お昼寝


「景時さん、まくわうりを井戸で冷やしてるんですけど、切ったら食べますか?」
暑い夏の日の午後、珍しく邸にいる景時にそう尋ねに望美は景時の部屋へやってきた。
強い夏の日差しが庭の緑の影を一層濃く見せ、コントラストの強い景色に自然と目も眩しげに細められる。
深い庇に強い日差しを遮られた室内は、暗く見えるが直射日光が当たらない分、熱が低く少しは過ごしやすかった。
開け放した戸から時折緩やかな風が肌を撫でて、その瞬間は涼しく感じるものの、それでも空気はねっとりと身体にまとわりついてくる。
望美たちの居た現代であれば、冷房もあれば冷たいものも自由に食せるが、こちらではそれはなかなか難しいことである。それでも久しぶりに邸でのんびりしている景時のために、ひんやりとした井戸の水に朝からまくわうりを漬けて冷やしておいたのだ。
それを食べないかと言いにやってきた望美が見たのは、板の間に直接寝転がって、昼寝をしている景時の姿だった。
忙しい日々が続く景時のこと、休みの日くらいのんびりさせてやりたいと思う望美は、それを邪魔しては悪いと思い、声を潜める。さきほどの望美の声は、幸いにも景時の眠りを妨げるものではなかったらしく、すやすやと景時は眠っていた。
そっと足音を忍ばせて、望美は眠る景時の傍へ近寄ってみる。小さく唸りながら景時が寝返りをうったので、その場でしばらく望美は立ち止まった。ころん、と景時はそのまま身体の位置を移動させて眠り続けている。
そっと、もう少し望美は景時に近づき、先ほどまで景時が寝ていた辺りに膝をつく。床は景時の熱で熱くなっていた。
板の間に寝転べば、ひんやりした感触が伝わり気持ちいいが、すぐにそれも身体の熱で温んでしまう。おかげで、景時はきっと昼寝を始めたときから、あちらへころり、こちらへころりと冷たい床を探して寝返りをうちつつ眠っていたのだろう。そういえば、おそらく最初は身体にかけていたのであろう、薄い衣は部屋の隅に投げ出されている。
そっと顔を覗き込めば、疲れた陰が少しばかり目元に見え、熱さに眉がほんの少し顰められているのを見て、望美はなんとか、もっと心地よく彼に眠ってもらえないものかと考えた。
望美は何か思いついたように、一旦部屋を出て行った。
しばらくして戻ってきた望美が手にしていたのは、団扇だった。団扇といっても、望美が知っていたような、店の広告がでかでかと書かれたようなものではない。張り合わされた和紙は繊細な紋様が美しく切り抜かれ、見ても美しい代物だった。初めて見たときは、自分の知っているものとの違いにびっくりして、観賞用かと思い、これを使うのにいささか勇気を必要としたものだ。
<望美は先ほどと変わらぬ体勢で眠っている景時の傍らにそっと座るとゆっくりと風を送り始めた。
強すぎず、弱すぎず、自然の風が彼に向けてさやさやと心地よくあたるかのようにゆっくり緩やかに団扇を動かす。景時の顰められていた眉が、心地よさげに緩み、大きく息をつく。
それを眺めて望美は嬉しくなり、小さく微笑んだ。

自分の暑さも忘れて、緩やかに景時へ向けて風を送った。重力に従っていつも掻き上げられている景時の前髪が、さらりと額に流れている。それが風にふわりふわりと踊る様を見るのも楽しかった。時折、瞼がぴくり、と動くのは何か夢を見ているのかもしれない。

(……何の夢を見てるのかなあ、起きたら教えてくれないかな)

会話もなく、音楽もなく、ただ一人の人をずっとこんな風に見つめていることに、飽きることがないのが不思議だった。それでも景時を見つめていると、巡る思いに終わりはなくただただ温かく幸せな気持ちに包まれる。

「望美、兄上は……」

帰ってこない望美を探して朔がやってきたが、その二人の様子を見て何も言わず、微笑むと戻って行った。

邸の中は静かで、庭に鳴く蝉の声が尚更に静けさを引き立てる。緩やかな時間の流れに飽きることなく景時を眺めていた望美だったが、もっと近くで景時の顔を見ていたくて、座った体勢からそろそろと景時の向かいに身体を伸ばして寝転んだ。景時の顔が見えるように身体を横向け、肘をついて頭を支える。それでいてもう一方の手は団扇をゆるゆると動かし続けていた。

出逢った頃は、何も思うことなく普通に見ていた景時の顔を、いつの間にか恥ずかしくて真っ直ぐ見ることができなくなって。こっそり眺めている内に、以前は気付かなかった彼の表情に気付いて、益々惹かれていくようになった。それからもっと彼を好きになって、そうしたら彼のことを見ずにはいられなくなって。そして今では間近で彼の表情を独り占めできるくらいに毎日眺めているというのに、未だにこうして眺めていると、何か新しい発見があったり、見慣れている筈なのに相変わらずときめいたり。不思議な思いで望美はずっと景時を見つめていた。




夕方になり日が傾いて部屋に差し込む日差しに、景時は目を覚ました。上体を起こして寝乱れた髪を掻き上げ、大きく伸びをする。こきこきと首を廻し、このところの仕事疲れから少しばかり回復したなあ、とほっと息をついた。今日は珍しくゆったりとした風があったようで、随分と寝てしまった、と考え、ふと視界に白い足が入っているのに気付いた。
「!!」
はっと振り返ると、望美が団扇を手にしたまま、くうくうと眠っていた。板の上に寝っ転がり、肘を枕にして眠っている。その姿を見て景時はすぐに望美が自分をずっと扇いでくれていたのだと気付いた。途端に愛しさがこみ上げてくる。本当にどうして彼女はこうなのだろう、と思わず有無を言わせず抱きしめて、庭に飛び出して大声で叫びたいくらい嬉しかったのだが、さすがにそれは我慢した。そっと顔を覗き込めば、長い髪に隠れた項や額がしっとりと汗ばんでいるのがわかった。握力を失った手に支えられているだけの団扇を、起こさないように気をつけてそっと取り上げる。そうして景時は望美に向けてそうっと風を送った。
緩やかに送られる風を感じたのか、望美がころり、と寝返りをうつ。その表情が見えなくなった景時はそっと立ち上がり望美の顔が見える所へ移動するとまた座って団扇で風を送り始めた。今度は望美も寝返りをせず、自由になった手が緩く握られ、まるで小さな子どものように背中を丸めて眠っている。

いつも、眠るときはこんな風に何かに寄り添うように丸まって眠るのが望美のクセで、そしていつもはこんな彼女を胸の中に抱き込んでいるのは自分で。そんな風に思うと、ついつい自分がその隣に寄り添って腕を差し出し胸を貸したくなってしまうのだが、景時はそれも我慢してそっと風を送り続けた。眠っているときは、少しばかり幼さが増すように見える。
眩しい思いを抱いて望美を見つめていたころは、こんな幼い表情を彼女が持っているなどと思ってもいなかった。いつも凛とした強い瞳で前を見据えているように思えた。その影の脆さや弱さを知って、彼女を自分が守りたいと思うようになって。そして今、自分だけが知る、こんな幼い姿の彼女を、自分が確かに守っているのだと思うと嬉しい。

(……なんて思ってるのは、オレだけかなあ? オレ、ちゃんと望美ちゃんのことを守っているかな?
 君が心安く過ごせるように、君の想いを護れているかな)

望美の想い、笑顔、幸せを護りたい、護れる自分でありたい。そして、そんな自分でありたいと思い、そうあろうと努力する自分がいることが嬉しい。何もかもを諦めて、ただ空っぽのまま生きていたことを思えばどれほどに今の自分は幸せだろうかと思う。

眠る望美が、何かを探すように手を彷徨わせた。何か夢を見ているのだろう。思わず景時は自分の手を差し出す。それに触れた望美は景時の指をそっと握ると安心したように微笑んだ。

(何の夢見てるのかな。楽しい夢を見ているといいな)

そういえば、自分も何かうっすらと夢を見ていたような気がする、と景時は考えた。はっきりとは覚えていないけれど、幸せな夢だったような気がする。自分がいて、きっと望美がいて、笑っていた、そういう夢だったと思う。

(望美ちゃんも、そういう夢を見ていてくれると嬉しいな)

夕陽は最後の光を山の端から投げていて、望美の顔にも影が落ちている。だんだん、望美の表情も見えにくくなってきて、繋いだ手の温もりを一番強く感じるようになってきた。

そこへ静かな足音が近づいてきて、朔が姿を現した。
「……あら……」
景時たちの姿を見て、意外そうな顔をする。先ほどと役割が変わっているという表情だ。景時は口に人差し指を当てて、静かに、と朔に向かって示す。朔は苦笑して声を潜めると、そっと景時に告げた。

「そろそろ夕餉の時間ですから……望美を起こしてくださいませ。
 それとも、後からこちらにお持ちしたほうがいいかしら?」

景時はしばらく考えた後に朔に向かって言った。
「先に食べていてくれていいよ。もうちょっとしたら行くから」
たとえもう少しでも、ぎりぎりまで望美を眠らせてやりたいのだろう、と兄の気持ちを推測した朔は、あまり遅くなるようでしたら、こちらに運ばせます、と言い置いて戻っていった。

それを見送った景時は、望美に視線を戻す。多分、もういかほども経たずに望美は目を覚ますだろう。だから、朔にも食事をこちらへ運ぶ必要はない、と言いたかったのだが、言いそびれてしまった。何故、そんなことがわかるのか、と問われたら答えを返すことができなかっただろうから、それでよかったかもしれない。

けれど、間違いなくもうすぐ望美は目を覚ます。なぜなら、触れ合う指だけでは到底足りずに、ずっと望美に触れたいのを我慢しているのだけれど、その我慢もきっともう少しで限界になりそうだから。彼女が自然と目覚めるよりも先に、景時が目覚めの口付けを彼女に送って彼女の目を覚まさせてしまうのが、景時にはわかっていたからだった。




眠っている姿を見ているだけでも幸せな二人ってことで。



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