麗らかな春の日
屋敷の南側の庭で木蓮が白い花を咲かせている。初めて見た頃は何の木だか知らなくて、その名前を教えてくれたのはこの館の主・景時だった。 初めてやってきたここ、異世界の京で自分たちが住まうことになった館は広くて庭もいくつかあって、でも景時のお気に入りは日当たりの良い南側のこの庭だった。そして、望美のお気に入りもいつのまにか、ここになった。 日当たりの良い庭は、忙しい景時が屋敷にいるとき、必ずそこで時間を過ごす庭だったから。初めて景時と出会ったのも、この庭だったから。 そして、今日も景時がお気に入りのこの庭でお気に入りの作業をしようと歩いてくるのが見えた。ただし、その後ろには彼を追いかける屋敷の下働きの老女の姿があった。多分、ここへ来るまでにもさんざんやりあってきたに違いない。
「景時様、そのようなことは私どもがやりますから!」
「いいの、いいの、オレに任せといてよ〜」
「久しくお休みがなくてお疲れですのに、いけません、そのようなことを景時様にしていただくとは!
私が叱られてしまいます」
「ん〜、オレがいいって言ってるのに、誰が叱るのかなあ?」
のんびりした口調で、けれど断固として洗い終えた洗濯物の入った盥を譲らず手の届かぬ自分の頭上に抱えて、景時が庭を歩いて行く。
「神子様、神子様からも何かおっしゃってください!」
縁に腰を降ろして、もう何度目かになるそんなやりとりを微笑みながら眺めていた望美は、不意にそう助けを求められてどうしたものかと思案した。 ずっと長く心を蝕んでいたことが終わりを告げ、やっと心から晴れ晴れとした気持ちになれた景時が、それが趣味という洗濯を楽しみたいという気持ちは望美には十分わかる。 しかし、一方でそれを仕事とする者が、自分の仕事を奪われて困惑するのも良くわかるのである。普通に考えて、一家の主である景時が洗濯を行うなど考えられない。いくら言い聞かせられたところで、慣れないのも仕方ないのだろう。
「えーと、2人で一緒にするっていうのは、ナシですか」
どうしたものかと望美が思いつつ、そんなことを言うと、景時は相変わらず盥を掲げたまま、弾けたように笑い出し、老女は尚更に困惑した表情になった。それへ向かって景時が
「ほらね、オレが洗濯するのなんて、もううちじゃ誰もなんとも思ってないんだから。
仕事がなくなったのを幸いと、休んでおいで。どうせ後は干すだけなんだし。
それにね、オレが屋敷に居ない日に張り切って仕事に励んでくれればいいから!」
と言うと、やっと諦めたように下がって行った。望美は縁から降りると、盥を降ろして鼻歌交じりに早速洗濯物を干し始めた景時の傍へと歩み寄った。
「……あんまり、お仕事取り上げちゃったら駄目ですよ」
そう言うと望美も盥の中の洗濯物を取り上げて広げ、ぴんと伸ばして干すのを手伝おうとした。 片眉をくい、と上げて、望美の言うことに表情で疑問を投げかけた景時を、望美は上目遣いで少し諌めるような表情で見上げた。すると、望美のいいたいことを察したのだろう景時が苦笑しながら言葉を返した。
「それ、望美ちゃんが言うのかい? オレもさあ、いろいろ聞いてるよ?
神子様が全然お世話をさせてくださいません、って。何か私どもに不満でもお持ちでいらっしゃるのでしょうか、って
泣きついてくるからさあ。そんなこと、あるわけないでしょ、って言っておいたけど」
そう言われては、望美も黙るしかない。ただ、言うとすれば望美がいた世界では、この屋敷のように従者や下働きの者がいて、あれこれ面倒を見てもらえる人間など、雲の上の生活をしている人のことであって、望美とは縁のない世界のことだったのだ。 いくら1年以上をこの世界で過ごしているとはいえ、誰かが自分を主人として仕え、手伝いをしてくれるなど、どうにも申し訳ないという気持ちが先に立つのだ。 だいたい、この世界に来て1年以上をすぎたとはいえ、そのうちの半分以上が旅だ、戦だ、で、自炊に近い状態だったのだから尚更である。
「そ、それは〜……私はまだ、こっちの世界の決まりごととか慣れないからで……」
と言い訳しようと試みた望美だったが、そんな言い訳は景時にはする必要もない、と気付いて途中でやめた。正直にありのままを告げれば彼はそんな望美をちゃんと受け入れてくれるのだから。
「……んーと、なんだか、世話されるのって気恥ずかしくて。できるだけ、なんでも自分でやりたいって思うのもあるし。
……駄目ですか?」
「……好んで洗濯なんかやっちゃうオレが、それを駄目って言えるわけないでしょ。
ま、家の者にはさ〜、世話のし甲斐がないっていうか、仕事させてくれない、困った主だって思ってもらうしかないかもね。
オレも、望美ちゃんもね?」
思ったとおり、あっけらかんと景時はそう言って鼻歌交じりに手にした洗濯物を干し始める。いつだって、ありのままの望美を受け止めてくれる景時に望美は救われてきたのだ。 神子である自分を特別だと思わず、普通の春日望美として扱ってくれた。神子としての力を望美の中にちゃんと見出しながらも、望美自身の心は普通の女の子なのだということを前提にしてくれた。それはずっと変わらなかった。
「……似たもの同士って思われてるかもしれませんね」
くすくす、と笑いながら景時の言葉に望美は相槌を打った。特に考えて口にした言葉ではなかったが、景時はその言葉に少しばかり嬉しげに照れた顔になった。
「うーん、似合いの夫婦になると思われるんなら嬉しいけどねえ〜」
その言葉に、望美も顔が熱くなる。正式な披露はまだだが、景時は望美との結婚の許しを頼朝から取り付けていた。 鎌倉を出るときのついでに、好きにせよとという言葉を得ているのだ。実際は、いろいろと含むところのある言葉ではあったが、頼朝自身が何かを企むつもりはないようだったので、これ幸いと準備を進めているところだ。 実際、頼朝にしても龍神の神子が自分の腹心の下へ嫁ぐのは都合がいいのは間違いがないので、邪魔をする謂れもない。しかし、一番の障害はというと、いまだ混乱をしている西国の事情であって、鎌倉から戻って以来、景時は忙しい日々を送っていた。 もちろん、九郎や弁慶も同様であって、景時一人が忙しいわけではない。恩賞に領地に、土地のいざこざを治めることや、鎌倉に従わぬ者との交渉、朝廷とのやりとりと、刀や銃は必要なくともそれはある意味、頭を使った戦のようでもあった。 だいたいが、九郎が正直すぎて、武士たちからは慕われるものの朝廷のようなところとの交渉にはさっぱり向かない。結局、景時が相対することが多くなる。 景時だって言外の裏の意図を読み取ることはできるが、そういう交渉が好きなわけではない。自分まで腹黒くなりそうで疲れることこの上ないのだが、せっかく手にした平和な日々を守るためにはそれは必要な苦労であり、今の景時にはこれくらいの泥を被るのはたいしたことではないと思えた。のだが、それでもやはり精神的に疲れることは間違いなくて、休日といえば、こうして洗濯してみたり、望美のそばで寛いだりするのが何よりの幸せで。 おかげで、やっぱり婚儀の準備がなかなか進まなかったりするのだった。望美にしても、婚儀が済もうが済むまいが、梶原邸に住んでいる今とさして何かが大きく変わるとも思えず、案外のんびり構えているので、むしろ朔や景時の母の方がやきもきしているような状態でさえあるのだった。
「なんだか、ちょっと待たせちゃって、ごめんね、望美ちゃん。
内輪だけで、先に式を済ませてしまうっていう手もあるんだけどさ」
「いいですよ。内輪でって言っても、そうはなかなかできないんでしょ?
今だってこうやって、一緒にいられるし。形よりも、それが一番嬉しいんですから。
それより、忙しすぎて身体壊したりしないでくださいね。そっちの方が心配です」
確かに、2人仲良く並んで洗濯ものを干している姿は、傍目に見ても、もうすっかり夫婦のようだった。使用人たちも、もちろん『神子さま』と望美を呼んでいるが、その扱いはすっかり景時の正室としてのそれだ。
「う〜ん、でも、あんまりノンビリしすぎてもね……朔や母上も中途半端は良くないってうるさいし。
……オレもね……正式に望美ちゃんを、ちゃんとオレのモノにしないとちょっと心配かなー」
後半は半ば口の中で呟いて。それから景時は少し考え込むような真面目な顔になり、黙って残りの洗濯ものを干し始めた。 そんな景時をちらりと横目で眺めた望美は、また何か新しい発明でも閃いたのかと、少し微笑んで、いつの間にか覚えてしまった景時作曲(?)の鼻歌を口ずさみながら、同じく洗濯ものを干していった。
はたはたと白い洗濯ものが風に揺れている様子を縁に腰掛け、柱に背を預けて景時は眺めるでもなく眺めていた。暖かな日差しが心地よく降り注ぎ、穏やかに静かな時間が過ぎて行く。 ほんの半年も前はこんな時が訪れるなど考えもしなかったし、1年前は、自分の傍らに誰かが寄り添ってくれる未来があるなど思ってもいなかった。それを手にする勇気をくれたのは間違いなく、今自分の傍らにいてくれる望美で、それを守るための武器を用いない戦いはこれからも続いていくのだろうけれど。例えば、朝廷との駆け引き、鎌倉とのやり取り。 でも、望美が居てくれる限り、負ける気は全くしなかったりもして、自分の心根の変わりように些か自分でも驚いたりすることもあるのだ。そんな景時の心がわかったのか、隣で同じように穏やかな景色を眺めていた望美が、こつん、と景時の肩に頭をもたれ掛けさせる。
「あったかくって、気持ちいいお天気ですね」
その表情を見下ろすと、優しい瞳で風にはためく白布と緑の木々、青い空を眺めていて、景時は彼女もまた自分と同じようにこの風景の中に尊い何にも代えがたい幸せを感じていてくれるとわかり、胸がいっぱいになった。
「ここって、いつもお日様がぽかぽかしていて。お気に入りなんです。景時さんもそうでしょ?」
「そう。オレねえ、日当たりのいい場所見つけるの得意なんだよね。昼寝するのに最適な場所っていうの?」
くすくす、と楽しげに望美が笑う。そして甘えるように景時の肩に頭を擦り付ける。
「景時さんがお仕事でいないときも、お昼寝日和なときは、ここで日向ぼっこするんですけど。
でも、今日はいつもよりずーっと暖かくっていい気持ち。……景時さんと一緒だから」
そう言ってから、恥ずかしそうに首を竦める。その様子がとても可愛くて、さっき胸がいっぱいになった愛しさが溢れてしまいそうになる。 彼女と一緒にいると、すぐにそうなってしまうのだ。景時は自分の肩にもたれた望美の頭にそっと自分の頬を載せた。細い肩に手を伸ばして抱き寄せる。
「……決めたよ、望美ちゃん」
「? 何をですか?」
「あと、ひと月。来月には婚儀を挙げよう! オレ、目いっぱい働いて来月には片付けるから!
もうね、準備も急ぐから」
「景時さん……」
突然の宣言に望美が驚いた声を出す。
「望美ちゃんをね、ちゃんと、迎えたいんだ。
本当はもうね、鎌倉から戻ったときからずーっと今すぐにでもって気持ちだったんだけどね。
まさか、ほんとにこんなに忙しくなるなんて思ってもいなくてさー。
休みが来たら、もう少し片付いたら、と思ってたら今までずるずる来ちゃって。だから、考え直したんだ。
休みが来たら、じゃなくて、もう、必ず休みにする! 必ず片付ける!」
意気込む景時に、望美は可笑しそうに笑った。
「望美ちゃんは、どう? それでいい? 『神子さま』から『梶原殿御内室』になるのって、どう?」
力強い宣言の後に、なんだか少しばかり自信なさげな言葉が続くのに、望美はなおさらに可笑しげに笑う。どうして、そんな質問をする必要があるのだろう、と可笑しくて。そんなこと、尋ねるまでもないのに。
「神子さま、って呼ばれたときは最初、全然慣れなかったです。なんだか、自分のことじゃないみたいで。
でも『梶原殿御内室』って、なんだか、もっと、慣れなくて、くすぐったくて、恥ずかしくて……」
ちらりと景時を見上げると、思いのほか真剣な表情で望美の答えを聞いている。それがまた愛しくて望美は笑いながら言葉を続けた。
「……なんだか、もっと、ずっと、嬉しいみたい、です」
ほっとしたような一瞬の表情の後、これ以上ないくらいに嬉しそうな笑顔になった景時と望美が顔を見合わせる。
ひだまりの中、二人、いつもと変わらない穏やかな時間を、きっとこれからも、ずっと、一緒に。
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