大きくて暖かい手-6-



何度も同じ時を繰り返している私の中で、時間は意味があるのかどうかわからない。けれど、今、この冬の尼寺に滞在する私にとって、時間はまるで止まってしまっているみたいだった。どれだけ日が過ぎてしまっても、朝が来て夜が来て確かに私の周りで時間は過ぎているけれど、でも私の中の時間はずっとずっと、志度浦を離れたあの日で止まっているみたいだった。あの日最後に見た、後ろ姿だけが鮮明に脳裏に残っていて、その後のことはまるで夢の中のことみたいに、ぼんやりとしか覚えていない。何があって、どんな風に誰と話して、どうやってここに来たのかも、自分のことじゃなくて誰か別の人のことのようだった。
どうして、私は今、ここでこんな風にうずくまって、景時さんのことを思い出しているのだろう。何故、彼を無くしてしまったことがこんなにもこんなにもつらいのだろう。私の手には逆鱗があって、前のときみたいに、その前のときみたいに、ただやり直せば済むことなのに。失ったことを嘆かなくても、いつもみたいにやり直せばいつだってまた景時さんに会えるのに。なのに、私は未だに立ち上がることもできずに、ただ景時さんの思い出を頭の中で繰り返している。
自分がしなくてはならないことも、ちゃんとわかっているのに、ちっともやる気がしない。暑いとか寒いとか、そんなことを感じることも忘れてしまっているみたいで。ずっと冬の庭を縁で眺めていて朔がびっくりして部屋の中へ押し込められた。
「望美、泣いていいのよ?」
自分の方が泣きそうになりながら朔がそう言って、私はそういえば景時さんと別れてから泣いていないな、と人ごとみたいに思った。だって景時さんがいないのに泣けない。そう思った。だって、いつだって私が泣いているときは、なんでか知らないけど景時さんが来てくれた。ああ、それじゃあ私が泣いたら、景時さんは戻ってきてくれるかな? そんな風に考えて、でも、そんなことは有り得ないってわかっているから、だから私は泣けないんだってわかった。私が泣いても、景時さんが来てくれなかったら、本当にもう会えない気がしたから。
でも行き場を無くした涙は私の身体の中でごうごうと渦巻いて流れて出口を探しているみたいで、その流れに呑み込まれているから、きっと私は何もする気がしないんだろう。
もう一度戻って、やり直さなくちゃ。そうわかっているのに。私は、皆を助けるって決めたんだから。景時さんを失ったまま、この先を進むなんてことは有り得ない。多分きっと、失ったのが他の誰かだったら、もっとずっとあっさりと私は逆鱗を手にしたと思う。涙を流すこともできたと思う。その涙を拭い背を押してくれる大きくて優しい手があったら、きっと迷わずにもう一度時空を遡ったと思う。
全然寒く感じないから、雪の積もった庭に降りてみた。丹精に手を入れられた庭だったけれど、やっぱり京邸の庭の方が好きだったな、なんて考えている。景時さんの部屋から出たあたりに梅の木が植えられていて、それが立派な白梅と紅梅で、屋敷を借りるとき、もしかしてこの2本の木があったからここに決めたんですか、なんて尋ねたりしてたっけ。景時さんがいなくなっても、あの木はこのまま時間が過ぎて春が来たら花を咲かせるんだろうか。景時さんがいないのに、春が来るなんてこと、あるんだろうか。あるんだろう。そんなこと、想像もできないけれど。
(景時さん、私、景時さんがいないと何もできなくなっちゃったみたい)
こんなに自分が弱いなんて思ってみたこともなかったのになあ、と笑ってみたけれど、多分ヘンな顔になっただけだろうなと思った。
何度時空を遡ってやり直しても、結局、皆を助けるなんてことは無理なんだろうか。必ず誰かを失わないといけないんだろうか。何度も何度も、私は誰かが死ぬのを見届けなくちゃいけないんだろうか。景時さんを助けて、そして今度は違う誰かが死んだら? その誰かを助けるために、また景時さんが死んだら? 皆を助けるために私は何度時空を遡って、どれだけの時間を過ごせばいいんだろう? 諦めちゃったら終わりだとわかっているけれど、でも、もう疲れちゃったら、私は、誰かを切り捨てたりするんだろうか。そう思うと、とても怖い。
『大丈夫だよ』
ずっとずっと、その怖い考えは私の中の片隅にあって、けれど、そんな怖い考えも景時さんにそう言ってもらったら本当に大丈夫な気持ちになれたのだ。なのに、そうやって言ってくれる人がいなくなって私は身動きができなくなっている。
違う誰かにそう言ってもらったら、それでも私は大丈夫だと思えるだろうか。それとも、景時さんだけが特別なんだろうか。
『望美、あなた、兄上のことを好きでいてくれたの?』
そう朔に尋ねられたとき、私はすぐに頷くことはできなかった。だって、考えたこともなかった。恋っていうのはもっと甘くて優しくてときめくものであるはずで、私と景時さんはそんな風じゃなかった。でも、傍に居なくなるってことをちっとも考えていなくて。ずっと一番近いところにいた将臣くんが頼っても良い存在じゃなくなったときから、景時さんは唯一、私が弱さを見せられる人だった。それは恋っていうものではなくて、でもじゃあ何かと問われたらわからない。わからないけれど、とてもとても大切な人だったのだけは確かで、だからしばらく考えた後、私は朔に言ったのだ。
『わからない……でも、景時さんが居ないって考えたら、生きていくことが怖い』
このまま立ち止まっているのも、立ち上がってもう一度運命に挑むのも、どちらも怖い。それが私の本心かもしれなかった。もう一度、あの優しい手に触れたい。景時さんがいないのに時が過ぎていくのが怖い。でも、また同じ苦しみを味わうことになったら、何度も何度も大切な人たちを失う痛みを味わうのは苦しくて辛い。それでも、私には本当はわかっていた。結局、立ち上がって、運命に挑むしかないのだって。逆鱗を手にして、自分の意思で時空を遡ったときから、最後までやり通すしか道はないんだってわかっていた。
「行かなきゃ……」
行かなくちゃ、やらなくちゃ。景時さんがいなくても、自分で一歩を踏み出さなくちゃ。だって、そうできていたのに、前の私はそれができていたのに。何度も時を遡って、何度も誰かを失って、慣れるどころか、どんどん弱虫になっていくなんて。可笑しいよね、人は慣れる生き物のはずなのにね。
「行かなきゃ……最後までやり通さなくちゃ」
ちゃんと、誰も死なない未来までたどり着かなくちゃ。
「望美っ!!」
不意に後ろからすごい勢いで抱きしめられてびっくりした。朔が私の背に顔を押し当てて、泣いていた。雪の庭に裸足で飛び出して。
「…朔……足、冷たいよ?」
そう言ってから、そういえば自分もそうだったと思って、でも、私は寒くないしなあって思ってなんだか可笑しかった。でも、朔はちっともおかしくなんてないみたいで、相変わらず私のことをぎゅうって抱きしめていた。朔の手は細くて、きれいな手で、兄妹でもやっぱり性別が違うから、景時さんとは全然違う手なんだなあ、なんてぼんやり眺めて思った。
「……お願い、望美。哀しかったら、泣いて。辛かったら、何でも吐き出して。
 一人で、苦しまないで。お願い、約束して」
朔が言う。でも、私はその言葉で思い出していた。
「……約束、したの」
そうだ、約束したのに。傍に居ます、って私は約束したのに。景時さんの傍にいます。そう言ったのに。行かなくちゃ、もどらなくちゃ。誰も死なない未来にたどり着くまで戻ってやり直さなくては―そう思っていたときは足が竦んでいたというのに。約束を思い出して、その約束を果すためにもう一度戻らなくちゃと思ったら、それは焦燥のように私の内を焼いた。景時さんと一緒に。その先がどんな運命だっていい、景時さんと一緒に、ずっと傍に、その約束を果せるのなら、と。
「行かなくちゃ……ねえ、朔。私、行かなくちゃ」
朔に腕を引かれて部屋へと連れ戻されながら、私はそう繰り返していた。
そして、その日の夜。私を心配して朔も同じ部屋で眠っていたのだけれど、私は少しも眠るつもりはなくて。ただ朔に心配をかけないようにと眠ったふりをしていた。そして朔が寝入ってからしばらくしてそっと床を離れる。
「ごめんね、朔」
ありがとう。私は、景時さんのことが好きなのかな。わからないけれど、でも、立ち止まってしまう弱さも先へ進む強さも、景時さんに影響されてるのはわかる。何時の間にか、景時さんの前でしか泣けなくなっていたり。誰にも言えない私だけの秘密――こうして時空を越えて何度も運命をやり直しているということも――景時さんになら言えるかもしれないって思う。景時さんを好きか、なんてわからないけれど、でも、景時さんが必要だってことだけは確かなのだ。景時さんとの約束を果すためなら、もう一度運命を辿ることも怖くない。たとえ行き着く先が志度浦の砂浜の上、景時さんと二人きりだとしても。
そして、私は、逆鱗を握り締めた。

■□■

寒いなあ、と私は思った。ちゃんと寒いと感じる自分が少し可笑しい。空はどんよりと暗くて月は見えない。雪は降っていないけれど、宿の庭には先日の雪がまだ残っていた。吐く息は白くて身体も冷えてくるのだけれど、なんだかまだ部屋には戻りたくなかった。なんとなく、こうして縁に出て庭を眺めていたら景時さんが来てくれそうな気がしたからだ。
「望美ちゃん、寒いよ?」
ほら。いつだってちゃんと景時さんはわかってる。
「……景時さんを、待っていたんです」
そう言って振り向く。今日の戦の最大の功労者である景時さんは、でも、あまり元気そうではなかった。疲れちゃったから、と言って早めに宴を抜け出してもいたから、少し気になってはいたのだけれど。
「オレを? どうかしたの?」
ちょっと驚いたように景時さんが言う。何の用かと尋ねられたら私は少し困ってしまう。ただちゃんと確かめたかっただけだったから。景時さんが生きているということ。私がちゃんとやれたということ。でも、景時さんの顔を見ていたらそれだけで、ずっとずっと内側に堪っていた熱い塊が喉の奥からせりあがってきて、口を開けばそれが溢れてしまいそうで、私はそれ以上何も言えなかった。
「の、望美ちゃん?!」
なのに景時さんが慌てたみたいに声をひっくり返してそう言って駆け寄ってきたから私はびっくりして。そして、景時さんがその手で私の頬を撫でて――そして、自分が随分とみっともなく泣いていることに気付いた。止めようと思って止まらない涙に私は自分でも閉口して「ご、ごめんなさい」そう言うけれど。景時さんは何度指でぬぐっても溢れてくる私の涙に、そっと私を胸に抱きしめた。少し驚いたけれど私は全然いやじゃなかったし、こうして景時さんの腕の中に納まっていることはとても自然なことのように思えた。
「ごめんね。今日、すごく心配させちゃったよね」
そう景時さんは言う。私は景時さんの衣を強く握った。怖かった、辛かった、立ち止まってしまいそうだった。
「……死なないで、ください。景時さんが、死んだら、私、どうして良いかわからなくなります」
これはきっと恋じゃない、恋というほどに甘くもなく優しくもない。でも、景時さんを失ったらきっと私の心は永遠に欠けてしまうだろう。そんな思いを伝える言葉を私は知らない。だから、多分、一番近いと思う言葉をただ唇に乗せた。
「……私、きっと、景時さんを愛しているんです」





尼寺にて。そして時空を越えた先で。
本当はここで終わろうかな〜と思っていたんですけど。
もう一回続くことになりました(^^;



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