なによりも大切なもの


 雪の中で私はずっとあの人の姿を探している。何故、ここにあの人がいないのだろう、といつも思っている。心配かけちゃいけないから、誰にも言わないけれど、冬の景色のせいでもなく、冷えた気温のせいでもなく、積もる雪のせいでもなく、心が寒いのは、ここにあの人がいないから。何故、こんなことになってしまったのだろう。皆もふとした時に、きっと感じている。本当は、ここに居なくてはならない人が、ここにいないという不自然さを。
 心が苦しくて泣きたくても泣けなくて、でも、それはあの人が裏切ったということのせいではなくて。心の奥ではまだあの人を信じているから、ここにあの人がいないことが哀しい、それだけ。何時からそう覚悟していたのだろうと思い出す毎に、あの人の辛そうな顔を思い出して、悔しくなる。私は気付くことができたはずなのに、と。
 雪の中だというのに、ふわりと花のような薫りが漂ってくる。梅の花を模した香り。あの人が好きだと言った春の薫り。春の薫りは雪の中だというのに私の身体さえも暖かく包む。切なさに目の奥が熱くなる。ぎゅっと自分の身体を抱きしめて、あの日にあの川辺で強く抱きしめられたときのように、強く抱きしめて、どうしてこれがあの人の腕じゃないのかなって考える。


「………ちゃん………みちゃん、望美ちゃん」
「……ん……景時さん……?」
半ば寝ぼけ眼で望美は自分を抱え込んだ景時を見上げた。景時の膝の上に抱え込まれ、彼に凭れて微睡んでいたらしい。
「えーと、映画終わっちゃったけど……ラスト、どうなったか教えた方がいい?
 それとも、途中から見直す?」
 天気のあまりはっきりしない休みの日の午後、無理に外に出ることもないかとばかりに、景時の部屋で二人してビデオを観ていたのだ。それをリクエストしたのは望美だったが、景時に凭れて見ているうちに、映画よりも凭れた人の心地よさにうとうとしてしまったらしい。
まだ半分夢の中のような望美の髪を優しく撫でて景時はそっとその睫毛に口づけた。
「睫毛が濡れてる。……何か、哀しい夢でも見てた?」
心配げに覗き込む景時を望美はしばらく無言で見上げていたが、やがてにっこり微笑むと、再びその胸に顔を埋め、強く抱きついた。
「いいんです、目が覚めたらとっても幸せな気分になったから!」
夢の中にも漂ってきた春の香りは、景時本人のものだった。そう再確認して息を吸い込む。こちらの世界に来て、服も食事も随分とこちらの世界風に馴染んだけれど、焚きしめる香りだけは梅花の香を彼は変わらずに使っている。
「の、望美ちゃん〜」
戸惑うような困ったような景時の声が頭上から降ってくるが望美はお構いなしだ。随分と長く会えない日々を過ごさなくてはならなかったのだから、景時が困るくらいべったべたに甘える権利が自分にあったっていい、と思っていたりする。特に、今みたいな夢を見た後は。
「コーヒーでも淹れて来ようかって思ったのに、これじゃ動けないでしょ?」
困ったようにそう言いながらも景時の腕も望美の身体を緩く抱きしめてくる。
「こうしてるのに飽きたら、私が淹れますから。それとも、すぐに飲みたいですか?」
全く離れる気配も見せずに、望美がそう言うと景時の困ったような笑い声が聞こえた。その振動が望美にも伝わってくる。
「参ったなあ〜……そりゃ、コーヒーか望美ちゃんか、って尋ねられたら
 望美ちゃん、に決まってるじゃない?」
「何、その『参ったな〜』っていうのは?」
「や、えーと、それはその、口癖みたいなものっていうか、深い意味はないんだよ〜」
わかっていて、ちょっと意地悪くそんな風に言ってみただけなのだが、思いのほかに慌てたような景時の答えに望美が笑いを零す。
「あ〜、望美ちゃん……ひどいなあ」
ぺろりと舌を出して望美は首を竦めた。けれど全く悪びれた様子は見せずに、ちょっと身体を離して景時の顔を見上げる。
「んっふっふ〜、こんなことでひどいなんて言っちゃ駄目ですよ〜。
 今日はもっとひどいことしちゃうつもりなんだから!」
とびきり嬉しそうな笑顔で、物騒なことを言われて景時がどうして良いかわからないような顔になる。
「今夜は、私の手料理を景時さんに食べさせちゃいますー!
 覚悟してくださいね」
言われた内容と『ひどいこと』が結びつかない景時は相変わらず、目をぱちくりとさせたままだ。それから徐々に頬が赤くなってきて、望美の顔を見つめていたのに恥ずかしそうに顔を伏せてしまう。
「……あぁ〜ホントに、望美ちゃん、君ときたら……」
「ひどいでしょ?」
嬉しげに畳みかけるように望美が言う。
「言っておくけど、譲くんみたいにお料理上手じゃないし、家庭科の成績もアヒルさんだし
 目玉焼きは作れるけど卵焼きは作れないし、サラダは作れてもお浸しは茹で過ぎちゃうし
 シチューもカレーも鍋底を焦がすし、味噌汁は薄いし、そんな私の手料理を食べさせちゃうんだからね!」
「そんなの! なんだって美味しいよ。オレきっと何食べたって感動しちゃうよ、ほんとに」
「…………景時さんの方がひどいこと言ってない?」
「あーあー、いや、そういうつもりじゃなくてっ」
やっぱりわかっていて、望美はちょっとだけ意地悪い言い方をしてしまう。表情豊かに大げさに慌てる顔が好きなのだ。照れくさそうに笑う顔も好きだ。寂しそうに微笑むときは、何が何でも傍にいてぎゅっと抱きしめたくなるし、でも、一番好きなのは、嬉しげな満面の笑顔だと思っている。一番、見たくないのは想いを殺した無表情な顔。もう、あんな顔は二度とさせないつもりで、望美は景時の側にいる。
「じゃ、もうちょっとしたらコーヒー飲んで、それからお買い物に行きましょう!
 そうそう、さっきのビデオの最後どうなったのか、夕食のときに教えてくださいね?」
「御意〜ってね」
笑顔に笑顔を返して笑い合って。
「じゃあ、景時さんは何が食べたいですか? なんでも作りますよ。あ、でも難しいのはなしで」
なんでも、と言ったその後から既に条件がついてくるのに笑いながら、でもここで何でもいい、と言うとまた怒るかなあ、などと景時は考える。それでもやっぱり、それ以外の答えは考えつかなくて
「望美ちゃんが作ってくれるものだったら、何でもいいよ」
と言ってしまう。案の定、望美は頬を膨らませて景時の胸をぽかぽかと叩いた。
「もう〜! 何か好きな食べ物とか、食べたいものとか言ってくださいよ」
「わかったよ、わかった、え〜と、ええと……」
とはいえ、実際、景時もまだこちらの食べ物に造詣が深いわけでもなく、いきなり言われてもアレが、と思い浮かばないというのも本当なのだ。
「あ、ああ、じゃあ、ほら、あれ、おむらいす!」
それは京で譲が良く作ってくれたメニューでもあって、白龍はもちろん、九郎たちも好きだった。そんなことを望美も思い出したのだろう、ちょっとだけ間があって、それから
「はい、じゃあオムライスね! それに、サラダをつけましょう。それからデザートも買っちゃって」
と言いながら指折り、買うものを考え出す。その様子を見つめながら、景時が呟く。
「……いいのかなあ、ほんとに」
「? どうしたんですか? オムライスじゃないメニューにします?」
「そうじゃなくてさ……」
溜まらないという様子で、今度は景時がぎゅっと望美を抱きしめる。されるがままに引き寄せられて、望美は自分の肩に伏せられた景時の頭を撫で、耳に囁いた。
「じゃあ、何が不安なんですか?」
「……不安、なんじゃなくて、さ。」
「オレ、こんなに幸せでいいのかなあってさ。
 君のこんな傍にいて、君に触れて、なんだか本当に溜まらないくらい幸せで
 それでいいのかなって思っちゃうんだ」
もう、と望美が景時の耳元で溜息をついた。それからぐい、と景時の頭を上げさせてその顔をじっと見つめる。
「あのね、景時さん」
不意に真面目な顔になった望美に、景時も「うん」と頷いて神妙な顔になる。
「こんなこと、言いたくないけど、私、随分と寂しい思いも悲しい思いもしました」
「……うん、ごめんね」
そっと景時は望美の髪を撫でる。
「だから、私にはそんな思いをした分、権利があると思うんですよね」
「……うん、君を悲しませた分、オレは君を幸せにするよ、そう、約束する」
なのに、オレばかり君から幸せを貰ってる気がするんだ、と景時は口の中で呟く。しかし、そんな景時を唇を尖らせて望美が上目遣いに見上げて首を横に振る。
「……違いますよ。私には、景時さんを幸せにする権利があるんです。
 そして、景時さんは、幸せになる義務があるんです」
それは逆じゃないのだろうかと景時は考えるように眉を寄せる。その眉間に出来た縦皺を望美は人差し指でとんとんとつついた。
「何か私、間違ったこと言ってます?」
「や、あの……君が辛い思いをしたのに、オレが幸せになるのが義務なの?」
さっぱりわかっていない顔の景時に、仕方ないなあというように望美はゆっくり言い聞かせるように言葉を続けた。
「あのね、景時さん。私は、景時さんが幸せでいてくれないと、幸せじゃないんです。
 だから、私は景時さんを幸せにする権利があるの。辛い思いをしたんだから、景時さんを幸せにして私も幸せになるの。
 そして、景時さんは、私を幸せにしたいって思ってくれるなら、幸せになってくれなくちゃ、駄目なんです」
ね? と望美がにこりと笑う。戸惑うようにつられて微笑んだ景時だが、頼りない顔で
「……うん、なんだか、わかったような……わからないような」
と言う。その言葉に、再び望美が拗ねたように唇を尖らせる。そこへ、景時が不意打ちのように触れるだけの口付けを落とした。そしてそのまま望美の額に自分の額を寄せて囁く。
「でもね、間違いなくわかったこともあるよ。
 君がオレをとても愛していてくれること。
 オレも君を何より誰より愛しているということ。
 ……それから、オレがとてつもなく幸せだっていうこと」
その瞬間、望美はとても満ちたりた笑顔で微笑んだ。
「……それが、わかってるなら、いいんです。私も、わかってますから」
何より大切なこと、誰よりも大切なひと、何より大切なもの。それがわかっているなら、大丈夫。
「さあ、じゃあ、コーヒー淹れてきましょうか、お買い物も行かなくちゃいけないし!」
切り替えたように望美が立ち上がろうとすると、今度は景時に引き止められる。
「景時さん? コーヒー淹れてくるのに、これじゃ動けないですよ?」
「こうするのに飽きたら、オレが淹れてくるから。それとも、今すぐ飲みたい?」
先ほど自分が言った台詞を返されて望美は、仕方ないなあと言いたげな顔で景時に身体を預けた。
「コーヒーか景時さんかって言われたら、景時さんですからね」
でも、お買い物行くの遅れたらその分夕食が遅れますよ、と一応言ってみる。
「おむらいすの代わりに望美ちゃんでもオレは幸せ」
「……バカ」
そう言ってみせたものの、嘘のない笑顔と言葉に望美が怒ることも逆らうこともできるはずもなかった。
そして予定よりも随分と遅い時間に二人はオムライスを頬張ることになったのだった。ちょっとばかりケチャップを入れすぎたチキンライスと少しばかり半熟の卵のオムライスは、それでも幸せな味がすると景時が笑って言った。


 その夜、景時の腕の中でまどろみながら、望美はまた平泉の夢を見るだろうかと一瞬恐れた。しかし、自分を抱く腕を感じて安心する。何度夢に見ても、それはもう夢でしかない。目が覚めれば大切な人は確かにここにいてくれる。幸せを与えてくれる。夢でなくても、この町に雪が降る季節になれば、自分も景時も思い出すことがあるかもしれない。でも大丈夫、何より大切なものも大切な人も、確かにここにあるのだから。
 望美は擦り寄るように景時に寄り添って安心して眠りに落ちていく。眠りに意識が沈む直前に、梅花の香りを感じたのは気のせいではないだろう。


END




十六夜記を終わったところで、意味がなくてもオチがなくても
甘くて幸せな十六夜ED後の二人を見たくてたまらなくなりました。
ルート中の二人も書きたいと思いますが、でも何よりもまずは幸せになった二人を!



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