その家を新居に選んだのは、縁側と小さな庭があって、そこに梅の木が植えてあったからだ。住む人がいなくなった古い家を取り壊したけれどその梅の木がもったいなくて庭は残して建て直したという家は、木の香がしてどこか懐かしかった。
「前に住んでいた人が丹精していたんだろうね、立派な木だよ」
まだここを新居と決める前、初めて案内されて見学に来たとき、庭の梅の木の幹に手を当てて景時が言った。ほとんど一目ぼれに近いような状態で、望美も景時もこの家が気に入ったのだ。それからはトントン拍子に事は進んで、今ではすっかり二人の家になっていた。天気の良い日に庭で洗濯を干す景時を見ていると、遠い時空を隔てた世界でのことを思い出す。京邸とは比べるほどもない小さな庭ではあるけれど、それでも今の二人にはちょうどいい気がした。そんな望美の視線に気づいたのか、景時は望美を振り返って笑いかける。
「ねえ、もう少し、何かこの庭に植えようか。花が綺麗なものがいいね。梅の次に咲く花とか…梅みたいに実が楽しめるものだといいかなあ?」
「景時さんってば。家庭菜園でも始めちゃいます? 野菜よりは果物の方がいいかなあ」
望美がそんなことを言うと景時はしばらく考えて言う。
「じゃあ今度は蜜柑でも植えようか」
「ああ、それもいいですね! そしたらこの子、蜜柑が好きな子になりそう」
望美が自分の腹を撫でながらそう言うと、今度こそ景時は大きく驚いて望美を振り向いた。
「え、え、ええっ?!」
その景時を見て望美が満面の笑みを浮かべた。その表情ですべてを悟った景時が茫然とした顔をして、それからなんだか泣きそうな顔になって言った。
「……オレ、いいお父さんに、なれるかなあ…?」
もちろん、景時のそんな言葉は全く杞憂に過ぎず、望美にはちゃんとわかっていたことだが景時はとても良い父親だった。子どもと遊ぶことも大好きだったし、子どもを諭すことも上手かった。彼の知ることを教えることも上手だったし、時には一緒に洗濯さえ楽しんでいた。
キラキラと庭の緑を輝かせる光が眩しい季節、景時は子供と二人して庭に水を撒いていた。庭木に水をやるはずが、二人していつの間にか遊びに変わっている。
「もー、仕方ないなあ」
そう言いつつも、望美はまあいいか、と二人の様子を見遣ると、庭の梅の木を見上げた。毎年きれいに実をつけるこの木の実は今年もそろそろ収穫時だ。縁側から乗り出して、その枝に手を伸ばそうとした望美に気付いた景時が慌てて駆け寄ってくる。
「のっ、望美ちゃん!! 危ない、落ちるっ!」
その声の勢いに押されて望美は手を引っ込めた。
「もー、景時さん、心配性! 大丈夫ですよ、もう何年もここに住んでるんですから、どれくらいで手が届くとかわかってますって」
「万が一ってことがあるでしょ、大事にして気にし過ぎってことはないんだから」
両親の騒ぎに、すっかり水浸しの姿になってさっきまではしゃいでいた子供も目を丸くして望美と景時の元へやってくる。
「もー。ただ、そろそろ収穫時かなあって思っただけですよ」
「大丈夫だよ、今年はオレと景季でちゃんと収穫するから。望美ちゃんは座ってできる仕事だけやって」
「もちろん、木に登ったりしませんけど、妊婦だって少しくらいは動いた方がいいって、わかってるでしょ?」
数年前、景季が生まれるときにそう言うことも学んだはずなのだが、相変わらず景時は望美に過保護だ。
「だめだめ、歩くのは仕方ないけど、縁側から背伸びはだめ! 景季と一緒に戦隊のEDダンスなんて絶対だめだから」
「ちょっとくらい大丈夫だって」
望美は唇を尖らせた。でも景時の大事にしてくれる気持ちは嬉しい。穏やかな日常が愛おしい。それも全て景時がくれるものだ。彼とでなければ掴み得なかった。
「じゃあもうホースは仕舞って、新聞紙と籠取ってくるから、そのまま続きで収穫しちゃう?」
「そうしようか、じゃあ、お願い」
景時は中へ戻っていく望美を見送り、景季を見遣る。
「さあて、景季、父さんとどっちがたくさん、梅の実を集められるか競争しようか」
この家に暮らすようになって、あの梅の実を毎年のように集めるようになった。最初は譲に教えてもらって景時が飲む梅酒と望美には梅サワーを漬けた。次の年は景時のお弁当に入れるようにと梅干しも漬けた。譲や将臣にお裾分けするのも例年のこと。梅の実を貰いにくる譲はともかく、梅酒が漬かった頃に取りに来る将臣は持って行く量も容赦ない。それでも、と望美はキッチンの下の戸を開ける。いくつか並んだ瓶の中で、少しだけ小ぶりなものが一本だけある。他より少し琥珀の色が濃いそれは、景季が産まれた年に付けた梅酒だ。
(…まあ、わかっていたけど景時さんって結構ロマンチストだよね。でも、そういうとこが好きっていうか、私も同じっていうか)
『景季が大人になったときに、お前が生まれた年の梅酒だ、と言って一緒に呑みたいな〜なんてね』
『景時さん、でも、景季がお酒飲めるようになるのって20年後ですよ?』
『熟成して美味しくなってるはず……と思うんだけど…』
当時の会話を思い出して笑みが深くなる。
「このサイズの瓶、今年はもう一本買ってこないといけないなー」
そう言って立ち上がると、景時が籠に梅の実を持ってやってくる。
「あれ、景時さん、その籠は? それに景季は?」
「将臣くんが来たんだよ、なんだか譲くんに、いつも貰ってばっかりだからそろそろ収穫時だし手伝ってこい、って言われたらしいよ。ほら、今年は望美ちゃんも大変だしさ。だから景季と将臣くんで今、続きを収穫中」
「そうなんだ! じゃあ遠慮なく将臣くんをこき使わせてもらいましょっか。今までの梅酒分と思えば安いものですもんね」
「望美ちゃん、相変わらず将臣くんには容赦ないねえ、幼馴染ってそういうところ羨ましいなあ」
「何言ってるんですか」
呆れたように望美が言うと、景時は悪びれずに笑って言った。
「いやだってさ、オレってそういう幼馴染って言えるような友人はいなかったしさ。途中で京に出されちゃったしね…」
そこで景時は言葉を止めて肩を竦めた。だいたい彼の考えることはわかる望美は少し怒った顔をして言う。
「……幼馴染じゃなくても、景時さんにはちゃんと九郎さんや弁慶さんっていう戦友がいたでしょ。ああいう、言葉がなくても分かり合うって感じ、私だって羨ましかったんですからね!」
その言葉に景時がちょっと驚いた顔をして笑い出す。
「ははっ…そんな風に思ってたの?」
それから、ちょっと口を噤んで、しばらくして話しだす。
「ほら、望美ちゃん、景季が出来たってわかったときさ、オレ、いいお父さんになれるかなあ、って言ったときあったでしょ。望美ちゃんは、間髪入れずに『当たり前です、景時さん以上にいいお父さんなんているわけない』って言ってくれて。オレはさ、親父にも武士としては二流だって失望されて京に出されたし、なんていうか…自分と親父の関係を思い出してちょっと心配になっちゃったんだよね。今度は、子どもに失望されたりしないかとか、まあ、色々。でも、なんていうか、君がそういうオレのこと、全然心配ないって笑って言ってくれるから、オレはオレのやり方で子どもの父親をやればいいんだって思えてさ、すっごく嬉しかった」
「でも、私が言ったとおり、景時さん、本当に素敵なお父さんになったでしょ? 景季もお父さん大好きっ子だし」
「うん……オレも景季が可愛くて仕方ないんだよ」
そのストレートな言葉には望美が少し驚いた。いや、景時が景季を可愛がっているのは傍目に見て十分わかることなのだけれど、こんな風に言葉にして景時が言ったことはなかったからだ。
「ホントにね、景季がそこに居るっていうだけで、もう十分親孝行してもらったって気になるんだよ。どうか辛いことや苦しいことがなく、楽しい毎日を過ごして欲しい、ってそんなことばっかり思っちゃったりしてさ。それで、オレの親父もそんな風にもしかして、思っていてくれたのかな、なんてふと思っちゃったんだよね」
「…景時さん?」
「ほら、オレって武士としての才能は早々に諦められて京に陰陽師の修行に出されたって言ったでしょ。ずっとね、父親の期待に応えられなかった、呆れられて諦められて、京に送られた、と思っていたけど、そうじゃなかったのかな、ってふと思ったんだよ。武術の修行を嫌がるオレに、父はもっと、オレらしく生きて欲しくて、生きやすい道を見つけてほしくて、京へ送ってくれたのかもしれない、と思ってさ。父もオレが景季を想うみたいに、オレのことを想ってくれていたのかもしれない、なんてね」
でもまあ、武家と、武士なんて職業がないこの世界とでは違うかもしれないけどね、と景時は言った。
「そんなことないですって! きっと、景時さんが思った通りですよ。お父さん、きっと口下手な人だったんですね。景時さんに上手く気持ちを伝えられなかったんです、きっと。でも、ほら、言うじゃないですか、親になって初めて親の気持ちがわかるって。だからきっと、本当に、景時さんがそう思った通りなんです」
「ははっ、ありがと。望美ちゃん。まあ、ホントにね、なんならオレももっと親父と酒でも酌み交わしたかったかな。だから、景季とは、ぜひとも、と思っちゃうね」
そして、次に産まれてくる子ともね、と付け加える。
「私もそのときは参加します。……ええと、梅サワーで」
「あははは…! いいね。そうだなあ、望美ちゃんとオレと、共白髪でさあ、子どもたちや、なんなら孫も一緒にさ、そんな日が来ると素敵だよね」
「もちろん、来ますよ、きっと」
顔を見合わせて微笑み合う。
そんな二人に庭から声がかかった。
「おーい、景時! 籠、取りに行くのにどんだけかかってんだよ、もうかなり採れたぞ!」
将臣の声だ。景時と望美は笑いあって、梅の実を入れる籠を手に庭へと向かったのだった。
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