髪を撫でる手




「千尋って好きな人いないの?」
「えっ」
普段あまりクラスメイトとそんな話などしない千尋だったが、何のときだったかひょんな拍子でそんな話題になったことがある。
「そっ、そんな人、いないよ。考えたことない」
そう言いながら、変にどきどきした。それでも、好きな人、なんて考えたこともなかったのは本当だ。
「千尋はだって、家に風早先生や那岐がいるんだもの。あの二人と一緒なんて毎日パラダイスでしょ」
「どっちが本命なの? やっぱり那岐くん? それとも大人の魅力で風早先生?」
「ちょっと! な、なんでそんな話になるの!? ふ、二人ともそんなじゃないよっ」
慌ててそう声を荒げたものの、頬が熱くなった。そんなこと考えたこともなかった、けれど。そんな風に言われて、不意に髪を梳いてくれるやさしい手を思いだした。小さい頃、上手く自分で髪が結えなかったとき、風早がいつも手をかけてくれた。中学生になったくらいから、自分でできる、と言って風早の手を煩わすことはなくなったけれど、彼はそれを少し寂しそうにしていたっけ。ただ、千尋は風早に髪を触れられることが恥ずかしくなっただけなのだ。それは思春期特有の心の揺らぎだったと思っていたし、今だってそんな風に風早のことを思っているとは思わない、のに。
『千尋はとてもきれいになりますよ』
そんな風に言われたのは、いつのことだった? 優しく触れる手のぬくもりと共にその声を思い出す。それは幼い頃に感じた安心感とは違う、胸の奥に小さな火を灯していった。


思えば自分は随分と鈍感だったのだな。風早はあまりにも近くに居すぎて、気づくのに随分と時間がかかってしまった。考えてみれば、向こうの世界にいたあの頃には、既に自分は彼のことを好きだったに違いない。
柔らかな寝台の上で目を覚まして、千尋はそんなことを思った。随分と懐かしい夢を見た。あったけれどなかったことになった日々の記憶。千尋と風早の中にだけ残っている、遠く離れた時空での日々の記憶。一度無くした記憶の欠片は、すべてが鮮明なわけではなくて、時折こんな風に小さな事柄が不意に思い出される。今日、こんな夢を見たのには、それでもきっと意味があるに違いない。
そう、意味が。
うっとりとした面持ちで千尋は寝返りを打って自分の傍らに手を伸ばした。が、そこに彼女が期待するものはなかった。そこで驚きに目を見開き、慌てて起き上がる。と同時に、掛け布が肌から滑り落ちて白い肌が露になり慌ててそれを胸の上まで引き上げた。夢ではなかったはずだ。昨日、風早が、ここに居てくれたこと。優しい風のように、時折激しい嵐のように自分に触れていったこと。苦しくて、嬉しくて、怖くて、幸せで、切なくて、満たされて、温かい胸に抱かれたこと。――なのに。
どこか呆然とした面持ちで千尋がいると、柔らかな声が降ってきた。
「千尋。目が覚めましたか」
すっかり身支度を調えた風早が、涼しげな笑みを浮かべ、手に盆を持ってやってきたのだ。
「身体はどうですか、つらくないですか。
 目覚めがすっきりする果実水を持ってきました。飲みませんか。良く冷えてます」
器を差し出され、反射的にそれを受け取ったものの、千尋は少し拗ねたように風早を上目遣いに見上げた。その視線に気づいて、風早はどこか慌てた表情になる。
「千尋? どうかしましたか? 何か怒ってるんですか?」
どうにもわからない、といった顔だ。そっと寝台の端に風早は腰掛けて、千尋の顔を覗き込むように自身の顔を近づけた。昨夜の熱など、嘘のように涼やかな表情。まるでいつもと変わらない。それが少し悔しくて、悲しい。千尋が黙ったままでいると、ますます風早は困ったような顔になり、それから視線を落とした。
「……その、……昨晩、のこと、怒って、いるんですか」
そう言う風早のいつも冷静な顔が、少し赤くなったように見えて、それで千尋はやっと少しだけ笑った。それに気づいたのか風早が顔を上げて呆れたような顔になる。
「……何なんですか、千尋。俺にもわかるようにちゃんと言ってください」
もう、今となっては俺は神の身ではないんですから、と続けられる言葉。けれどそれは些細なことに拗ねてしまった恋人の気持ちが計れないことへの焦りと戸惑いゆえのもので、風早のそんな表情が千尋は結構好きだった。
「……だって、目が覚めたら風早がいなかったんだもの」
千尋がそう言うと、風早は、また驚いたような顔を見せた。全くわかっていなかったに違いない、この乙女心の機微というやつを。
「……でも、ほら、いつも千尋には目覚めのときに飲み物を用意していましたし…
 今日は特に、ええと、ほら、疲れていてはいけないと思ったから」
確かにそれは風早の常の務めではあるのだけれど、恋人と迎える初めての朝というのは、いつもの姫と従者の朝とは違うものが良かった。ぽすん、と千尋は風早の胸に自分の頭を預ける。
「……すみません、目が覚めたときに傍にいなくて」
真面目に謝る風早がちょっと可笑しくて千尋はつい、笑ってしまった。その千尋の声にほっとしたように風早の手がゆっくりと髪をなでていく。
「……大分、伸びましたね」
風早と再会したとき短かった千尋の髪は今は随分と伸びていた。編み上げていた頃ほどの長さでは、まだないけれども。さらさらと風早の指が千尋の髪を掬っては金糸を落としていく。
今朝見た夢を思い出して、千尋はちょっと笑った。自分の髪に触れる優しい手。あまりに近くて
「……私ね、髪を触られるのが苦手で、それでずっと髪を短くしていたの」
姫君らしく伸ばした方が、と姉にも良く言われたけれど誰かに髪を触られるのが嫌でずっと短くしていた。
「そうでしたか? そんなことはなかったでしょう。俺だってずっと千尋の髪を梳いていたじゃないですか」
「……うん、だから」
「え?」
「多分ね、魂が覚えていたんだよ。私の髪に触れてよいのは風早だけだ、って。
 だから、それ以外の人が私の髪に触れるのが嫌で、髪を伸ばせなかったんだよ、きっと」
風早が帰ってきてくれたから、髪を伸ばせるようになったの。そう言うと風早は随分と困ったようなため息をついた。どうしたんだろうと千尋が顔を上げると、本当に困ったような顔の風早と目が合う。
「……本当に、千尋は困った人だ。
 朝からとんでもないことを、俺に言ってくる」
「……何かいけないこと言った?」
尋ねると同時に風早の顔がずっと近くなる。思わず目を閉じたら、柔らかな感触が唇に降りてきて、そのまま身体が後ろに倒された。
目を開けると涼しげな風早の顔が千尋を覗き込んでいる。いや、涼しげな瞳の奥にちらりと見える熱い炎。千尋は風早に向かって手を伸ばした。
「……困ったな。今朝は姉君と朝食を一緒に取る約束でしたよね」
「……いいの、姉様には、わかってるわ」
千尋は笑ってそう言い、風早の首に回した腕に力を込める。するとそれに逆らわず風早は千尋に覆いかぶさって口付けを送る。
「ねえ、風早」
「なんですか、千尋」
絹の上着を床に落としながら風早が尋ねてくる。
「……今度は目が覚めたときに、ちゃんと隣に居てね」
「……わかりました、必ず」
そう答えた風早が嬉しそうだったのは千尋の見間違いではなかっただろう。




遙か4の風早×千尋です。
いやほんとにすみません。コネタを二つ合わせたらこんなのになりました。


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