「お前、笑っているぞ」
アシュヴィンにそう声を掛けられて、風早は少し驚いたように応えた。
「そうですか? そんなつもりはなかったですが」
「生きて戻れぬかもしれんというのに、暢気に笑っていられるとは存外図太い男だな。
いや、そもそも常世の軍を前に、一人で殿を務めようなど言い出すのだから図太いのは当然か」
可笑しそうにアシュヴィンはそう言い、風早はそれには答えずただ黙って口元に薄い笑みを浮かべた。
人の姿を取るようになって、一番に覚えたのが「笑う」ことだ。笑みを浮かべた表情をしていれば、警戒されることも少なかったし、暢気な男と見逃されることも多かった。どんなときにどんな表情で「笑う」と良いかということも、結構すぐに覚えた。
人というのは、なんとも不思議なものだと思ったけれども、人らしく振る舞うことは必要だったので、「笑う」ということのもたらす周りへの作用は重宝した。
中でも幼い二の姫が―風早の前でだけは随分と泣き虫だった二の姫が、風早が笑うと不思議と安心したような表情を浮かべたり、つられて笑顔になったりするので、自然と彼女の前では笑顔でいることが多くもなった。
どんなときでも、風早が笑っていれば二の姫・千尋は不安を感じることなどなかった、はずだったのだが。先ほど別れてきた千尋の様子を思い出す。
『私も行く!』
泣きそうな顔をして、必死に追いすがろうとしていた。
おかしいな、確かに自分は大丈夫だというように笑っていたはずなのに、どうしてあんな顔をさせてしまっただろう。上手く笑えていなかっただろうか。いや、アシュヴィンは言っていたではないか、『お前、笑っているぞ』と。
けれど、風早はわかっていた。アシュヴィンが言っていた風早の笑みは、千尋を安心させるために浮かべた笑みとは違う。千尋と別れたときは、本当に彼女を安心させるために、ただ笑顔を浮かべていた。ほとんど癖のようになっている人を真似た笑みだ。
けれど、さっきアシュヴィンに言われたときは、笑っていたつもりはなかった。ただ―ただ、千尋のことを思い出していただけだ。泣きそうな顔になって、『風早!』と自分に追いすがろうと手を伸ばしていた千尋を。
幼い頃の、自分の後を追いかけていた頃を思い出した。まだ自分だけの二ノ姫だったころを思い出して、そして。
そこで風早は考える。昔を思い出してそれがほほえましかったのか、いや違う。そうではなくて。
ただ、千尋が自分を呼び、自分の名を一心に呼び、自分を見つめていた―それが。
(ああ、そうか)
それが、『嬉し』かったのだ。そうだ、これはきっと嬉しいという感情。
「……また、笑っているぞ、お前。龍の姫を泣かせて嬉しいとは、酷い臣下を持ったものだな」
「……そうですね、そうかもしれません」
風早は笑った。「笑う」こと。人を真似て、どんなときでも浮かべられる表情。けれどいつからだっただろう、二ノ姫といると自然と笑顔となった。彼女を笑顔にするために笑うだけではなく、その逆もあった。千尋が笑うと風早も笑顔になれた。絆がそこに生まれた。
「……ずいぶんと俺も人間っぽくなったものです」
「はあ? どの辺がだ。普通の人間から見ればお前は随分と変人のうちだろうな!
心配するな、俺もそうだし、龍の姫の周りにいる人間はみなそうだ」
アシュヴィンが声をあげて笑った。
天の鳥船に向けて駆けていた風早の前を風にのってきらきらと月光に輝く幾筋かの糸が流れていった。思わず目で追うと手を伸ばす。
「これは…」
見間違うはずもない、それは千尋の髪だった。長い髪を束ねてまとめていたのに、それが風にのって天の鳥船から舞い落ちてくる。
(風早……)
風に混じり、彼女が自分を呼ぶ声も。風早はその声の元へと駆け上がった。
暗い堅庭の先に立ち、千尋は大地を見下ろしていた。その細い肩が小さく震えている。
「千尋」
その後姿を見ていると風早の胸の中に風が起こった。今までも千尋は風早の胸に小さな風を何度も何度も起こした。けれど、今この胸の中に起きている風はまるで天に向かって木々の葉を巻き上げる旋風だ。それはすべての答えでもあった。
「か……ざ、はや…?」
振り向いた千尋の目が驚きで見開かれる。髪がすっかり短くなっていた。それが痛々しくて、なのにそれだけではない感情が胸の中に溢れる。
ゆっくり手を伸ばして、その青い瞳からこぼれる雫を拭う。
「風早…!」
胸に飛び込んでくる千尋は、かつて風早が軽々と抱き上げていた幼子ではもちろんなく、けれどそれを今更に気づかされたような気がした。そして全てに気づいて自然に笑みが浮かぶ。
千尋の全てが自分に向けられていたことが嬉しかった、そう、それが「嬉し」かったのだ。その涙の一滴が自分のためのものであったことが、嬉しいのだ。胸の中の風は収まらない。
「千尋、泣かないで」
愛しい、愛しい。嬉しい、愛しい。人はなんて不思議で愛しい存在なのか。千尋が望む世界を見せてやりたい、彼女が見たいと望む世界をともに見たい、彼女の傍に命尽きるまでありたい。彼女の全てを守りたい。彼女の愛する人の世を、豊葦原を残したい。
それは神獣としては許されない思い。あまりに人の近くに在りすぎたのかもしれない。それでも良いと思える自分がどこか誇らしかった。自分のために千尋が流した涙の故に、神の座から堕ちることがあろうとも、この命を失うことがあろうとも、きっと後悔することなどないだろう。
人の真似ではなく、心から「笑う」ということを教えてくれた――人の心を教えてくれた姫。
「泣かないでください、千尋」
でないと、この愛しさが溢れてあなたを離せなくなるから。
「泣かないで」
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