きょろり、と望美はあたりを見回した。誰の姿もない。
少しほっとした表情で簾を上げて庇の間に腰を下ろし、脇息に頬杖をついて空を見上げた。平泉の冬の空は重たく圧し掛かってきて、雪の気配がした。吐く息もとうに白い。
九郎と弁慶は伽羅御所へ様子を見に行ったようだし、譲と朔は今の時間は厨だろう。リズ先生、将臣、ヒノエは町の様子を見に行っているようだし、敦盛と白龍と銀は市に向かったようだ。多分、皆、意識して望美をそっとしておいてくれるのだと思う。
(景時さん、なんだか少し、痩せたみたいだったな……ちゃんと、食べてるのかな)
伽羅御所で出会った鎌倉からの使者――源氏の軍奉行、梶原景時。壇ノ浦で別れて以来初めて目にした彼は、あの最後の時と同じく、感情が何も感じられない冷たい表情をしていた。それはとても、とても寂しかったけれど、けれど、同時に喜びも感じていた。また、彼の姿を見ることが出来て。もう一度、会えて。
(景時さん、いつも自分のことは後回しで。皆で京邸に居たときだって。発明に夢中になってたり、お仕事忙しかったりしたら
 食事の時間も忘れてたから……それでもその時は朔や皆が居たから……)
『兄上! いい加減に夕食を食べてくださいませ! 片付きません!』
怒ってるようで、景時の身体を心配していた朔。
(皆、居なくなって……景時さん、食事もちゃんと摂ってないんじゃないかな)
そんなことを心配する。そして、そんなことを心配しているなんて、仲間には言えない。皆が今、一番心配していることはもっと別なことだからだ。もうすぐ、戦が始まる。そして、その戦の結果によって自分たちの行く末も決まる。そうでなくとも、望美たちを匿ったが故に鎌倉から攻められる平泉を見過ごすわけにはいかない。だから今は戦の覚悟をするべきだし、それは望美もわかっていた。なのに、今になっても景時の身が心配で、そして、だからそんな姿は仲間に見せられない。
そっと胸にいつも下げている小さな袋を手に握る。そっと胸元からその袋を取り出し、中身を手のひらに出した。コロリと手のひらに転がったそれは、地白虎の玉。ほのかに光を放つような翠の玉を望美は慈しむような目で見つめた。
この玉が手に残って、最初に感じたのは絶望だった。景時との絆は失われてしまったのだと思った。神子と八葉、古くからの伝承により紡がれた絆は途切れてしまったのだと思った。白龍に尋ねても、八葉の身体から玉が失われるということがあるのかなどわからなかった。過去の八葉にそんな例があったかもわからない。そういうことに誰より詳しかったのは景時だったからだ。次いで詳しい弁慶もリズヴァーンもそんな例は知らないと言った。
玉が八葉を選び間違えることがあるのだろうか。八葉が八葉でなくなるときがあるのだろうか。それでも景時の鎖骨から玉が失われたことだけは本当で。彼は八葉ではなく、只人になってしまったのだろうか。この玉は、彼との絆が失われたということなのだろうか。そして、玉は新たな八葉を選ぶのだろうか…?
実を言うと、それが望美には少し、怖かった。平泉から護り手として現れた銀は、景時と同じ金の気を持った青年で、望美に対してとても忠実だった。彼の風貌にも勿論驚いたけれど、それよりも自分に仕える金の気の人間だということに、望美は尚更に警戒した。誰だって、景時の代わりにはならない、なれない。それは随分と銀に対して失礼なことで、平泉への旅の中、玉が違う人間を選ぶことはないようだと思ったときには彼に対してとても申し訳なく思った。今では望美も銀に仲間と同様に接しているけれど、彼は八葉ではないし、あくまでも泰衝の部下であることをわきまえるようにしている。それもやはり、今でもどこかで景時の代わりはいないと頑なになっていることの表れかもしれない。他の仲間がどう思っているか、それも少し不安だった。 平泉に到着するまでも、到着してからも、誰も景時のことをあまり口に上らせなかった。それは多分、望美への気遣いでもあっただろう。また、朔への気遣いもあっただろう。九郎は兄である頼朝に疎んじられたことに酷く心を痛めていたが、景時を恨む様子は全く見せなかった。景時は頼朝の部下であり、頼朝の命に従うのは当然なのだ、とそれだけを言った。それを聞いた弁慶がふと呟いた。
『玉が景時を八葉と判じなかったのではなく、景時自身が玉を拒んだのかもしれませんね。
 最早、神子を護る八葉では居られないと』
そうして、ふふ、と自嘲気味に笑った。もっとも景時は喰えない奴ですから、そんな殊勝なことを考えるかわかりませんが、と。けれどその二人の言葉は望美の中にすとん、と入ってきて、そうなのかも、と思ったのだった。夏の日、景時はとても苦しそうで辛そうで、何か悩みを抱えていた。あのときもし自分が、彼の悩みを知ることができたら、そうしたら彼が仲間を裏切ることはなかっただろうか、と思った。けれど九郎の言葉に、きっとそれは無理だっただろうと思えた。あの時既に景時は自分の心を決めていたのだ。そしてそれは景時にとっても辛い決断だったのだろう。彼は自分で決めた――そして、八葉であることはできないと考えたのだろう、と。そう考えるのが、景時らしいと望美は思ったのだ。
玉は不思議な光をゆらゆらと湛えて望美の手のひらにある。その光の温かさは、景時のようだと思った。ここに居ることができない景時の代わりに、彼の玉が望美の手元にあるような。
(……私は、自惚れすぎですか、景時さん)
頼朝の命に背くことができないから、それだから仲間の元から去った? 私たちと戦うことに本当に迷いはない? 伽羅御所で景時を見かけたとき、冷徹なその表情にきっとそうじゃないと思った。
(だってね、私、景時さんのこと、結構見て来たよ?)
違う時空、違う運命で。やっぱり景時は悩んで苦しんでいて、そして一人で決めて、決めたことはけして覆さず、それはいつも仲間のためだった。
そっとその指で玉を摘み、陽に透かして見る。綺麗だと思った。とても、綺麗だ。この玉が望美の手に戻ったとき、最初に感じたのは絶望だった。けれど、今は違う。この玉は、今も変わらず望美と景時を繋ぐ絆なのだと思う。
(景時さんは、自分の代わりにこの玉を私に送ったんだと思うの)
せめて望美を護る象徴である玉だけでも、と。そして、望美はこの玉が自分の手にあることで、景時との絆を強く感じていた。地の白虎は景時以外には有り得ない。そして八葉であろうとなかろうと、自分が好きなのも景時以外に有り得ない。望美の手の中の玉は、景時との絆が消えた証ではなく、彼と未だ繋がっている証だと今は思えた。
何度も切れてしまったと思った景時との絆を、その度に運命をやり直し望美は紡ぎ直してきた。
(だから、こんなくらいでは切れないくらい、強い絆があるって私は信じているの)
そして、今度こそ間違えない。あの夏の日に景時を止めることができなかった。景時一人に、辛い決意をさせてしまった。今度は間違えない。
次に相まみえるのが戦場だとしても、剣を交わすことになるのだとしても、きっと景時を今度こそ、止めてみせる。
戦に勝つことが目的ではなく、平泉を焼かないことが一番の目的でもなく、そんな自分こそ仲間を裏切っていると言えるのではないか。そう思いながら、それでもなお景時を思う。
(今度こそ景時さんとの絆を断ち切らせたりしない。そう決めたの)
壇ノ浦からずっと、後悔し続けてそれでもこの運命を歩んできたのは、彼を諦めないため。けして、諦めない。
玉は望美のその強い思いに応えるかのようにゆらゆらと淡い光を放っている。



平泉の重い雪空にも、そろそろ慣れてきたかなと景時は思った。雪が降れば戦の状況も変わる、雪の中での行軍は厳しいものになるだろうし、そうでなくとも早く終わらせてしまいたい。景時にとってみれば、この戦は自分の望みを果たすためのもので、鎌倉から連れてきた多くの兵たちも今の景時にとってみれば、その望みを果たすための駒だった。そんな考え方ができる自分がたまらなく嫌いだが、それでも、誰を犠牲にしようとも助けたい仲間がいるのだから仕方がない。所詮、既に血塗られている自分の手が、これ以上汚れたところで何を気にする必要があるだろう。頼朝は平泉を落としさえすれば、九郎一行の身は景時に預けると明言した。それで、少しだけ気が楽になったのも確かだ。奥州藤原氏が本当に鎌倉と対立する覚悟を持ち、九郎のためにもこの土地を焼くことも辞さぬというのであれば、戦がどういう結果となるにせよ、仲間は助かるだろう。 最近の、それが癖のようになっている鎖骨の間へ指を這わせて、やはりそこに玉はもうないことを指先で知る。
(……玉がある間はそんな意識したことがなかったのになあ。
 なくなった途端に、逆にその存在を意識するなんてね)
ぴりぴりと灼けるような痛みを時に感じる。けれどそこには何もない。まるで失われた宝玉に責められているようだと思う。けれど、他にどうすれば自分が彼女を護れただろう。彼女を裏切ることでしか、彼女を護れない。玉が自身の身から離れたときは、やはりという気持ちと同時に少しほっとした。八葉の証が身にあれば、政子の目を誤魔化すのに苦労しただろう。もはや八葉であることを認められなかったとなれば、神子を捨て鎌倉についたと信じさせることもできる、と。
望美の手の中に戻った玉は、今はどこにあるのだろう。誰か違う宿り先を見つけただろうか。あるいは今も望美の手の中にあるのか。
(望美ちゃん……)
夏の日、抱きしめた華奢なその身体に奥州までの旅路は厳しかっただろう。伽羅御所の前で見かけたその姿は変わらず凜と気高かったけれど。
戦になれば、九郎や望美のことだ、平泉勢にのみ戦わせることを良しとせず自ら剣を取って戦おうとするだろう。戦場ともなれば、景時が全ての場を統率することは難しい。九郎一行は生け捕りにせよと厳命したところで、乱戦となればどうなるともわからない。だからこそ、一刻も早く戦を終わらせる策が必要だ。囮を使い、策を弄し、味方を欺き、そんな自分が厭になる。もっとも、これまで自分に誇りを持てたことなど一度としてないのだから今更だが。
(ああ、それでも――自分が八葉だと知らされた時は……)
ほんの少しだけ、誰かに認められた気がした。異世界からやってきた神子を護ろうと思った。
(結局、それも無理だったし、玉も離れたし、間違いだったってことなんだろうな)
何処まで行っても、オレは所詮オレでしかない。それはほろ苦いつぶやきだった。そんな自分が神子を好きになるなんて、そもそも大それたことだったのだ。
感傷に浸っているせいか、今日は特に、玉があった場所が痛んだ。それは自分が裏切り者であることの証のようであったけれど、今となってはささやかな喜びとも言えた。
――なぜなら、かつて自分が、確かに彼女と繋がっていたことの証でもあったから。





氷原を聴いて以来、やっぱり十六夜記を書きたいな〜と思っています。
これまでも単発で書いてましたが、じっくり書いてないですものね
辛いことも多いのですけど、やっぱり十六夜記も大好きです。



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