お昼寝


「もう! 翡翠さんは出ていってください!
 私はこれから、昼寝するんですから!!」
花梨はベッドルームのから翡翠を押し出すと、乱暴に扉を閉めた。
今回ばかりは、かなり本気で怒っているらしい花梨に、翡翠もさすがに無理やりに部屋に入ろうとはしなかった。
毎度のことだが、花梨が怒っている原因は自分にあるので、ほとぼりが醒めるまで……この場合は、花梨が昼寝から目覚めるまでは大人しくしておく方が得策だと考えたのだ。
普段、そうそう自由に会えるわけではない不便なこちらの世界で土曜日は花梨が翡翠の部屋に泊まる週に一度の逢瀬の日だった。
そして、今日は日曜、朝からずっと花梨と一緒に過ごせる大変貴重な日である。
昨日、花梨はとても楽しそうに今日の予定を語っていた。
『新しくできた水族館に行きましょう!
 こうね、通路がトンネルになっていて、それが水槽の下を通っていて
 見上げたら上が水槽で、魚が泳いでいるのが見えて、すごいんですよ!』
お昼は近くのオープンカフェで、最近評判のランチとデザート、午後からは新しい水着を買いたいから一緒にショッピングに行きましょう、と随分と張り切っていたのだ。
しかし、今朝、花梨が目覚めたのは昼も近くになってからだった。
それは仕方ない、なんといっても花梨が眠ったのは夜明けも近くなってからだったのだから。
『翡翠さんが、寝かせてくれないから……!!』
楽しみにしていた予定が出だしから台無しになった花梨は、起きて時計を見て開口一番、そう抗議した。
それでもなんとか午後からの予定だけでも、と頑張って準備をしようとした花梨を『それじゃあ一緒にシャワーでも浴びようか』と言って尚更汗をかかせたのは翡翠だ。
ぐったりベッドに沈んでいる花梨に向かって
『ところで、花梨、今日はこれからどうしよう?』
いけしゃあしゃあと言った翡翠に向かっての返事がさきほどの花梨の台詞だったのである。

ほんっとに翡翠さんってば翡翠さんってば翡翠さんってば……
翡翠をベッドルームから追い出した花梨は怒りの表情そのままに、広いベッドに身体を投げ出した。
昨夜からくしゃくしゃに寝乱れたままのシーツには、翡翠の馨りがそのままに残っていて溜息をつく。
彼とこうして過ごすことが嫌なわけではない。昨夜だって本当に嫌ならもちろん拒むことはできたし、本気で拒めば翡翠だって無理強いはしない。
なんだかんだと言って花梨が本当に嫌がることは翡翠はけしてしないのだ。
会えば触れたい、触れ合いたい。それは自然な感情ではあるのだが、それだけが全てになるのは嫌だと思う。
もっと他愛のない時間だって一緒に過ごしたいのだし、いわゆるデートというものだってやりたいのだ。
……だってよ? 彼氏の昨日どこに行った? なんて話題になったときにさあ……
 一日中ベッドでヤってましたって、サイアクじゃないのー! どんなカップルよ、それー!
少しは翡翠にも……いや、翡翠にこそ考えてもらいたいと思うのだ。
まるで飽きることを知らないように、逢瀬の度にあんなにも求められては花梨の身体も保たない。
……なんでかなあ。翡翠さん、私と出かけるのが嫌だとか……? …………まさかね?
そんな筈はないと思う。強請れば何処だって連れていってくれる。例えば長い休みの間に旅行に連れていってくれたりとか。
南の海でイルカと一緒に泳いだのはとても楽しかった。そう、何日かまとまって休みがあるときはいいのだ。
なのにどうしていつもの休みだとこうなってしまうのか。おかげで最近ときたらいつもこんな感じの小さなケンカが絶えない。
身体がだるくて眠いはずなのに、考え出すと花梨は眠れなくなってしまった。
いつも居心地の良いはずの柔らかで大きなベッドも一人で占領していてはその大きさがかえって何処か寂しい。
『……花梨』
昨夜の翡翠を思い出す。熱を孕んだ瞳、囁く声。どこか切羽詰ったような激しさ。
ここにいるのに、と思ったのを思い出した。翻弄されて何も考えられないほどになりながら、呼びかけにぼんやりと目を開け、切なげな表情の翡翠と目があって……ここにいるのに、と思ったことを思い出したのだ。
何処にもいかない、ここに一緒にいるよ、翡翠さんの傍にいる。逢いたかった、私だってずっと逢いたかったよ。
そんな風に思ったことを思い出したのだ。
……なんか。……ほんと、しょーがないなあ……
花梨は溜息をついた。


……さて、花梨に機嫌を直してもらうにはどうしたものかね
さほど悪びれた様子も見せずに翡翠は居間のフローリングにクッションを置いて座り込み、花梨が持ってきていた雑誌のページをめくっていた。
ところどころに付箋がついているのは、花梨が興味のあるところなのだろう。
行きたいと言っていた水族館の紹介ページにも、もちろん、付箋がつけられている。
……これは、いずれ連れて行ってやらねばなるまいねえ
可愛らしいピンク色のマーカーで花丸までかかれた付箋が、花梨が随分と楽しみにしていたことを示していて、翡翠は少しだけ反省をした。
もちろん、反省はしても後悔はしない。第一、今朝の寝坊の原因についても、その後の二度寝の原因についても花梨は被害者ではなくて共犯者だというのが翡翠の見解だ。
あんなにそそる表情をして、可愛いことを言ってみせる花梨が悪い。
だいたいが自分がこんなに執着するものといえば花梨だけで、そういう感情を自分に植え付けたのも花梨だ。
他に惜しいものなどないと思えるほどのもの、人は所詮は一人だと思っていた人生で、それでも供にありたいと願うことがあると知ったのも花梨のせい。
らしくないのは京に居た頃から十分自覚している。が、そんな自分にしてしまった花梨にはやはりその責任は持ってもらわねばなるまい、などと思っていたりもする。
花梨に関して言えば、まったく自分で自制が効かなくなるほどなのだと、どうすれば信じて理解してくれるものだろう、と翡翠は苦笑した。
意地悪をしているつもりもないし、花梨を閉じ込めてしまいたいわけでもないし、怒らせたいわけでもない。
わかっていても、自制が効かないのだ。数日一緒にいられるというような休みのときなら、なんとなく自身も余裕を持っていられるのだが、今のような週末だけの短い逢瀬は貪るほどに傍に置いてひとときも離したくないほどに思ってしまう。
「しかし、さすがに怒らせてしまったようだからね……夕食くらいは花梨の気に入るようにしなくてはね」
そういわけで、花梨の持ってきた雑誌をぺらぺらとめくって、彼女が行きたいと思われるところで、夕方からでも行けそうなところを探しているのだ。
だいたいの見当をつけて、花梨を起こす時間を時計を見て考える。4時すぎまでは寝かせておいても大丈夫だろう、と思ったところで、居間の扉が開いた。

「枕がないと眠れない」
相変わらず膨れっ面をした花梨がすたすたと居間に入ってくる。
半袖のパジャマは翡翠と揃いのもので、この部屋にずっと置いてあるものだ。もっとも、こんな風にちゃんと袖を通したことは数えるくらいしかないと記憶しているが。
「翡翠さんが、枕もってっちゃうから」
そんなものは持ってきていないよ、と翡翠が言うより早く、花梨は翡翠の傍らにぺたり、と座り込んだ。
「ほんとは腕枕の方がいいんだけど。
 こっちで我慢するから、眠らせて」
そう言うと翡翠の膝に頭をのせる。呆気にとられた翡翠が何か言うより先に、花梨は安心したように目を閉じていた。
「……悔しいけど、翡翠さんがいないと、眠れないんだもん」
呟くようにそう言ったあと、花梨はすぐに静かな寝息を立て始めたのだった。
無防備な寝顔を晒して眠る花梨の頬にかかる髪をそっと梳いて、翡翠は微笑み、次いで嘆息を漏らした。
予定通り4時すぎるまでは彼女を寝させておいてやろうとは思うものの、昨夜の意趣返しかと思うほどに実際のところこの状態を自制するのは難しい気がしたからだ。
それでも、膝に乗る柔らかな重みに愛しさを感じ、その安らけき眠りは覚ましたくないとも思い、いっそのこと自分も共に眠りにおちて夢路で花梨に逢うとしようかと思う翡翠なのだった。




いやはや、こういうのこそ勝手にやっとれ、ってことでしょうな



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