心の欠片・前編


その日、いつもと同じように六波羅で大量の書状に埋もれそうになっていた景時の元へ至急の使いが京邸からやってきた。今までにないことに九郎や弁慶までもが何事かと座を立って縁へ出る。京邸より休みなく駆けてきた男は、息もまだ整わぬままに平伏し、地に額をすりつけんばかりにして、絞り出すような声で景時に告げた。
「お方さまがお倒れになられましてございます。
 市中にてお倒れになられまして後、意識が戻られませぬ!」
「ええっ!!」
その言葉に景時はもちろん、九郎も弁慶も言葉を失う。源平の戦を終え、鎌倉との確執を越えて平穏な日々を手にした景時たちは、西国統治のため忙しい毎日を送っていた。しかし、戦の日々の中でお互いの想いを育んでいた景時と望美は忙しい日々の合間を縫って祝言を挙げていたのである。つまり、使いの者が告げたのは望美が倒れたということだ。景時にしてみれば何にも代えがたい愛妻、九郎や弁慶にとっても大切な仲間である望美の一大事ということで、取るものとりあえず景時は京邸へと駆け戻ったのであった。弁慶も私邸で薬草を何種か見繕って京邸へ急ぐと言い、九郎も仕事が一段落次第駆けつけるということであった。
「朔、望美ちゃんはっ」
邸に戻るや否や奥へと一目散に駆け上がった景時は、おそらく望美が倒れたときに一緒に居たであろう妹に詰め寄る。景時に似ず、常に落ち着いた朔も今日ばかりは兄のその落ち着きない様に小言を言うこともなく、不安げに首を振るばかりだった。むしろ、景時が帰ってきたことにほっとしたのか、今にも座り込んでしまいそうな身体を景時の腕に縋って支えるかのようである。
「どうしたの、何があったの?」
そんな朔の身体を支えゆっくりと座らせ自分も目線の高さを合わせるようにしゃがみこむと景時はそう問いかけた。
「……市に、買い物に行ったのです。兄上の『誕生日』とやらが近いというので…望美の願いで。
 そうしたら、市の外れに怨霊が出たと……」
平家の者たちは南へ落ち延び、五行が整ったとは言うものの平家によって産み出された怨霊でいまだ封印されず彷徨うものが稀に居た。そんなときは勿論、景時たちが駆けつけ望美の手を借りて封印を行ってきた。それは神子と八葉の役目であり、怨霊を封印できるのは神子たる望美だけであるからだ。しかし、それはあくまでも神子と八葉が共にあってこそ行ってきたものだった。
「まさか、望美ちゃんひとりで封印しに?」
思わず固くなった景時の声に、朔はただ声もなく頷いた。
「そんなに強い怨霊ではなかったのです。けれど、望美が封印したと言って振り向いた途端に……」
怨霊が最後の力を振り絞るように弾けたのだという。その欠片が望美を貫き、途端に倒れたと。
「穢れを受けたってことか…」
「ですから兄上に早く知らせようと……」
「わかった。望美ちゃんは、部屋?」
朔をその場において景時は望美の部屋へと向かった。本来なら望美は神子である、穢れを受けるはずなどないのだ。そこを訝しく思いながらも景時は部屋の戸を開けた。褥に望美が横たえられている。朔が整えたのだろう、単の夜着となって静かに眠っていた。そっと近づいて傍らにしゃがむとその顔を覗きむ。顔色は悪くなく、特に変わった様子も見られない。穢れを受けたにしてはその気配がない。苦しんでいる様子もない。そっと耳を近づければ、呼吸も心音も変わりなく落ち着いたものだ。景時は手を翳して望美の放つ気を確かめるようにそっと頭から身体へと滑らせた。目を閉じて望美の気を探るがやはり、穢れらしきものを感じ取ることができない。自分の力不足かと景時は落胆して目を開ける。そっと望美の髪に手を滑らせ、その頬を撫でた。すると、ぴくり、と望美の瞼が震えた。
「望美ちゃん?!」
景時は慌てて望美の顔を覗きこんだ。ふるふると睫が震えてゆっくりと瞼が持ち上がる。どこかまだぼんやりとした瞳ではあったが、望美は確かに景時の姿をその目に捉えたようだった。
「…か…げとき…さん……?」
ゆっくりとその唇から景時の名が紡がれる。景時は思わず望美を抱き起こして強く抱きしめた。
「よ、良かった〜! 望美ちゃん、良かったよ、びっくりしちゃったよ〜!!
 大丈夫? 痛いとことなんかないかい? 気分悪いとかない?」
「…や、……や…………いやあぁぁーー!!」
望美の叫び声と同時にどんがらがしゃーんと派手な音が鳴り響く。驚いた朔が駆けつけたとき、部屋の中には真っ赤な顔で自分自身の肩を抱きしめ涙目になっている望美と、突き飛ばされたあげくに柱で頭を打ち呆然とした表情になっている景時の姿があった。
「何、何があったの……兄上、望美に何をなさったのですか」
震える望美に駆け寄りその肩を抱いて朔が景時を睨む。景時は起き上がって居住まいを正すと痛む後頭部を抑えつつ望美に謝った。
「う、うん……ご、ごめんね、驚かせちゃって……望美ちゃんが目を覚ましたから嬉しくて……」
望美に拒絶されるなんてことを考えてもいなかった景時である、内心の衝撃は隠しきれずその言葉はどこか力ない。朔に隠れるようにまだ赤い顔をした望美は
「す、すみません、思いっきり突き飛ばしちゃって……で、でも急に抱きしめられたから
 ……び、びっくりしちゃって…
 私、何か病気だったんですか」
「あなた、市中で怨霊を封印したときに穢れを受けたのよ」
朔が望美を落ち着かせるようにそう言う。
「そ、そうだったんだ。ごめんなさい、迷惑かけて…景時さんもごめんなさい、
 心配してくださったんですよね」
「い、いや、いいんだよ、望美ちゃんが無事だったらいいんだ」
景時はそう言うが何処か二人とも気まずい雰囲気が漂う。それを振り払うように望美が些か無理をしたような元気な声で言う。
「うん! もう大丈夫だから! 早く鞍馬に行かないと!
 結界を解いて早くリズ先生に会わなくちゃ」
その言葉に景時も朔も驚いて言葉を失う。
「……望美?」
何を言っているの、と朔は望美の手を握り締めるが、望美の方はといえばそんな二人の驚きぶりの方が不思議なように二人を交互に見比べる。
「え? ……ど、どうしたの? だって、景時さんに鞍馬の結界を解いてもらって……」
「望美ちゃん……」
二人の様子がおかしいのに望美もどこか焦った様子になる。
「ほら、だから朔のお兄さんを探してたけど、お邸に戻ったら景時さんがお洗濯してて、だからこれで鞍馬に行けるって……」
だがその言葉はだんだん小さくなる。不安げに二人を見比べた望美は小さい声で朔に言った。
「……朔、わたし、どうかしたの? 譲くんや白龍は……?」
「……兄上、しばらく出ていていただけます?」
朔は望美の手を取ると静かにそう言い、景時はその言葉に従って静かにその場を立ち去ったが、その足取りはふらふらと定まらないものだった。


うらうらとした日差しが春の庭に差している。梅の花は終わってしまったが吉野の山は桜が盛りとかで、今度休みを貰って望美と朔と一緒に見に行こうと言っていたのだった。そう決めたとき、望美はとても喜んで。
『景時さんがお洗濯していて……』
あの言葉からすれば、望美の中で自分は昨日会ったばかりの朔の兄、という存在としての記憶しかないということだろうか。それは、そんな人間に目が覚めてあんな風に抱きしめられたら驚くどころではないだろう、と景時は先ほどの望美の反応に得心する。
怨霊の最後の一撃が望美を貫いていったと朔は言ったが、それと関係があるのは間違いないだろう。どうすれば良いか……それを考えねばと思いながらも、動揺が激しくて上手く頭が廻らない。麗らかな天気とは正反対のどんよりとした気持ちで、縁に座り込んだまま景時は何度目かの溜息をついた。
「……景時、さん……」
遠慮がちにその背に声がかけられる。景時がおそるおそる振り向くと、少し離れたところから景時を伺う望美の姿がそこにあった。
「もう大丈夫?」
何でもなかったように景時は明るく笑顔を装った。こんなことは随分と慣れたものだ。もちろん、こんな作った笑顔はいつもなら望美に見破られていたけれど。でも、望美はほっとしたような顔になって景時の傍までやってくると景時の隣に座った。ただ、二人の間には微妙な間があって、それを景時は寂しげに見遣った。望美はそれを意識していないようで、ああ、これが二人の間の距離だったんだな、と景時は思い返す。元々あった二人の距離。出会ったときはこうだったのだ、と。それが何時の間にかぴったり隙間なく隣り合わせに座るのが当たり前になっていて。
望美は自分の膝に手をおき、その手をじっと見つめて言った。
「あのっ……あの、ごめんなさい……朔から、全部、聞きました……」
「ええっ、全部って、何を全部……」
景時は慌てる。でも望美はぎゅっと強く手を握り締め、頬を赤くして応える。
「その、全部……戦が終わったこととか、私はその後も自分で決めてここに残ったこととか……
 …………えと、あの……景時さんと……夫婦になった、こと……と…か……」
俯いたその頬が真っ赤に染まっている。景時は内心深く溜息をついた。全部話してしまったのか、と。
「……気にしなくていいよ、望美ちゃん」
「でもっ……」
がばっと望美が顔を上げる。
「いいんだ、本当に、気にしないで。それよりも、びっくりしちゃったでしょ、望美ちゃんこそ。
 そうだよねえ、まさか昨日会ったばかりの人と夫婦になっちゃってるなんてさあ〜」
あはは、と景時は声をあげて笑う。自分でもなんだか情けない声だなあと思ったが、それが今の望美には気付かれないのが幸いだと思った。
「……景時さんは、私の何処を好きになってくれたんですか?」
不意に望美がそう尋ねる。え、と景時は顔を上げた。まだ赤い頬をしたままの望美が庭をじっと見つめながら……景時の顔を見るのはどうにも恥ずかしいらしい……そう言う。
「だ、だって……私なんて、景時さんから見たら朔と同い年の、妹みたいなものじゃないですか。なのに、何故かなって……」
「……オレはね、望美ちゃんに救われたんだよ。君がいてくれなかったら、オレはこんな幸せを手に入れることはできなかった。
 君を好きにならずにいるなんて、絶対無理だった。
 オレの方こそ、ずっと聞きたかったよ、君はオレの何を好きになってくれたんだろう、って」
けれど、今の望美はその問いへの答えを持ち合わせてはいない。じっと庭を見つめていた望美が小さく呟いた。
「……優しいところ、かな」
「え?」
景時は望美を見遣る。望美は恥ずかしそうに景時を一瞬だけ見遣ると、もう一度、言った。
「優しいところ、なんじゃないかな、って。
 景時さん、さっきからずっと私を気遣ってくれて。だから……」
望美は望美なりに様々に考えをめぐらせているのだろう。一体自分は何を思って景時と夫婦になったのだろうか、と。
「……ありがと。でも、いいんだ、本当に無理しなくてもいいんだよ。
 オレのことを好きになろうとか、そんな風に無理しなくても大丈夫」
そう言うと景時は立ち上がった。
「あのっ、景時さん…?」
何か自分が間違いをしてしまったかと望美が不安げな顔を上げる。景時はそんな望美を安心させるように、ただ繰り返す。
「大丈夫だよ、気にしないで。ちょっと出かけてくるだけだからさ」
「あのっ、私のことだったら一緒に……」
「いや、いいんだ大丈夫。望美ちゃんは邸に居て。また何があるかわからないでしょ、だから」
そう言い置くと足早にその場を去る。望美が自分の背中を見ている視線を感じたけれど、どうしようもなかった。望美の中から自分との様々の出来事が失われてしまっているということがあまりにも苦しくて、望美の傍にいられなかった。望美の記憶は果たして戻るのか。どうすれば戻るのか。もし、戻らないというのなら、どうすれば良いのか。考えなくてはならないことは多く、しかし、景時には考えをまとめることは、まだ出来そうもなかった。
「殿、いずこへお出かけになられまするか」
邸を出ようとすると郎党に声をかけられる。
「神泉苑へ出向く」
そう言い置いて景時は邸を出た。神泉苑は白龍と通じている場所だ。望美がいなくて白龍と会えるかはわからないが試してみるしかないだろう。望美の一大事だ。神子の異変を白龍ならどうすれば良いかわかるかもしれない。
ぐっと息を飲み込んで景時は磨墨に跨ると神泉苑へ向かった。


望美は庭を眺めて深く息をついた。目が覚めてみたら戦も全て終わっていて、自分は景時と夫婦になったのだという。望美にしてみれば景時は大切な仲間だが……彼と出会ったのは望美の感覚では昨日だが実は既に一度運命をやり直しているのでそれなりに彼のことは知っているつもりだが……そういう対象としてみたことがない存在だったのだから驚いた。驚いたのだが、変に落ち着いている自分もいて、それが不思議だった。
(なんかねー……イヤだとは思わなかったのよね)
普通好きでもない男と夫婦だと言われたら驚くし、嫌な気持ちになるだろうと思うのだが、驚きはしたものの嫌な気持ちにはならなかった。景時の人柄かもしれないが、そうなんだ、と変に納得したような心持にもなった。もちろん、夫婦というからには
(……あんなことやこんなことも、しちゃってるんだろうなあ、多分……)
そう思うと恥ずかしくて景時の顔を見ることができないのではあるが。
(私、景時さんのどんなところを好きになったのかな。どんな恋をしたのかしら)
それを知りたいと思った。記憶をなくして気になるのが、そんなことだというのが自分でも変な気がしないでもないがそれが一番気になるのだから仕方ない。自分がこの世界で、何を経験し感じたのか、それを辿りたいと思った。
(うーん、でも景時さんには外に出ちゃ駄目って言われているしなあ。どうしよ……)
とりあえず、邸の中を探検してみるかと望美は立ち上がった。邸の者達に話を聞いてみれば、自分と景時はどんな夫婦だったか少しはわかるかもしれない。


神泉苑へ着いた景時は陰陽銃で結界を張った。そしてその中央で祝詞をあげる。神子たる望美以外の人間が…たとえ八葉であろうとも…白龍を呼び寄せることができるのかはわからなかったが、白龍のことだ、望美の異変に近くまで降りてきているかもしれない。案の定、しばらくすると神泉苑の上空に雲が渦巻き、風が吹きつけ始める。景時はなおも龍神を奉る祝詞を唱え続けた。

…景時

その声に応えるように、聞き覚えのある声が景時を呼ぶ。景時は祝詞を唱えるのを止めて目を開けた。
「景時」
龍の姿ではなく、馴染んだ人の姿で白龍がそこに立っていた。
「やあ、白龍。良かった、オレの呼びかけでも来てくれたんだね」
ほっとした面持ちで景時は白龍に笑いかけた。その言葉に応えず、白龍は短く告げる。
「神子は大切にしているものをなくした」
少し哀しげに白龍が言う。やはり、白龍も神子の異変を感じ取っていたのだ。景時は白龍に向かって尋ねた。
「望美ちゃんに何が起こったか、わかるかい? 穢れを受けたのかな? それにしてはオレには穢れを感じ取れなかったんだけど…」
しかし、景時の問いに白龍は首を横に振った。
「違う、神子は穢れを受けたのではないよ。怨霊を封印したときにその怨霊の最後の攻撃を受けた」
それは朔からも話を聞いた。そのときに穢れを受けたのかと思ったのだ。
「怨霊はそのまま封印されたけれど、神子はそのときに心の欠片を失った」
「心の欠片…?」
「そう。神子が大切にしていた心の奥の思い出たち」
「それは無くなってしまった、ってことかい……?」
その心の欠片が失われてしまったというのなら、望美の記憶は二度と戻らないということになる。
「そうじゃない、飛ばされてしまったんだ。心の欠片を探し出せば神子の心は元に戻る」
それを聞いて景時はほっと息をついた。望美の記憶は戻るのだ、その心の欠片を取り戻せば。しかし景時はそこで考えてしまう。心の欠片を取り戻すことは本当に望美のためになるのだろうか?
「景時?」
白龍が黙ってしまった景時に声をかける。顔を上げた景時は無理をした笑みを顔に貼り付けて見せる。しかし、白龍はそんな景時に向かって優しげな笑みを返した。まるで、全てわかっているとでもいうように。
「景時。神子の望みをかなえてあげて」
勿論だというように景時は頷く。もちろんだ、望美の願いを叶えたいと自分はずっと願っていたのだから。――そして、きっと景時とであったばかりの頃の望美の願いは、元の世界へ帰ることだったはずだ――。






キリバンで龍子さまに送らせていただきます。
リクをいただいたというのに、望美の記憶喪失くらいしか
シチュがリクにあっていないという……す、すみません…


■ 遙かなる時空の中で ■ 銀月館 ■ TOP ■