命の名前




『あの鳥はなに?』
『あれは雲雀です。巣が近くにあるのでしょう』
『じゃあ、今飛んでいった虫は?』
『あれは蜻蛉です』
『羽が透けていたわ』
『そうですね、薄い羽ですから、捕まえるときはそっとしなくてはいけませんよ』
『あのきらきらしているものは?』
『遠くの水辺にお日様が反射しているんですよ』
『きれいね、きらきらしてとってもきれいね』
『姫の髪もきれいですよ。ほら、日にあたって輝いている』
子どもの頑是無い問いに彼はいつでも優しく答えてくれた。花の名前、鳥の名前、雲の名前、虫の名前、あれもこれもと際限なく指を指し示す子どもに、彼は一つ一つ丁寧に答えてくれた。
彼が教えてくれたのは、命の名前。世界のこと。彼は命を慈しむこと、世界を愛することを私に教えてくれた。

□■□

「あれ、あのような小さな鳥が大きな声で」
「ふふ、あれはヨシキリっていうのよ」
王宮への帰り道、葦原の中の道を歩いていると耳に大きく鳥の声が響いた。驚いた采女がそう声を挙げたときに千尋はその鳥の名を口にしたのだった。
「まあ、二ノ姫さまは本当にいろいろお詳しいこと」
「だって……」
采女たちにそう言われて、千尋は『だって教えてもらったから』と言おうとして戸惑う。誰に? 遠い昔、とても優しい声。思い出そうとするだけで、涙が出そうなくらい切ない気持ちになる。ねえ、鳥の名前を教えてくれたのは誰だった? あの鳥は、いつかも同じように鳴いていた。そのとき私は一体、誰と一緒にそれを聞いていたの?
「二ノ姫さま?」
不意に黙り込んだ千尋に采女が心配そうに声をかける。
「なんでもないの。大丈夫よ」
慌てて千尋は笑顔をつくると、再び歩き出した。先ほどの鳥の声が耳に残る。いつかに聞いた声と同じ。けれど、そのいつかが何時なのかわからない。

□■□

黄金に輝く葦原で、誰かをずっと待っていた。悲しくて寂しくて泣いていたのだけれど、心のどこかで彼はきっと来てくれると思っていた。泣きながら、耳に届く鳥の声を聞いていた。
(あれは雲雀)
泣きながら、時折顔を上げて空に浮かぶ雲を見ていた。
(あれは、おぼろ雲)
全部、彼が教えてくれたもの。指をさしたその先を彼はいつも正しくわかってくれた。世界の広さを教えてくれた、世界の美しさを教えてくれた。黄金に輝く葦原で、彼に教えてもらったことを一つひとつ数えていたら、彼が教えてくれた一番星が輝く前に、必ず彼が来てくれた。
『千尋、どうしたんですか』
その声はいつだって悲しみの淵から千尋を救ってくれた。その手はいつだって千尋に世界を指し示してくれた。
(…………っ!)
その人の名を呼ぼうとして、千尋は目を開けた。
朝の光が部屋の中に差し込んでいる。柔らかな日差しは、もうすっかり季節が春となったことを教えてくれていた。寝台に起き上がった千尋は、目を拭う。ひどく泣いていた。夢を見ていた。今もまだ胸が痛い。きれいで優しくて懐かしくて、そして悲しい、夢。自分は一体、誰の名前を呼ぼうとしたのだろう、それも思い出せない。
千尋は鼻を啜って目を擦った。
『ほら、目を擦らないで。ほおずきのように真っ赤になってしまいますよ』
誰かの声が頭に響く。誰の声かはわからなかったけれど、その優しい声が脳裏に響いたとき、笑わなくちゃという気になった。顔を上げて外を見やる。今日も良い天気だ。朝の澄んだ空気に輝く景色が、千尋は好きだった。
星の名前、風の名前、命の名前
『あなたの世界は、こんなにも美しい』
でも、その美しさを私に教えてくれたのは……だった。私はずっと王宮の片隅で泣いていただけだったから。外の世界の広さを教えてくれたのも……
「……変なの、そんなはずないのに」
王宮で泣いていた、なんてそんな思い出などないのに。千尋はまだ半分自分は夢の中にいるのだろうかと頭を振る。自分は確かにこの薄い髪の色と青い瞳で、幼い頃から奇異な目で見られたことはあったけれども、それでも姉も母も周りの者たちも、千尋を邪険に扱ったりはしなかった。中つ国のニノ姫として傅かれて過ごしてきたし、王宮の隅に閉じ込められていたことなんてない。黄金の葦原で一人泣いていたなんてこともない。だって、幼い頃からずっと采女たちが傍を離れたことなんてないのだから。
千尋は立ち上がると、大きく伸びをした。ざわざわした胸騒ぎはまだ少し収まらないけれど。
「ん〜……どこか出かけようかな。気分転換が必要かも。
 そういえば姉様が三輪のお山に行くっておっしゃっていたっけ」
羽張彦が嘆いていたことも同じに思い出す。お互い忙しくてなかなか会えない、と愚痴ていた。狭井君は、まだ二人の仲を良く思ってはいないようだったが、中つ国には王族の婚姻についてだってつまらない決まりごとなどない。
(自分が幸せじゃないのに、民を幸せに導くなんてできないよね)
狭井君以外の皆は二人に理解を示しているのだから問題なんてさほどもない。
(私にも、そんな人ができるかしら)
二人を見ていると、時折そんなことも考える。王宮には有力な氏族の嫡子たちも多く来ていて、時にそれは姫君の婿候補ともなりうる。しかし、王宮にいる誰かとそんな風になる、というのはあまりピンとくる考えではなかった。むしろ千尋は、もうとうに自分は自分の相手を知っているような気がする。そして彼が来るのを待っている気がするのだ。そんな話をすると姉は決まって笑うのだけれど。けれど、恋に憧れる夢見がちな想像の世界のことではなくて、千尋にはどこか確信めいた思いがあった。
「そうね、姉様と羽張彦さんに時間を贈るっていうのも良いかも。
 三輪のお山には私が行こう」
春の野を歩くのは好きだ。空の名前、雲の名前、鳥の名前、花の名前、ひとつひとつ数えて歩くのは好きだ。生命の豊かさを感じることができる。小さな花のひとつにも命がある。豊かな命をはぐくむ世界は、こんなにもいとおしい。

□■□

「ここは、良い国ですね」
そう言われて嬉しかった。胸がいっぱいになった。だって、良い国にしたかったから。皆が笑って暮らせる、大切な人を失ったりしなくても良い国。良い国にしなくちゃいけないって思っていたから。だって、この国は……がいた証でもあるのだから。だから、………に誉めてもらえるなら、これほど嬉しいことはない――
そこまで考えて、千尋は今すれ違った青年を振り返った。
胸が締め付けられる。ああ、その声を知っている。その面差しを知っている、その指を知っている。
(待って、待って…)
行かないで。また行ってしまわないで。何処にももう行かないで。今度こそ、私は追いかけなくては。彼が何処にももう行かないように、私が、今度こそ、間違えないで追いかけなくては……
勝手に身体が動いていた。気のせいだとか、ただの夢だとか、そんなことを考えるより、ただ身体が動いていた。
初めてあったはずの人を追いかける。知ってる、知らない、知ってる。その声を、面差しを、指を。

「待って……! あなたは…………」

知っている、忘れるはずがない。魂の奥から湧き上がる記憶の奔流。

空の名前も、雲の名前も教えてくれたのはあなただった。
世界の広さも、命を慈しむことも、教えてくれたのはあなただった。
忘れるなんて、できない。私の世界は、あなたから始まったのだから。
――風早




遙か4の風早×千尋です。
いやあ、幼少からの絆のつながりっていうのもすんごいツボなわけで。


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