはずないのに、簡単に言わないで!
 すぐに見つかるなんて…! どうして出来るはずもないのに、いい加減なこと言うんですか。
 見つかるはずなんかない、見つかったりしない!」
言ってからすぐに、私は後悔した。それは単なる子どもの癇癪で、八つ当たりで、景時さんは何一つ悪くなんてなくて、景時さんはちょっと驚いたみたいに一瞬目を見開いて、それから、哀しそうな目で、でも笑った。
「あはは、う〜ん……そうだよね〜、ごめんね。
 オレ、いっつも朔にも怒られちゃうんだよね〜、出来もしないことに大口叩いて、ってさ〜
 …………でもね、皆、結構、真面目に、一生懸命に、あの辺り、探しているのは本当だよ、
 だから……」
私は自己嫌悪でまた泣きたくなってしまって、立てた膝に顔を埋めてしまい、景時さんはそんな私に一瞬手を伸ばして躊躇い、そのまま私に触れずに手を下ろした。そしてもう一度
「……ごめんね」
そう言って、立ち上がろうとした。その気配を感じた私は、無意識に手を伸ばして景時さんの服の裾を掴んだ。すぐ隣にあった暖かい空気が去ってしまうのが寂しかった。私はきっと、甘えていたのだと思う。ずるい私は、自分が言ったことが八つ当たりの癇癪だとわかっていて、でも、誰かにそれをぶつけなくては自分がつぶれてしまいそうで、そして、景時さんなら、それを受け止めてくれると、どこかで甘えていたのだ。景時さんは私が服の裾を掴んで離さないのに、戸惑うようにそれでももう一度、私の隣に腰を下ろした。
「……ごめんなさい……私の方こそ、八つ当たりでした」
小さな声で私は謝った。
「……いいよ、望美ちゃんに無神経なこと言っちゃったの、オレの方だしね。
 ホントに、朔にいっつも怒られてるんだよ」
私は膝に埋めた顔を景時さんの方に向けてその顔を見上げて、照れ隠しに言った。
「……妹の八つ当たりにも、慣れちゃってますか」
私は景時さんより10も年下で、そのときもまだ、景時さんの妹気分だった。だから、そんな風に言ってみた。そしたら景時さんが私の方を見て、とても優しい笑顔を見せてくれて。
「……そうだね〜、オレって励ましたり上手じゃないからさ。
 八つ当たりされるのも兄の特権かな〜なんて」
そんな風に優しい笑顔で話される朔を少し羨ましいなんて思った。それからしばらく、黙ったまま座っていて。私はずっと景時さんの服の裾を掴んだまま、将臣くんとどうしたら敵でなくなるのか考えていた。3年前に飛ばされてしまった将臣くん。それはきっと、変えることができないのだろう。それは、将臣くんを源氏側にすることが出来ない、ということなのだろうか。
「……景時さん、3年前って、京は、どんなだったんですか。源氏は、もう平家と戦っていたんですか」
私のそんな問いに、景時さんは不思議そうにしたけれど、でも考え考え答えてくれた。
「ん〜、3年前って言えば、平家の方がずっと強かったよね。平家の世が崩れるなんて、誰も思ってなかったんじゃないかな」
「……景時さんも?」
「……そうだね〜。ずっとこのまま、東国は貧しく、京に年貢を納めるだけが精一杯だと思ってたよ。
 平家に逆らうなんて、とてもとても」
それでは、きっと3年前の将臣くんが源氏に拾われることなんて無理だ。将臣くんが3年前の京にたどり着く限り、めぐり合うのは平家でしかない。では、私は? たまたま宇治川で初めて出会ったのが、朔で。怨霊がいたから助けて。でも、じゃあ、もし、私が始めて出会ったのが、例えば、平家の姫君だったりしたら? もし、還内府になっていた将臣くんと出会っていたら? そしたら、私は、平家の神子になっていた? そこまで考えて、私は、無理だ、と思った。何も知らなかった頃ならそんな道を選ぶかもしれないけれど、でも、今となってはもう無理だ。ありえない。平家について、そしてどうするの? 一緒に怨霊を使って人々を苦しめるの? 朔や景時さんや九郎さんや先生と今度は戦うの?そんなことをする自分を許せるの? 全部NOだ。一度は仲間を殺した知盛や惟盛と一緒に戦えるはずなんかない。敵として認めることはできても、仲間になんてなれない、なりたくない。その命を助けるために戻ってきたというのに、仲間を裏切って敵につくなんてこと、できるはずがない。源氏が正義だなんて思ってるわけじゃない、でも、平家が正しいとも絶対に思えない。どっちがマシかなんて問題でもない、私は、もう、源氏に大切な人たちができてしまった。棄てることも、裏切ることも、できない。
そして、私は将臣くんもそうなのだと気付いた。あの将臣くんが、怨霊なんかを使って人々を苦しめることを是とするとは思えない。それでも将臣くんが平家を率いているのは、その中に大切な人がいるからなんだろう。私からしてみれば、ただ敵でしかない知盛や惟盛も将臣くんにとっては大切な仲間なのかもしれない。そして、それであれば、もう、私と将臣くんは平行線でしか、ない。平家と、源氏が、分かり合うことがない限り、ずっと。
源氏と、平家が、分かり合うことなんて、あるんだろうか。
「……景時さんは、平家は、嫌いですか。憎い、ですか。悪だと思いますか」
唐突な問いに、景時さんはやっぱり不思議そうで。けれど、やっぱり、考え考え、答えてくれた。
「……そりゃあねえ。まがりなりにも敵なんだし。好きとは言えないなあ。
 怨霊なんて気持ち悪いもの作ってくるしさー。怨霊は嫌いだね、あれは間違いなく嫌いだねえ。
 でも、平家の武将には尊敬に値する、名を馳せた方もいるしね、嫌いだから戦うとか、憎いから討つとか、そういう訳ではないよ。
 平家には平家の正義があるだろうし、源氏のやり方が正しいと思ってるわけでもない。
 ……でも、オレたちは、自分たちが仕える主に頼朝さまを選んだ、そういうことなんだ」
自分が選んだ道だから、戦うしかないのだと。それは私や将臣くんと似ていて、違って、でもやっぱり似ているかもしれない。最初は運命に翻弄されて、かもしれない。戦いの道に進んだのは、そうせざるをえなかったからかもしれない。けれど、その後の運命は、私は自分で選んだのだ。戦いの道を、源氏について平家と戦うことを、選んだのだ。そして、今、改めて、やっぱり、私はその道を選ぶしかできないと思ったのだ。
将臣くんが還内府であることは、今は忘れよう。仲間を助けるため、戦を少しでも早く終わらせるために、私が出来ることを精一杯やっていこう。還内府としての将臣くんと今度相対するときは、殺し合うためではなく、源氏と平家が分かり合うためであるように、そのために何が出来るか、運命を選んでいこう。八葉の仲間を誰一人として死なせない、その未来のために。
「……景時さん、ありがとう」
私はそのときやっと、仲間と、自分の運命とに向き合うことができたのだと思う。そして、一日一日の時間を大切に思うようになった。何度も繰り返した同じ日であっても、けして同じではないのだと。一日の積み重ねが新しい運命を刻んでいくのだと、その重みをやっと、知ったのだ。

それでも私は、そんな日々の中で、すべてが同じ重さで自分の心に降り積もっていくわけではないのだということを、まだ知らずにいた。





志度浦の後、尼寺にいる時の回想です。
3周目に入ってやっと望美は前向きになったという感じ。
望美にとっては、源氏につく、ということが重要なのではなくて
仲間を裏切ることはできない、のが最終的に源氏側にいる理由かな、と。




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